2008年12月アーカイブ

2008年12月30日

では、良いお年を。

 

皆さま。

色々と書き連ねてきましたが、今年はこれにて終了とさせていただきます。

今年も拙い、遅れ遅れのブログを呼んでいただいて、有り難うございました。

 

振り返れば、会社からの 「やりたい奴、手を挙げろ」 の呼びかけに、

「思いっきり硬派のブログに挑戦してみたい」 と言ってしまったのが昨年の春。

6月末からスタートして、あれから色々、

日々の出来事を中心に、思いつくままに書いてしまいました。

偉そうに喋りすぎたという反省もあれば、想像以上の過分な評価も頂いたりして、

つくづくと、やってみた者しか感受できない境地を得たような気がします。

 

今年の4月には新しい農産グループに配属となり、

さすがに無理かとも思ったのですが、周囲の方々に励まされ、続けることができました。

わずかでも与えられた正月休みに少し省みて、

また再開したく思います。

 

しばらく前に届いた、「上堰米」 。

福島県喜多方市山都町の山間地を流れる水路維持の作業ボランティアの

お礼にと送られてきたお米。

今年は若者たちの野菜セットにもつなげられて、よかったです。

 

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ピカピカのコシヒカリ。 棚田に感謝しながら、頂戴します。

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仕事始めは1月5日からとなります。

有り難うございました。

では皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

 



2008年12月27日

庄内から -最後の「雪の大地」と、蓮の花

 

秋田県大潟村の黒瀬正さん (ライスロッヂ大潟代表) から新聞記事が送られてきた。

12月20日付の朝日新聞山形版に掲載された 『旬』 というコラム。

タイトルは-

 

  純米吟醸 「雪の大地」

   面影揺れる 「最後の酒」

 

執筆されたのは清水弟 (てい) さん。 朝日の記者さんで、

僕も、有機農業関係の会合で何度かお会いしたことがある。

じんとくる一文なので、清水さんの了解のもと、ここで紹介させていただきたい。

 


  悲報は、秋田県大潟村の知人から電話で届いた。

  6月18日、鶴岡市羽黒町のS.Kさんがなくなった。 病院に駆けつけると、

  救急外来の廊下で仲間たちが青い顔をしていた。

  減反を拒み続け、減農薬無化学肥料の稲作にこだわった。

  笑顔の似合う、心熱き百姓は58歳だった。

  あれから半年、「純米吟醸酒・雪の大地」 に出会った。

  口に含むと、清冽にして深い味わいが広がる。

  雪と大地に連なる汗と涙と悲しみと大きな喜びとが腹に染みる。

  S.Kさんが 「自分が作った米で酒を造ろう」 と酒米・美山錦を作付けし、

  銘酒 「くどき上手」 の亀の井酒造を口説き落として造らせた酒だという。

  「でも今年が最後。 もう造れんからのう」 と聞かされ、うまさが切ない。

  「最後」 は別格である。

  かの北大路魯山人は、客人に土産を持たせ、うまさに感激した客が店名を尋ねても、

  「店はつぶれました。あの菓子が最後です」 などと答えたという。

  もう味わえぬと知れば、記憶はいつまでも残る。

  優れた料理人は、「言葉のごちそう」 にも心を配った。

  「雪の大地」 は720ミリリットルで1995円。 庄内協同ファームから3本求めて飲んだ。

  懐かしい笑顔が浮かんで消えた。

 

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S.Kさん - 斉藤健一さんの葬儀で飲んだ 「雪の大地」 は、哀しい涙酒だった。 

原料米の生産者を失って、このお酒の販売も3月をもって 「終了」 となる。

斉藤健一を知る方々には、どうか精一杯飲んでやってほしい。

彼の記憶とともに。

 

さて、庄内からは、ほのぼのとした話題も届いている。

みずほ有機生産者グループの荒生秀紀さんから。

 

夏に田んぼのビオトープに咲いた蓮の花を使って、造花作りをしています。

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山形は長い冬ですが、近所の友達と一緒にコタツを囲み、

世間話に花を咲かせながら楽しんでいます。 

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思い思いの布を使って、自分好みの造花をつくっています。

家の中が少しだけ賑わいを感じさせます。 

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夏の暑い時期、田んぼでお米と一緒に育った蓮の花を思い出します。

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荒生くんからのメールでは、今年の山形の冬は雪がない、とのことである。

でも今頃は大雪になっているのでは。

 

蓮の花で飾られたコタツを囲んで、あったかい正月になりますよう。

 



2008年12月24日

私の 「水俣」

 

さてさて、またもや数日の時間がたってしまったが、水俣での話に戻りたい。

生産者会議解散後、僕は一人てくてくと、ある場所を尋ねた。

財団法人 「水俣病センター相思社」。

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今ではほとんどお付き合いはなくなってしまったけど、

かつて、ここで1982年から10年ほど続いた、

水俣病と有機農業を学ぶフリースクール-「水俣生活学校」 というのがあって、

僕はその学校設立にあたっての出資 (債権) 者の一人だった。

大地を守る会に入る前の話である。

出資金額はたかが一口5万円だけど、まだペエペエの自分には、

とてもきつい、決意のいる金額だったんだ。

 (今でもしんどい額だけど。 いや、今なら出さないかも・・・セコクなったねぇ)

閉校になった後、出資金は返せないと言われてしまった。

 

というわけで、この地に来た以上、外すわけにいかない表敬訪問だったのだ。

べつに借金の取り立て、とかの意味ではなくて。

 


上の写真は、相思社のなかにある 「水俣病歴史考証館」 という建物。

水俣病の歴史を語る資料が展示されている。

元は、水俣病患者さんたちの自立を支援するために建てられたキノコ工場である。

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水俣病の歴史を解説するのは、ここでは省きたいが、

チッソ水俣工場から工場排水と一緒にメチル水銀化合物が水俣湾に流されたのは、

1932 (昭和7) 年から始まっていること、

その後不知火海 (八代海) 一円で水俣病が発生し、風土病とか言われながら

患者さんおよびその家族は婚姻などで差別された歴史があったこと、

水俣市が公式に水俣病を 「確認」 したのは1956 (昭和31) 年、

国がチッソ株式会社の排水による公害病として認定したのが1968 (昭和43) 年、

という時間があったことは押さえておいてほしい。

「水俣病」 が世に知られてから、すでに半世紀の歳月が流れている。

 

