2008年8月23日

今年の夏休みもバタバタと...

 

15日から6日間、夏休みを頂戴してました。

かっ飛びで里帰りして、

東京のヒートアイランドとは決定的に違う日差しの暑さと、

せわしないクマゼミの声に迎えられて、

墓参りにお寺へのお礼と、お盆の後始末だけは何とか手伝ってきました。

そんでもって職場に戻れば、例によって溜まった大量のメールに、宿題の数々。

辟易しながら、でもしょうがない。 やっつけてます。

 

この日記も10日以上空いてしまって、

気がつけば、夜には涼しげな風も吹きはじめ、

季節の変わり目は、いつも焦りを感じてしまう自分がいます。

いま僕は、何に人生の時間を費やしているのだろうか・・・なんて。

 

休み中に新聞記事で知らされた訃報が、少しそんな気分に拍車をかけたかもしれない。

自然農法の先駆者、福岡正信さん (愛媛県伊予市) が、

ついに逝ってしまったとの記事を、田舎で発見して。

 


8月16日午前10時15分、老衰とのこと。 95歳の大往生。

会社にも連絡が入っていて、弔電の手配などしたとのこと。

それほどの深いお付き合いがあったわけではないのだけれど、

僕らには、意識の底で常に存在する名前でした。

 

四国・愛媛の伊予に生まれ、若い頃は大規模農業に憧れ、

高知の農業試験場勤務時代には病害虫防除の研究に時を費やし、

戦後、伊予に戻って

「耕さない、除草しない、肥料も農薬もやらない」 自然農法を確立させた。

団子にした土に幾種類もの種を混ぜた 「粘土団子」 をあみ出し、

アジア・アフリカ各地での砂漠緑化に貢献した。

 

哲学や思想家の人として語る人もいるけれど、

僕のなかで記憶にある評は、「篤農技術の最高水準での完成形」 というものだ。

農業を愛し極めれば辿りつけるのか、僕には全然分からないけど・・・・・

福岡さんの思想や実践は、僕の日常からは整理しきれず、

これにのめり込んだら自分がおかしくなってしまうかもしれない、と思うほど

怖く、また魅惑的なものであるがゆえに、棚上げにせざるを得ないものだった。

 

   一年目は人間が種を蒔き、

   二年目は鳥が種を蒔き、

   三年目には、風や自然が種を蒔きなおしてくれる。

   そして、自然はおのずから完成されていく。

     ( 『 わら一本の革命 -総括編- 粘土団子の旅  』 より)

 

   農業は自然に即する営みである。

   そのためには、一本の稲を見つめ、稲の語る言葉を聴かねばならない。

   稲の言うことがわかれば、稲の気持ちに合わせて育てていけばよい。

     ( 『無Ⅲ 自然農法 (実践編) 』 より)

 

美しい到達の世界である。

しかし農民でもない自分が、こんな境地を生産者に強要してはならない、

と常に自戒もしていて、

僕のやっている仕事は、煩悩とたたかいながら日々を過ごす人たちと一緒に生きながら、

どこまで至れるか、が勝負なんだろう・・・と高慢な言い訳を用意しつつ、

いつか、素直な気持ちで、福岡正信師の園地を訪ねてみたいものだと思っていた。

 

そんな感慨を抱きながら、休み中に一本の原稿を書く。

千葉の 「さんぶ野菜ネットワーク」 から依頼された、設立20周年記念誌への寄稿。

振り返ってみれば、20年という時間は、やっぱり大変なものだ。

色んなことが思い出される。 稲作体験も、彼らとともに19年。

延べにして2千人を超える消費者を山武の田んぼにお連れした勘定になる。

僕自身にとっても、それだけのめり込めるフィールドが与えられたことは、

きっと幸せなことなのだろう。

山武の 「だっぺよ~」 軍団に感謝しつつ、書かせていただく。

 

それから、借りたまんまだったDVDを、ようやく観る。

6月に、遺伝子組み換えナタネの問題で西オーストラリアを訪問した職員の

社内報告会の模様を録画したもの。

7月29日の夜に行なわれたものだが、

その日は急きょ千葉の生産者のお母様のお通夜に出かけて、聞けなかった。

この話を、次にしたい。 

 



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