2008年12月 4日

土と緑と太陽と (続)

 

さんぶの20周年記念誌には、関係者の祝辞に交じって、

生産者たちの悲喜こもごもの思い出が綴られていて、

ついニヤついたり涙目になったりしながら眺める。 酒と一緒に・・・。

 

こんな歴史も記録されている。

90年2月、まだ組織も生産も安定しているとは言い難いのに、

山武町長宛てに 「地元の給食に有機野菜を」 と直筆の要望書を送りつけているのだ。

その一文がそのままの形で掲載されているのだが、

まるで脅迫状のような文面である。


   ご承知のように食料の7割をも輸入に依存する日本では収穫後の農薬散布等による

   食品汚染の問題はとうてい避けて通るすべはありません。 .........

   この現状の中で考えられることは、私達はあまりにも食べ物に対して

    " あなたまかせ "  でありすぎたのではないでしょうか。 .........

   これは果たして農業者のみの問題でありましょうか。 経済の論理のみに従い

   自由化によって安くなることが本当に消費者側に有利とだけ考えてよいものでしょうか。

   ......... ことは即、いのちにかかわってきます。 (後略)

 

そこで一日も早く 「有機農産物の生産が広く行なわれるよう図ること」、

そして 「山武町の保育園、小中学校の学校給食に供給されるよう計画してください。」

と結ばれている。

そして、それがなんと、2ヵ月後に実現しているのである。

町長は身の危険を感じたのだろうか。 シモヤマ恐るべし・・・・・

 

あれから有機ほ場も拡大し、取引先もどんどん増え、

日本農業賞や環境保全型農業コンクールなどで表彰され、

国の有機認証制度には強烈に反対しながらも、

「問題は俺たちの取り組み姿勢をきっちりと証明してみせることだ」 と

システム認証に取り組み、有機JASをいち早く取得した。

そして今年の有機農業推進事業でのモデルタウン指定である。

 

新しく作られた 「山武市有機農業推進協議会」 のパンフレット。

e08120302.jpg 

新規就農者、来たれ。

ホームページは http://www.sanbu-yuki.com 

 

なんとかここまで来たね。

" 奇人・変人 "  から、地域のリーダーに。

あの頃から俺たちには確信があった。 いずれ有機農業が地域を救う時代が来るって。

そう言いながら飲んでたよね。 ああ、今井さんに見せたい、見てもらいたい。

でもそんな感慨はもっと先に置いて、まだまだ進まないといけない。

頑張りましょう、もうちょっと。

 

記念誌には、大地を守る会の消費者会員の方も4名寄稿されている。

それがなんと皆さん、『稲作体験』 を経験されている方たちであった。

なかでも、レストラン 「THE WAKO」 の総料理長、鈴木康太郎さんも

参加されていたとは、記念誌の原稿を見るまで知らなかった。

   今思うと、その時の山武の生産者の皆様のお話中の、土地に対する愛情、歴史、

   稲作のこと、農家という生業、そして農政にまで話がおよび、

   実に有意義な時を過ごさせていただいたことが、

   私の料理観が変わるきっかけになったように思われます。

   そして、職を深めていく中でたどり着いたのが

    「料理はフィールドにあり」 ということでした。

 

「料理はフィールドにあり」 -すばらしい言葉を、ありがとうございます。

 

初代部会長・故槍木行雄さんの思い出を、妻・静江さんが寄せている。

   過ぎてしまえば早いもので、無農薬有機部会を始めて20年になるのですネ。

   夫が農薬の臭いを嗅ぐと頭が痛くなるナーなどと話をしていた矢先、

   農協の下山さんから無農薬栽培の話を伺い、栽培を始めることになりました。

   思い返せばいろいろなことがありました。

   供給先の 「大地」 の名を一番最初に知ったのもこの時でした。

   虫食いだらけの大根、葉の黄色くなったカブ (肥料が足らず)。

   今では考えられない様な品まで全部買い取ってくださいました。

   来年こそは、今度こそはと良い品を無農薬有機栽培で作らなければと思い、

   作付けの時期や作り方など、それなりに勉強しながら皆さんと励んできました。

    ・・・・・・・・・・

   夫が役で出掛けた時など一人で夜遅くまで荷造りに追われた事がありました。

   慌てない夫と、せっかちな私はいつも夫の後ろで振り回されていたような気がします。

   あの頃はまだ若かったので苦にもならずに頑張れたのでしょう。

   無農薬有機栽培を 「始めたからには笑われないようガンバッペよ」 と言った

   雲地幸夫さんの言葉が忘れられません。 初代代表が勤まったのも

   そういう人達のバックの支えがあったからこそと思っています。

   夫と過ごした42年の歳月、その半分あまりを有機部会と共に歩ませて頂きました。

   夫は最期に 「いい人生だった。 俺はラッキーだよナー 」 と言い残し、

   家族の皆んなに看取られて、孫たちの 「おじいちゃん、ありがとう」 の言葉に送られ、

   眠っているような安らかな顔で逝きました。

   ・・・・・・・・・・

   無農薬有機栽培を通して、多くの人達に出会い、いろいろなことを学びました。

   今の世の中になっても何を食べさせられているのかわからない行政のやり方、

   安全で安心して食べられる作物が人にとってどれだけ大切であるかを知り、

   その作物を作っている私たち生産の流す汗が一番に報いられる魅力ある職業に

   なれることを祈らずにはいられません。

 

真摯でいつも優しかった行雄さんに、静江さんあり、ですね。

 

現部会長の富谷亜喜博さん。

   今年20歳になる息子が夜になると出かけていく私を見て、

   「お父さん、また農協?」 と言われ続けた20年でした。

 

息子がその意味を理解する年代まで、頑張ったってことですよ。

この文集発行も含めた20周年の記念行事は、

それこそ若い世代の人達が中心になって進められたと聞いている。

いま後継者を育てているのは、間違いなく有機農業の世界である。

しかしそれでも、耕作放棄地は増え続けている。

 

先達から若手に、いい形でつながなければならない。

俺たちの世代の正念場がきている・・・・・か。

しみじみと感慨に耽りながら小冊子を閉じて、気合いを入れ直す。

 



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