公害病と認定されるまで、いや認定されてからも、

日本の化学・軍需産業の発展を担った " 天下のチッソ " の城下町として栄えた

この町で、チッソと喧嘩することがどんな苦しみや迫害を伴ったか、

想像するだに辛いものがある。

そして悲劇は、より残酷な現実を世に送り出した。

母の毒を一身に引き受けて、母を救うために生まれたような

 「胎児性水俣病」 という病名を背負った生命の誕生である。

 

僕が初めて水俣病を知ったのは、中学生の頃だったか。

NHKの 「新日本紀行」 とかの番組で、水俣で奇妙な病気が発生している、

という報道だったように記憶している。

それが企業の排水による公害だったということになって、チッソの株主総会に

「怨」 の字を縫い付けた法被を着た漁民たちが攻め込んでいた。

僕も四国の片田舎で毎日海を見ながら生きていた者である。 連帯感を感じたものだ。

くわぁーっと胸が熱くなって、「よし、弁護士になってやる!」 と決意した。

いっぱい勉強しないとなれないと分かったのは、高校生になってからだったかな。

正義の味方だと胸を張っても、近道はないのだった。

諦めも早かったなぁ。 何たってテキは社会悪の前に、 「ベンキョー」 だったから。

 

ま、そんな与太話はともかく、

相思社を訪ねれば、「もうその頃のスタッフは残ってませんねぇ」 とか言われながら、

でもさすがに、元生活学校の債権者という威力だろうか。

栃木出身の高嶋由紀子さんという若い女性が丁寧に応対してくれた。

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患者さんたちの位牌を預かっているというお仏壇に、お線香を上げさせていただく。

この儀式は、今の自分への改めての問いかけである。

 

歴史考証館を見学させていただいた後、

水俣の今を案内してもらった。

 

ここは最も水俣病の発症が多かった茂道という地区。

当たり前のように佇む、海。

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海の神さんや山の神さんらと楽しく共存していた無辜な漁労の民が、

近代化という遠い雷鳴のせいで、なんで生きて地獄を見なければならないのか。

切なさが込み上げてくる・・・・・悔しいなぁ。

 

港々のいたるところにエビス様が、鎮座している。

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 エビス様は、漁師の安全と豊漁祈願の神様である。

僕の田舎では、エベっさんって言われてるけど-。

高嶋さん- 「はい。 こっちでもそうですよ。 エビスダニさんて、もしかして由緒ある・・?」

・・・・・いえ。 えべっさんとは呼ばれてたけど、べつに、ただの貧しいウチです。

ハァ・・・(つまんない) 。

 

ここが元工場の百閒 (ひゃっけん) 排水口。

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昭和の初期から30年以上にわたって、

70~150トン、あるいはそれ以上の有機水銀が垂れ流された。

堆積した水銀汚泥は、厚さ4メートル以上になっていたという。

1977年、県は汚泥除去をかねた湾の埋め立てを行なった。

工事期間14年、総工費485億円、失われた海58ヘクタール。

水銀ヘドロとともに、汚染された魚もドラム缶に詰められ、埋められた。

結局、誰が儲かったのか。 誰が負債を請け負っているのか・・・・・

 

その土地は現在、公園になっている。 公園に立つ記念碑。

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ここで2004年8月、石牟礼道子さんの新作能 「不知火」 が上演された。

台風も一日待ってくれた、とか。

その埋め立てられた海の上に立って、はからずも泣きそうになる。 

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この足の下に・・・・・もう、なんも言えねぇ。

 

高嶋さんはよく気のつく方で、「ガイア水俣」 にも立ち寄ってくれた。

大地を守る会では、乾燥アオサをいただいている。

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患者さんたちがつくった甘夏栽培の会 「きばる」 の事務局を務めながら、

いろんな水俣産品を販売して水俣の再生と活性化に尽力している。

右が藤本としこさん。 水俣市初の女性議員となった方。

隣のお二人は、高橋昇さん・花菜さん親子。 東京・世田谷から水俣に移り住んだ。

水俣は、ただの悲劇の街ではなく、その歴史ゆえに、

希望の意味を深く考えさせる力を持っているのかもしれない。

 

  「一生かかっても、二生かかっても、この病は病み切れんばい」

  わたくしの口を借りて、そのものたちはそう呟くのである。

  そのようなものたちの影絵の墜ちてくるところにかがまり座っていて、

  むなしく掌をひろげているばかり、わたくしの生きている世界は極限的にせまい。

 

  年とった彼や彼女たちは、人生の終わり頃に、たしかに、もっとも深くなにかに到達する。

  たぶんそれは自他への無限のいつくしみである。 凡庸で、名もないふつうのひとびとの

  魂が、なんでもなく、この世でいちばんやさしいものになって死ぬ。

 

  祈るべき天とおもえど天の病む

                         - 石牟礼道子 『不知火』 (藤原書店刊) より -

 

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2008年12月21日

現代の種屋烈士伝 -野口種苗研究所

 

さて、水俣の話を続ける前に、今日のちょっとした出来事を挟ませていただきたい。

 

埼玉県飯能市に、小さな種屋さんがある。

飯能の市街から名栗村 (現在は飯能市に合併) に向かう県道沿いの

小瀬戸という地区、並行して流れている入間川 (名栗川とも呼ぶ) との狭間に

その種屋さん、「野口のタネ・野口種苗研究所」 はある。

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玄関で出迎えてくれるのは、なぜか手塚治虫のキャラクター、

アトムくんにウランちゃん、そして火の鳥。

何を隠そう、ここのご主人、野口勲さんは、

手塚治虫が創設したアニメ制作会社 「虫プロダクション」 の元社員で、

手塚治虫担当の編集者だったという経歴の持ち主なのである。

ちゃんと手塚先生お墨付きの看板というわけだ。

 

で、日曜日になぜここを訪ねているかというと、

とある出版社の編集者とライターさんが、野菜の品種改良の世界についての実情を

知りたいということで問い合わせがあり、野口さんを紹介したというワケ。

そのライターの方とは6年前に米のことで取材を受けてからのお付き合いで、

今回久しぶりに仕事がらみでの連絡、「面白い人を知りませんか」 となったのだ。

 

