2008年12月13日

酒まみれのなかで、「光をつかむ」を考える

 

長いぬかるみ道のような一週間が終わった。

体は宙に浮いているようで重くもあり、記憶もどこか断片的に抜け落ちた感じ。

火・水・木・金と4連荘(レンチャン)で、忘年会や飲み会が続いたせいだ。

大人気ない飲み方と言われればそれまでだけど、

火曜日は後輩 (自分か?) のストレス解消に付き合ってカラオケまで行っちゃって、 

次の日は部署間の関係改善に気を使い、

その翌日は・・・・・東京での集まりにやってきた生産者に呼び出された。

「エビは俺たちの誘いを断るってぇの。 いつから何様になったんの?」

それは有機農業運動の黎明期を牽引した傑物の一人である

山形・米沢郷牧場の元代表、故伊藤幸吉さんを偲ぶ会に集まってきた

古手の生産者たちの夜の飲み会の席である。

ちなみに彼らオッチャンたちは、偲ぶ会と称して昼間から飲んでいる。

これが一番の供養よ、とか言いながら。

僕はさすがに仕事を優先させていただいたのだが、脅しに屈して、

夕方になって千葉から都心までのこのこと出かけたのだった。

 

飲んでるうちに藤田会長までが生産者を連れて合流してきて、

逃げるに逃げられない状態になってしまった。

みんなして、次は誰とか、あんたの弔辞は俺が読むとか言い合って騒ぐ始末。

僕も調子に乗って、前に藤田会長から言われた台詞を暴露してやった。

「エビスダニが死んだら、さすがに俺も泣くかもな」

・・・・・え? !! ええと・・・順番が違うような気がするんですけど。

泣くのは僕のほうでしょうよ。

これだから、団塊ってヤーね、つうの。 面の皮が厚すぎるんじゃない? とか何とか。

しかし、目の前にいたのはみんな団塊の方々だった。

お前には一生負けない、とか言われた。 一生っていつまでよ。

 

とまあ強がってみても、添加物世代とか言われた我々。

もしかしたら本当に泣かれたりして。 笑い事じゃないね。

 

そんな馬鹿な酒を飲んでしまって、翌日は、大地を守る会の農産物の栽培管理体制

についての監査を、吐きそうになりながら受けたのだった。 

 


まあ監査自体は、ジタバタしてもしょうがない。

普段の管理状態をそのままに見ていただくだけだ、と開き直りは早い。

監査に立ち会った認証機関のWさんも昨日の偲ぶ会には出ていたようで、

ちょっと辛そうな感じもしないでもなかったが、それ以上のコメントは

認証機関の名誉のために控えておきたい。

検査員さんはちゃんとチェックされていたことだけは補足しておくとして。

 

そんでもって、監査終了の開放感で、会社の忘年会に合流。

種蒔人を飲んで、一週間を終える。

 

いや本当は終わってないんだけど、宿題が色々と残ったのを気にしつつも、

今日はシラっと気分転換の日にさせていただくことにしたのだった。

こういう時も必要だよね。

 

今週一番の早起きをして、上野の東京都美術館まで。

明日で終わりとなる 「フェルメール展」 を観に行ってきた。

ずっと行きたいと思いつつ諦めかけていたのだが、やっぱり意を決して出かけた。

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9時半頃に到着した時点で約50分待ち。

出てきた時は2時間待ちという長蛇の列になっていた。

 

光を描いた天才画家、フェルメール。 実物の絵は、深遠で謎めいていた。

描かれた題材は、普段の生活の一片を切り取った、いわば 「風俗画」 なのだが。

人に揉まれながらイライラしたりして、

でもようやく正面に立った時は、周りも忘れて見入ってしまう。

 

絵画論には入らないのかもしれないけど、僕にとって出色のフェルメール論は、

別な視点からこの意味を語った分子生物学者、福岡伸一さんだろうか。

素人のつまらない感想など割愛して、紹介したい。

 

  人間の思考は、たった3歳の子どもでも、鼻というもののまわりに輪郭を作り出してしまう。

  つまり、私たちの思考というのは、人間の身体を、あるいは生命現象を切り刻んで

  「部分」 というものを取り出しているのです。

  しかし、「部分」 というものは生命現象にとって幻想でしかないのです。

  「部分」 を切り取るということは、関係を切り取るということで、

  それは動的平衡状態にある生命現象を破壊するということです。

  という意味で、生命というものに部分はないのです。

  そして全体として動的平衡状態を維持するための時間がそこに折りたたまれていく

  ということです。 だから、ここで私はあえてそれを個別には批判しませんが、

  ES細胞が、あるいはⅰPS細胞が、あるいは遺伝子組み換え操作が、

  どこかおかしな操作、その操作が美しくないというふうに思える根拠は何かというと、

  それはそこに非常に人工的な部分というものを想定して、それを切り出しているから。

  そして、そこに流れている時間というものを無視しているからではないかというふうに

  私は思えます。

  1660年頃にフェルメールという有名な人が描いた 「真珠の耳飾りの少女」、

  あるいは 「青いターバンの少女」 と呼ばれている絵があります。

  フェルメールには鼻に輪郭を描いていません。

  あるいは、顔や服にも別に黒い線で輪郭を描いていません。

  すべてが光の粒の出入りで描かれています。

  今から350年前、フェルメールは、現在私たちが生命を見ているのと違う見方で、

  より生命をきちんと理解していたというふうにも考えられるわけです。

       -日本有機農業研究会報 『土と健康』 08年6月号所収の講演録より-

 

光の粒とは、すべての生命循環の根源=太陽エネルギーである。

光の粒が、少女の微笑や日常の空間を、

まるですべてに意味があるかのように表現して、永遠の生命力を与えている。

光の粒が・・・・・

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午後は、やっぱり宿題が気になって会社に急いだ小心者だけど、

まあ、いい休養の時間をいただきました。

 



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