とっておきの面白い人、知ってますよ。

大手の種苗メーカーに行く前に、この方の話を聞いておいて損はないはずです。

-ということでご案内したのだった。

しかもウチはここから少し奥に行ったところの、ご近所みたいなものなので、

自分でご案内しないことには面子が立たない、という事情でもあった。 


店内に並べられているタネの数々。

しかしこれらは、そこら辺のお店に並んでいるものとは、決定的に違う。 

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いわゆる固定種、つまりタネが自家採取できる品種が集められているのだ。

店主・野口勲さんが自称する 「日本一小さな種屋」 で、

細々と (失礼) 、しかし確固たる哲学を持って集められ、販売することで守られてきた、

文化の集積である。 どっかの研究所の冷蔵庫ではない。 農家に使われながら、

生き続けてきたタネである。 

「伝統野菜」とか言われて、ちょっとしたブームになっている地方品種もある。

それらが、野口さんがパソコンを駆使して自らデザインしたタネ袋に納められている。

 

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野口さんのタネは、ネットで購入できます。

家庭菜園されている方には、ぜひこういう個性的な品種にチャレンジしてみて欲しい。

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ご案内した編集者、ライターの方を前に訥々(とつとつ) と、時にちょっと短気に、

品種改良の歴史を語る野口勲さんである。

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話の内容は取材者のものなので、関係上、ここで解説するのは控えたい。

今日は大地を守る会でのタネを守るプロジェクト企画-「とくたろうさん」 の担当・秋元くんにも

同行してもらったので、エッセンスは 「とくたろう」 ブログでも語られることだろうし。

要するに、品種改良の歴史や科学的解説は、ややこしくて面倒くさいのである。

 

野口さんは、今年の8月に本も著している。

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発行は、創森社から。 定価は 1,500円+税。

 

取材インタビューの途中、中座して、タネ袋を眺めていると、先代 (二代目) の

庄治さんが声をかけてくれた。 大正3年生まれ、94歳。

目も耳もしっかりしていて、いろいろと解説してくれる。

その中で注目したのは、これだ。 発芽試験器-『メネミル』 。

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戦後の混乱期、不良品のタネが出回る中で、

仕入れたタネがちゃんと発芽するものかどうかを確かめるために、

庄治さんが考案した  " 芽と根を見る "  道具。 特許品である。

今も業界内で売れていると言う。

地方の小さな種屋さんが、農家や、自給菜園で食いつなごうとする人々のために

考え出した道具。 

どんなにシンプルなものでも、新しい道具というのは、

強い動機がないとなかなか生まれるものではない。

もちろん、自身の商売の信用維持ということもあっただろう。

ホームセンターも多いこの町で、

「タネは野口から買え」-そんな地元の声が今もあることを、僕は知っている。

 

庄治さんには、さらにもうひとつの  " 顔 "  がある。

詩人・野口家嗣。

若い頃には、西条八十に師事し、数多くの詩を残している。

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一年365日を、その時期々々の花や野菜や植物を題材にして詩を編んだ。

あるいは全国都道府県の花や木をテーマに歌を書いた。

「世界の花言葉を見るとね、その花に寄せた思いは実は同じものがあるんですね」

なんてすごいことを、さらりと解説してくれる。

地元の同人から出したものだろうか、簡易印刷で綴られた詩集も取り出してくれた。

『 野菜畑の詩集 -野菜作りも楽しい詩作り  』 

-めくってみれば、こんな詩がある。

 

  らっきょうの夢

    畑のへりの らっきょうも

    時を重ねて その根には

    ひとひら毎に 思い出の

    小さな夢も 秘めている  ...............

 

この人、なんか、すごくない?

帰ってから調べてみると、野口家嗣作詞の童謡がいっぱい検索された。

ただもんじゃなかった・・・・・た、大変失礼しました。

 

戦後の混乱期に、種屋の二代目を継いだ詩人。

発芽試験器なんぞを考案しながら、植物や花を愛で、旅をし、詩を詠んできたんだろう。

そして、人の営みと一緒に育くまれていく、文化としてのタネを売ることに

矜持 (きょうじ) をかけているかのような三代目。

 

すっかりF1品種に支配された時代、遺伝子組み換えまで来てしまった21世紀に、

庶民の手で受け継いでゆけるタネが維持されていることは、希望である。

思い切って、種屋の 「烈士」 と呼ばせてもらおうではないか。

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  (右端は勲さんの奥様、光子さん)

 

ちなみに、野口さんは、先日紹介した 『自給再考』 を編纂された

山崎農業研究所から、今年、山崎記念農業賞を受賞されている。

 

研究所の横にちょっとへんなバナナが植わっているのを、

僕はいつもこの前を通りながら見ていた。

今日は思い切って、聞いてみる。

これもきっと何か、研究目的があって・・・・・とか?

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野口家嗣翁、僕を静かに見つめて、曰く。

あなた、これはバナナではありません。 バナナはこの辺では・・・ (フッ)

これは、芭蕉です。 観賞用ですな。

それにそこは、お隣の庭です。

あっ......す、スミマセン・・・・・

 



2008年12月20日

火の国で九州地区生産者会議

 

17-18-19日と、九州は火の国・熊本を巡る。

17日から18日にかけて、水俣で九州地区の生産者会議を開催し、

その後、宇城市から宇土半島を走って三角、上天草まで駆け足で回ってきた。

 

まずは第12回九州地区生産者会議から。

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以前は各産地を回りながら年1回開催していたのだが、

ひと通り回った後で、今は隔年での開催となっている。

2年ぶりにお会いする生産者が誇らしげに息子さんを連れてきたりして、

東京で会うのとはまたひと味違った雰囲気を、現地での会合は醸し出してくれる。

 

今回の受け入れ団体は、肥薩自然農業グループ。

代表の新田九州男 (くすお) さん。 

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水俣市が認定する環境ファーマー。 有機暦30年、JAS認証も受けている柑橘農家。

 「水俣と言えば水俣病、と思われるでしょうが、それだけではありません。

  4年前には大規模な産廃処分場の建設計画が持ち上がり、

  みんなで反対運動ををやって、なんとか中止に追い込みました。

  水俣にはまだまだ潜在的なパワーが残っとります。

  ゴミは22分別です。 水俣を環境の町にしようと、皆で頑張っております。」

と、その名の通り力強い挨拶を頂戴した。

 


今回、記念講演をお願いしたのは、 宮崎大学農学部准教授・大野和朗さん。

演題は 「天敵の有効利用について」 。

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大野さんの持論は、ただ害虫の天敵を 「利用」 するというものではなく、

天敵の棲みやすい環境をつくりあげることにある。

例えば、除草剤を撒くとハダニが増えるが、

それは天敵の棲めない環境にしていることで、増やしてしまっているのだ。

害虫被害が増えているのは自然界の中ではなく、農薬を撒いているところ。

特定害虫の異常繁殖を防ぐ上でも、生物多様性の維持が大切である。

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日本の農業経営は、個々の農家を見れば、すでに単植栽培 (モノカルチャー:

特定の作物の生産に特化している) になっているようにも見えるが、

地域全体を見渡せば、まだまだモノではない。

田んぼもあり畑地もあり、よく見れば色んな作物が植わっていたりする。

地域という単位で多様性を考えたい。

 

だから大野さんは、大学の農場ではなく、農家の畑を借りて実験や実践を試みている。

講演では、具体的な作物に具体的な害虫の名前、それに対する天敵昆虫の育て方、

それらが具体的に語られてゆく。

 

1990年代以降の害虫発生の特徴は、

グローバリゼーションによる世界への害虫の拡散と、

農薬抵抗性の獲得。 しかもそのスピードが速くなってきている。

そんな中で、韓国で天敵利用が飛躍的に広がっている。

オランダはすでに農薬の使用量がピーク時の半分にまで減っている。

日本は、と言えば、天敵も農薬と同じ登録制にしたため (天敵=生物農薬という設定)、

販売するのは農薬メーカーであり、したがって高い。 

いわば農薬メーカーの独占を助けている状態である。

 

実は天敵昆虫は私たちの周りにいる。

どんな植物についているのかが分かれば、その植物と一緒に虫を育てることもできる。

だから、「雑草」 と言われる植物も見直されなければならない。

 

事例が具体的で説得力がある。

事務局ゆえ一番後ろの席に陣取っていたのだが、

みんなスゴイ。 集中して聞いているじゃないか・・・・・

 

大野さんは夜の懇親会にも残ってくれた。 生産者の質問が絶えない。

なかなかいい勉強会になったかと思う。

 

翌日は、肥薩自然農業グループの園地見学。

ここは代表の新田さんの柑橘園。

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デコポン(品種名:不知火) に河内晩柑、レモンにパール柑、温州みかん...

色んな品種が植わっている。

 

健康に育ったデコポンです。 

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肥料は、地域の山や竹やぶに棲息する土着の微生物をベースにした自家製ボカシ。

加えて、いろんな植物を付近から採取して黒砂糖と一緒に発酵させて作った

 「天恵緑汁 (てんけいりょくじゅう)」 という名の液体。 

自然の精気を凝縮させて動植物に栄養と活力を与える天の恵みというような意味。

これを葉面散布する。  

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天恵緑什については、いつかちゃんと紹介できるようにしたい。

韓国の自然農業中央会代表のチョ・ハンギュさんが考案したもので、

日本でもたくさんの人が取り組んでいる。

 

若手メンバーの吉田浩司さん。 

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なんと、弁護士を目指して法律の勉強をしていたのだが、その道を捨てて、

惚れた彼女の実家のみかん園を継いだという異色の経歴。

栽培技術については-「まったく知りませんでした」 。

それがかえって良かったのか、作業効率や将来を考えて、

園地の改造や改植 (品種の植え替え) を大胆にやってしまったのだという。

「お義父さんは肝つぶしたろうな」

「いやあ、娘に惚れて来てくれたんだし、みかん園も継いでくれたんじゃ、

 もう好きにせぇ!ってなもんじゃない」 -そんな会話で盛り上がる。

 

解散前に記念撮影。 

2年後、また笑顔で会いましょう。  いや、その前に、2月の東京集会で-。

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さらに残った職員で、他のグループを見て回る。

宇城市(旧:不知火町) の 「肥後あゆみの会」。 不知火の海を見下ろす柑橘園。

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代表の澤村輝彦さん (写真前列右の方) からは、

来年、すっごいトマトが出てくるはず。 楽しみしていて欲しい。

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続いて、同じ宇城市でも旧三角町の 「もっこす倶楽部」 を訪ねる。

写真は天草にある玉ねぎ畑。

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有機栽培だと、他の園地からの農薬の飛散にも配慮しなければならない。

見晴らしのいい、高台の上にあった。

畑の向こうには、お墓が気持ちよさそうに並んでいる。

玉ねぎも、今のところまずまず順調の様子。

 

玉ねぎ畑の後ろ (眼下?) は島原湾。 その向こうに見えるのは雲仙岳。

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天草四郎公園とかの観光名所を一瞥しながら、ひたすら畑を回る。

地方出張はいつもそう。 今度来るときはゆっくりと・・・とか思うのだが、

名所旧跡を眺める時間がとれたことは一度もない。

 

バタバタと走った三日間だが、実は18日の生産者会議の解散後、

僕は一人水俣に残って、半日ほど別行動をとらせていただいたのだった。

次にその報告をしたいと思う。

 



2008年12月16日

「自給率」の前に、「自給」の意味を

 

先日、一冊の本が送られてきた。

他のを読んでいた途中だったので、しばらく置いてしまったのだが、

なかなか刺激的で、日曜日に一気に読み切った。

本のタイトルは

『 自給再考 -グローバリゼーションの次は何か- 』

山崎農業研究所編。 発行元は農山漁村文化協会 (略称:農文協)。

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送っていただいたのは、その研究所の編集委員会代表の田口均さん。

田口さんは、当会も古くからお付き合いのある農文協の

出版物制作部門の会社にお勤めである。

田口さんとは、本ブログでよく登場する宇根豊さんが主宰する 「農と自然の研究所」

の会合などでもお会いしていて、何と、この日記もチェックされているとのこと。

嬉しいような、怖いような。

 

本書のテーマは、まさに書名の通り。

自給率向上が喧しく唱えられる時代であるが、ただ数字だけで何かを語るのでなく、

そもそも 「食の自給」 とはどういうことなのか、その意味を再考し、

ただしく捉え直してみようという試みである。

執筆陣は10名。

いずれも僕が尊敬し、あるいは注目している方々というのが、何より嬉しい。


まずは巻頭に西川潤氏 (早稲田大学名誉教授) を据えて、

世界の食料危機の背景を整理されている。

この半世紀での爆発的な人口増加とグローバリゼーションの進展は、

新興国の肉食化やアメリカのエネルギー戦略の変化、投機マネーの穀物への流入、

さらに世界的な農畜産業の工業化と生態系の悪化、気候変動の激化、

新しい感染症の発生・・・などなどと相まって、

グローバルに貧困を拡大させ、各地で暴動が起きるまでに至ってきている。

そんな世界的に食料危機が常態化しつつある時に、

わたしたち (日本) の食と健康はますます多国籍企業の影響にさらされていて、

「まことに憂慮すべき (心寒々とする) 状態にある」 。

しかしそれでも、地域自立を目指した動きがあちこちで始まっていることに、

希望をつなごうとしている。 もちろんその中に有機農業もある。

 

西川先生の国際経済論の講義は実は僕も受けたことがあって、

まったくお世辞でなく、僕が真面目に受けた数少ない授業の一つだった。

今なお一線でご活躍され、何よりです。

 

さて、すべての論考を解説してしまうととても長くなるし、

解説して読まれたような気になられると田口さんに叱られるので、

以下、タイトルと論者を列記することでお許し願いたい。

 

『貿易の論理、自給の論理』 -関 廣野

『ポスト石油時代の食料自給を考える』 -吉田太郎

『自然と結びあう農業を社会の基礎に取り戻したい』 -中島紀一

『 「自給」 は原理主義でありたい』 -宇根豊

『自給する家族・農家・村は問う』 -結城登美雄

『自創自給の山里から』 -栗田和則

『ライフスタイルとしての自給』 -塩見直紀

『食べ方が変われば自給も変わる』 -山本和子

『輪 (循環) の再生と和 (信頼) の回復』 -小泉浩郎

 

どの論も簡潔で、小気味よく、気合いが入っている。

関廣野さん (本当は「廣」の右に「日」偏がつく) の文章は久しぶりだけど (スミマセン)、

やっぱ名調子だなと思う。

  「世界貿易の課題は相互に必要な物資の交換でなく市場の無限の拡大にある」

  「対等な交換の見せかけをした恒常的な略奪」

  「食料危機は重大な問題ではあるが世界の現状は悲観すべきものではない。

   コロンブスの航海に始まる世界貿易の時代は終わりつつある」

  「貿易と自給をめぐる議論は最後には民主主義の再定義という問題に行きつく」

 

人類史の視点から自給を考えた吉田太郎さんも面白い。

  (いまの)米国農業は、収穫される食物1カロリーに対して、機械・肥料その他で

  2.5カロリーの化石燃料を燃やし、加工、包装、輸送も含めると、

  朝食用の加工品3600カロリーを作るのに1万5675カロリーを使い、

  270カロリーのトウモロコシの缶詰一個を生産するのに、2790カロリーを消費している

  「世界で最も非効率な農業」 だと・・・

 

吉田さんがこの論考で引っ張ってきている人類学という学問は、

「原始時代と現代とで、はたしてどちらが幸福か」 という問いを現代人に与えた。

僕もかつて読んだことがある。

  現代の進歩として考えられているものの大部分は、実は、先史時代に広く享受されていた

  水準の回復なのである。 石器時代の人びとは、その直後に続いた時代の人びとの

  大部分より健康な生活を送っていた。

  おいしい食べ物、娯楽、美的よろこびといった生活を快適にするものについても、

  初期の狩猟民や植物採集民は、今日のもっとも裕福なアメリカ人にしかできない贅沢を

  享受していた。 森と湖ときれいな空気の中で二日間過ごすために、現代では

  お偉方たちでさえ五日間働くのである。 当節は、窓の外にわずかな芝生を眺める特権を

  得るために、家族全員が30年間こつこつと働き貯蓄をする。

            ~ 『ヒトはなぜヒトを食べたか ~生態人類学から見た文化の起源~』

               マーヴィン・ハリス著、鈴木洋一訳 (1990年、早川書房刊) から

 

人類学とは、まったく嫌な事実を発見するものである。

しかし、石油のピーク・アウトが現実のものとして視野に入りつつある今、

次の 「どうやって食うのか」 は、とても切実な課題として迫ってきているわけで、

人類学の各分野から示されてきているヒト史からの教訓は、

大事な基礎データであることは疑いない。

 

そして、中島紀一さんへ。

  有機農業技術は、単なる無農薬無化学肥料栽培のための技術的ノウハウでも、

  有機JAS規格クリアのための技術集積でもない。

  有機農業の技術形成とは、近代農業からの転換を踏まえ、自然と共生する農業を

  それぞれの現場で創っていく過程だという理解である。

  有機農業のこうした新しい展開が、日本農業の未来にどのような現実を拓くことになるのか。

  取り組みはまだ端緒の段階にあり、その具体的未来像はまだ見えてきてはいない。

 

その未来像を生産者とともに切り拓くために、

僕は僕なりに、大地を守る会の新しい監査システムを指向しながら、

まずは有機JAS規格の向こうを目指したく思っています。

 

他にもいろいろ紹介したいところがあるのだけれど、

あとは、もしよかったら、書店かネットでお買い求めください。

グローバリゼーションがもたらした世界をわが暮らしとも関連づけて見つめ直し、

「自給」 という言葉を自分のものにするために、人が動き始めている。

そんな確信をもたらせてくれます。

 

気になったのは、各地で盛んになっている 「直売所」 を、

地産地消の成功モデルとして無造作に礼賛し過ぎていないか、という一点だろうか。

 



2008年12月13日

酒まみれのなかで、「光をつかむ」を考える

 

長いぬかるみ道のような一週間が終わった。

体は宙に浮いているようで重くもあり、記憶もどこか断片的に抜け落ちた感じ。

火・水・木・金と4連荘(レンチャン)で、忘年会や飲み会が続いたせいだ。

大人気ない飲み方と言われればそれまでだけど、

火曜日は後輩 (自分か?) のストレス解消に付き合ってカラオケまで行っちゃって、 

次の日は部署間の関係改善に気を使い、

その翌日は・・・・・東京での集まりにやってきた生産者に呼び出された。

「エビは俺たちの誘いを断るってぇの。 いつから何様になったんの?」

それは有機農業運動の黎明期を牽引した傑物の一人である

山形・米沢郷牧場の元代表、故伊藤幸吉さんを偲ぶ会に集まってきた

古手の生産者たちの夜の飲み会の席である。

ちなみに彼らオッチャンたちは、偲ぶ会と称して昼間から飲んでいる。

これが一番の供養よ、とか言いながら。

僕はさすがに仕事を優先させていただいたのだが、脅しに屈して、

夕方になって千葉から都心までのこのこと出かけたのだった。

 

飲んでるうちに藤田会長までが生産者を連れて合流してきて、

逃げるに逃げられない状態になってしまった。

みんなして、次は誰とか、あんたの弔辞は俺が読むとか言い合って騒ぐ始末。

僕も調子に乗って、前に藤田会長から言われた台詞を暴露してやった。

「エビスダニが死んだら、さすがに俺も泣くかもな」

・・・・・え? !! ええと・・・順番が違うような気がするんですけど。

泣くのは僕のほうでしょうよ。

これだから、団塊ってヤーね、つうの。 面の皮が厚すぎるんじゃない? とか何とか。

しかし、目の前にいたのはみんな団塊の方々だった。

お前には一生負けない、とか言われた。 一生っていつまでよ。

 

とまあ強がってみても、添加物世代とか言われた我々。

もしかしたら本当に泣かれたりして。 笑い事じゃないね。

 

そんな馬鹿な酒を飲んでしまって、翌日は、大地を守る会の農産物の栽培管理体制

についての監査を、吐きそうになりながら受けたのだった。 

 


まあ監査自体は、ジタバタしてもしょうがない。

普段の管理状態をそのままに見ていただくだけだ、と開き直りは早い。

監査に立ち会った認証機関のWさんも昨日の偲ぶ会には出ていたようで、

ちょっと辛そうな感じもしないでもなかったが、それ以上のコメントは

認証機関の名誉のために控えておきたい。

検査員さんはちゃんとチェックされていたことだけは補足しておくとして。

 

そんでもって、監査終了の開放感で、会社の忘年会に合流。

種蒔人を飲んで、一週間を終える。

 

いや本当は終わってないんだけど、宿題が色々と残ったのを気にしつつも、

今日はシラっと気分転換の日にさせていただくことにしたのだった。

こういう時も必要だよね。

 

今週一番の早起きをして、上野の東京都美術館まで。

明日で終わりとなる 「フェルメール展」 を観に行ってきた。

ずっと行きたいと思いつつ諦めかけていたのだが、やっぱり意を決して出かけた。

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9時半頃に到着した時点で約50分待ち。

出てきた時は2時間待ちという長蛇の列になっていた。

 

光を描いた天才画家、フェルメール。 実物の絵は、深遠で謎めいていた。

描かれた題材は、普段の生活の一片を切り取った、いわば 「風俗画」 なのだが。

人に揉まれながらイライラしたりして、

でもようやく正面に立った時は、周りも忘れて見入ってしまう。

 

絵画論には入らないのかもしれないけど、僕にとって出色のフェルメール論は、

別な視点からこの意味を語った分子生物学者、福岡伸一さんだろうか。

素人のつまらない感想など割愛して、紹介したい。

 

  人間の思考は、たった3歳の子どもでも、鼻というもののまわりに輪郭を作り出してしまう。

  つまり、私たちの思考というのは、人間の身体を、あるいは生命現象を切り刻んで

  「部分」 というものを取り出しているのです。

  しかし、「部分」 というものは生命現象にとって幻想でしかないのです。

  「部分」 を切り取るということは、関係を切り取るということで、

  それは動的平衡状態にある生命現象を破壊するということです。

  という意味で、生命というものに部分はないのです。

  そして全体として動的平衡状態を維持するための時間がそこに折りたたまれていく

  ということです。 だから、ここで私はあえてそれを個別には批判しませんが、

  ES細胞が、あるいはⅰPS細胞が、あるいは遺伝子組み換え操作が、

  どこかおかしな操作、その操作が美しくないというふうに思える根拠は何かというと、

  それはそこに非常に人工的な部分というものを想定して、それを切り出しているから。

  そして、そこに流れている時間というものを無視しているからではないかというふうに

  私は思えます。

  1660年頃にフェルメールという有名な人が描いた 「真珠の耳飾りの少女」、

  あるいは 「青いターバンの少女」 と呼ばれている絵があります。

  フェルメールには鼻に輪郭を描いていません。

  あるいは、顔や服にも別に黒い線で輪郭を描いていません。

  すべてが光の粒の出入りで描かれています。

  今から350年前、フェルメールは、現在私たちが生命を見ているのと違う見方で、

  より生命をきちんと理解していたというふうにも考えられるわけです。

       -日本有機農業研究会報 『土と健康』 08年6月号所収の講演録より-

 

光の粒とは、すべての生命循環の根源=太陽エネルギーである。

光の粒が、少女の微笑や日常の空間を、

まるですべてに意味があるかのように表現して、永遠の生命力を与えている。

光の粒が・・・・・

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午後は、やっぱり宿題が気になって会社に急いだ小心者だけど、

まあ、いい休養の時間をいただきました。

 



2008年12月 4日

土と緑と太陽と (続)

 

さんぶの20周年記念誌には、関係者の祝辞に交じって、

生産者たちの悲喜こもごもの思い出が綴られていて、

ついニヤついたり涙目になったりしながら眺める。 酒と一緒に・・・。

 

こんな歴史も記録されている。

90年2月、まだ組織も生産も安定しているとは言い難いのに、

山武町長宛てに 「地元の給食に有機野菜を」 と直筆の要望書を送りつけているのだ。

その一文がそのままの形で掲載されているのだが、

まるで脅迫状のような文面である。


   ご承知のように食料の7割をも輸入に依存する日本では収穫後の農薬散布等による

   食品汚染の問題はとうてい避けて通るすべはありません。 .........

   この現状の中で考えられることは、私達はあまりにも食べ物に対して

    " あなたまかせ "  でありすぎたのではないでしょうか。 .........

   これは果たして農業者のみの問題でありましょうか。 経済の論理のみに従い

   自由化によって安くなることが本当に消費者側に有利とだけ考えてよいものでしょうか。

   ......... ことは即、いのちにかかわってきます。 (後略)

 

そこで一日も早く 「有機農産物の生産が広く行なわれるよう図ること」、

そして 「山武町の保育園、小中学校の学校給食に供給されるよう計画してください。」

と結ばれている。

そして、それがなんと、2ヵ月後に実現しているのである。

町長は身の危険を感じたのだろうか。 シモヤマ恐るべし・・・・・

 

あれから有機ほ場も拡大し、取引先もどんどん増え、

日本農業賞や環境保全型農業コンクールなどで表彰され、

国の有機認証制度には強烈に反対しながらも、

「問題は俺たちの取り組み姿勢をきっちりと証明してみせることだ」 と

システム認証に取り組み、有機JASをいち早く取得した。

そして今年の有機農業推進事業でのモデルタウン指定である。

 

新しく作られた 「山武市有機農業推進協議会」 のパンフレット。

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新規就農者、来たれ。

ホームページは http://www.sanbu-yuki.com 

 

なんとかここまで来たね。

" 奇人・変人 "  から、地域のリーダーに。

あの頃から俺たちには確信があった。 いずれ有機農業が地域を救う時代が来るって。

そう言いながら飲んでたよね。 ああ、今井さんに見せたい、見てもらいたい。

でもそんな感慨はもっと先に置いて、まだまだ進まないといけない。

頑張りましょう、もうちょっと。

 

記念誌には、大地を守る会の消費者会員の方も4名寄稿されている。

それがなんと皆さん、『稲作体験』 を経験されている方たちであった。

なかでも、レストラン 「THE WAKO」 の総料理長、鈴木康太郎さんも

参加されていたとは、記念誌の原稿を見るまで知らなかった。

   今思うと、その時の山武の生産者の皆様のお話中の、土地に対する愛情、歴史、

   稲作のこと、農家という生業、そして農政にまで話がおよび、

   実に有意義な時を過ごさせていただいたことが、

   私の料理観が変わるきっかけになったように思われます。

   そして、職を深めていく中でたどり着いたのが

    「料理はフィールドにあり」 ということでした。

 

「料理はフィールドにあり」 -すばらしい言葉を、ありがとうございます。

 

初代部会長・故槍木行雄さんの思い出を、妻・静江さんが寄せている。

   過ぎてしまえば早いもので、無農薬有機部会を始めて20年になるのですネ。

   夫が農薬の臭いを嗅ぐと頭が痛くなるナーなどと話をしていた矢先、

   農協の下山さんから無農薬栽培の話を伺い、栽培を始めることになりました。

   思い返せばいろいろなことがありました。

   供給先の 「大地」 の名を一番最初に知ったのもこの時でした。

   虫食いだらけの大根、葉の黄色くなったカブ (肥料が足らず)。

   今では考えられない様な品まで全部買い取ってくださいました。

   来年こそは、今度こそはと良い品を無農薬有機栽培で作らなければと思い、

   作付けの時期や作り方など、それなりに勉強しながら皆さんと励んできました。

    ・・・・・・・・・・

   夫が役で出掛けた時など一人で夜遅くまで荷造りに追われた事がありました。

   慌てない夫と、せっかちな私はいつも夫の後ろで振り回されていたような気がします。

   あの頃はまだ若かったので苦にもならずに頑張れたのでしょう。

   無農薬有機栽培を 「始めたからには笑われないようガンバッペよ」 と言った

   雲地幸夫さんの言葉が忘れられません。 初代代表が勤まったのも

   そういう人達のバックの支えがあったからこそと思っています。

   夫と過ごした42年の歳月、その半分あまりを有機部会と共に歩ませて頂きました。

   夫は最期に 「いい人生だった。 俺はラッキーだよナー 」 と言い残し、

   家族の皆んなに看取られて、孫たちの 「おじいちゃん、ありがとう」 の言葉に送られ、

   眠っているような安らかな顔で逝きました。

   ・・・・・・・・・・

   無農薬有機栽培を通して、多くの人達に出会い、いろいろなことを学びました。

   今の世の中になっても何を食べさせられているのかわからない行政のやり方、

   安全で安心して食べられる作物が人にとってどれだけ大切であるかを知り、

   その作物を作っている私たち生産の流す汗が一番に報いられる魅力ある職業に

   なれることを祈らずにはいられません。

 

真摯でいつも優しかった行雄さんに、静江さんあり、ですね。

 

現部会長の富谷亜喜博さん。

   今年20歳になる息子が夜になると出かけていく私を見て、

   「お父さん、また農協?」 と言われ続けた20年でした。

 

息子がその意味を理解する年代まで、頑張ったってことですよ。

この文集発行も含めた20周年の記念行事は、

それこそ若い世代の人達が中心になって進められたと聞いている。

いま後継者を育てているのは、間違いなく有機農業の世界である。

しかしそれでも、耕作放棄地は増え続けている。

 

先達から若手に、いい形でつながなければならない。

俺たちの世代の正念場がきている・・・・・か。

しみじみと感慨に耽りながら小冊子を閉じて、気合いを入れ直す。

 



2008年12月 3日

土と緑と太陽と -有機20年

 

千葉のJA山武・睦岡支所園芸部内に 「有機部会」 が設立されて20年になった。

いつも 『稲作体験』 シリーズなどで登場する 「さんぶ野菜ネットワーク」 は、

この部会を母体に独立した形で結成されたものだ。

メンバーの生産者たちは今も部会員として組織を支えている。

そこで、設立20年を記念して小冊子がつくられた。

しばらく前に届けられていて、すぐにも紹介したかったのだが、

なにぶんにもモタモタと続けるのがやっとのブログで、遅れてしまった。

 

『土と緑と太陽と』 -有機部会設立時からのキャッチフレーズだね。

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大地からも、藤田会長はじめ何人か (僕も) 寄稿させていただいた。

提供した写真も随所に散りばめられている。

 

20年を振り返った年表を眺めながら、しばし感慨にふける。

それは、楽しいことばかりではなかったし。


設立されたのが1988年12月8日。 部会員28名でスタートする。

初代部会長、槍木行雄さんは今年の5月に逝ってしまわれた。

当時の様子をリーダーの一人であった綿貫栄一さんが書いている。

   今をさかのぼる20年前当時の睦岡は人参が主力作物で、DD (土壌消毒剤)

   を使わないと作れない思いがあった。

   「DDは作業中にガスを吸い込むと人体に害を及ぼす危険性の高い薬剤」

   これを使わずに作れないものかと、ときの園芸部長・今井征夫さん(故人)、下山所長、

   麦組合の面々、他に関心ある方々で話し合いがなされた。 そこで私がDDを使わずに

   人参作りができたことを報告。 それは麦を作り、そのあとに播く。

   話し合いの中で強く意を持っていた槍木行雄さん(故人)、「やってみよう」

   話が決まり、これですすめよう。 これが有機部会のはじまりでした。

   そして槍木さんは初代の有機部会長となられました。 ......

 

文中に出てくる今井征夫さんは、90年、僕らに田んぼを貸してくれた

『大地の稲作体験』 の初代地主さんである。 

無農薬で米を作る、しかも消費者が入る田だから・・・と、

毎日朝起きては欠かさず、田の様子を見に行ってくれた。 

その様子を知る人から、 「自分の畑より大事にしてたよ」 とあとになって教えられた。

その今井さんの遺稿が、記念誌のなかで紹介されている。

有機部会が12月に設立され、明けて89年1月1日、

支所の広報 『マル睦だより』 での新年の挨拶である。

   現在の農産物の流通機構は、大きく分けて二つの流れがあります。

   一つには市場流通の流れであり  ~ (略) 、消費者ニーズに合う農産物と言っても、

   直接消費者の顔は見えません。 もう一つの流れは、まだ小さいうねりかもしれないが、

   有機栽培を手がけるグループと安全な農産物を求める消費者グループとの 「産直」

   あるいは 「宅配」 といった流通方法をとり、生産者と消費者がお互いに交流し合い、

   提携しながら相互理解して、販売価格も双方話し合いで決めるといった、密接な心の

   つながりがあります。

   現在、脚光を浴びブームともいえる 「有機農業」 ですが、今回の交流集会に参加し、

   全国の有機農業の先覚者の苦難、苦闘に充ちた体験発表、資料に接して、

   そこに共通しているものは、「食べ物」 は安全でなければならない → 安全な農産物を

   生産する土地も健全でなければならない = 土作りから始める......

   という考え方であり、様々な試行錯誤を繰り返しながら技術の向上を図り、

   10年~15年の永い年月の努力を続けて消費者の信頼を得たものであり、

   彼らが変人でも奇人でもなく、真剣に農業に取り組んでいる姿勢に感動した次第です。

 

設立直後のメンバーの不安感に、今井さんは力強く応えようとしている。

「彼らが変人でもなく奇人でもなく・・・」 あたりに、当時の雰囲気が伝わってくる。

えらい人たちと付き合ってたんだなぁ、と改めて思い知らされる。

今井さんは翌90年の11月、

大地の山武農場 (この土地も今井さんから借りた) 開所式の翌日に急逝した。

「我事に於いて後悔せず」

これが今井さんの口ぐせだったと、下山久信さん (睦岡支所長:当時) がコメントを記している。

 

有機部会最初の出荷は89年5月21日。 雲地幸夫さんのチンゲン菜が大地に届けられた。

あれから怒涛のごとく交流やったね。 そして稲作体験の始まり、と続く。

幸夫さんの奥さん、弘子さんも書いている。

   おもしろかった。 消費者との交流。 みんなでワイワイ各種のイベント。

   東京へ野菜を売りに行くのもおもしろかった。

   子育てと共にあった20年。 いや、はじまりはもっと前の、農協の2階で行なわれた、

   夜の勉強会。 下山さんが若いお母さん達を集めて、食品添加物についての勉強会を

   開いてくれた。 折しも私は、有吉佐和子の 「複合汚染」 を読んだショックで、

   頭がガンガンしていた頃だったので、幼な子2人を家人に頼み、信者のように

   勉強会に通った。 私の人生の、大きな転換点となった。

   そして有機部会ができ、大地山武農場が建設され、一風変わった若者が

   とっかりやっかりやってきて、有機栽培の夢と希望に溢れた話を楽しげにし、

   酒を酌み交わし、私のとーちゃんをとりこにした。

   ついでに幼稚園児だった娘も、農場のヘラクレスのようなテシさんが大好きで、

   おやつを持ってせっせと通っていった。

   今井征夫さんが急逝したのは、今から、これからというプロローグの時だった。

   大きなショックに誰もが言葉を無くした。

   20年目の今年は、槍木行雄さんが逝ってしまった。 転換期を迎えた部会の節目に、

   大事な人をなくしてしまった。 悲しい.........。

   さて、これから。

   おもしろくもない世を、いかにおもしろく農業をやっていこうか。

   小さい頃 「ぶっつめ」 をかけて遊びほうけていたわがとーちゃん。 山野をかけめぐって

   遊んだ基礎体験は、作物の栽培にも、天敵利用の農法にも随所に生かされていて、

   「おっ、おもしろい」 と思えることが多い (私は、こっそり尊敬している)。

   そんなとーちゃんと仲間達とぼちぼちやっていこ。

 

一風変わった若者がとっかりやっかりやってきて ~~ か。

すみませんでしたね。 でもひと言言い訳させていただくと、

もっと飲むっぺよぉ! って僕らは飲まされてたんですからね、とーちゃんたちに。

帰る途中、軽トラで追いかけられたこともあったんですよ。

「逃げんのかー、こらぁぁぁぁ!」 って。 楽しかった、ホントに。

 

すみません。 この冊子から、もう一回話を続けさせていただきます。

...眠くなってきたし。

 



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