2009年3月13日

減反は、やっぱり哀しい

 

昨日(3/12) の夜、千葉・幕張の本社で、

秋田・大潟村の米生産者、黒瀬正さん (ライスロッヂ大潟代表) を招いての

社内勉強会を開催した。

前日の提携米研究会の会議のために上京した機会に、

大地の若手社員向けにお話し願えないかと打診して、実現したものだ。

テーマは、お米の減反問題。

 

じつは昨年の12月に同じテーマで勉強会を開いていて、

僕が減反政策の歴史や問題点などを解説したのだが、

やはりこの問題はひと筋縄ではいかない。 

薄っぺらな説明だけでは若者たちの疑問はさらに膨らんだようで、

もっと理解を深めたい、との希望が出されていた。

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例によって勤務終了後の勉強会だが、40名近くの職員が集まってくれた。

黒瀬さんからも、「大地にはこの文化がまだ残っとる。 ええことや」 と褒めていただく。

日本第二の湖だった八郎潟を干拓して出来た大潟村に入植して30数年。

滋賀県出身の黒瀬さんは今も変わらず関西弁である。

 

減反政策の問題点を、生産者の立場から分かりやすく、とお願いしてあったのだが、

黒瀬さんにはやはり、これは自身の  " たたかいの歴史 "  であって、

評論家の解説のようにはいかないのだった。


戦後、日本は食料難を乗り越えるために必死で増産に励んだ。

米の自給率100%を達成したのは、1966(昭和41) 年のことである。

しかし折りしも続いた数年連続の豊作で、米の在庫はあっという間に増大した。

戦時中につくられたままの 「食糧管理法」 の下で、

米は国が全量買い取るかたちになっていたから、

その在庫管理のために国庫負担が1兆円にも膨らんだ。

1969年、一時的な処置と称して、生産調整が始まる。

本格的に始まったのは1971年から。

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それまで、ひと粒でも多く作ることを誇りにしていた農民にとっては、

突然の 「つくるな」 という指示は、とても耐えられないものだったようだ。

それでも黒瀬さんは、いきなり反対したわけではない。

お国は一時的な措置だと言っているわけだ。

「余ってしゃあないゆうから、我慢しようか、て思ってたのよ。」 

しかし、問題はさらなる矛盾へと進んでしまった。

「地域の指導者たちは言うのよ。 一割減反した分、二割増産しましょう、て。」

減反は実行されても、生産調整の目標は新たな歪みを生んだわけだ。

単位面積あたりの収穫量を上げたのは、農薬と化学肥料である。

 

減反政策、国の言う 「生産調整」 は、うまくいかなかった。

黒瀬さんを、減反反対の闘士にしたのは、1977年である。

それまで 「一時的な避難措置」 と説明されていた生産調整が、

いよいよ恒常的な政策になり、

しかも実効性を上げるために、「ブロックごとの達成」 という論理、

つまり地域で達成できなければ、その地域に補助金が下りない、

という手法が持ち込まれたのだ。

「まるで江戸時代の五人組制度の復活でした。

 昔の五人組制度も地域を維持するためによくはたらいた面もあったかと思いますが、

 それがこういう、百姓同士が手を縛り合い、いがみ合い、個人の自主性を押える力として

 復活したんです。」

 

それからの黒瀬さんのたたかいの様は生々し過ぎて、ここでは再現できない。

それはけっして、こっそりと 「闇米」 とかで逃げることではなく、

法律の解釈からたたかいの手法まで、したたかに組み立てながら、真っ向から挑んだのだ。

黒瀬さんが主張した本意は、農民の自立と主体性を守ることであった。

 

1987年、米の輸入自由化反対運動の中で僕らは出会い、

提携米運動へと発展した。

 

裏では、黒瀬さんに対する揶揄を、ずいぶんと聞かされることになった。

減反を拒否して米を作付したことを  " 抜け駆け "  と言い、

俺たちが減反を守っているからアイツは米が売れるんだとか、

はては出身地にかこつけて 「アイツは近江商人だから」 -と。

こういう農民からの陰口を聞くたびに、この制度の陰湿さを僕は感じた。

これはゼッタイに健全な政策ではない。

 

じつは、先日レポートした2月28日の 「だいち交流会」調布会場での

米をめぐるセッションのテーブルごとでの交流の席で、

ある生産者が消費者に、このように説明したという話を、後日聞かされた。

「減反があるから、米の値段が維持されてきたんです。」

それを聞いた会員からの感想文が届いて、

「どう考えたらいいのか、さらに分からなくなりました」 とあった。

 

減反は連綿と実施されてきたが、米価は下がり続けてきた -と僕は説明する。

おそらくその生産者は、こう応えるのだろう。

「それでもみんなが勝手に作っていたら、もっと下がっている。」

これこそ、みんなで乗り越えなければならない理屈なのだが、

生産者には深く刷り込まれた原理となっていて、

僕らはまだこれを越えられていないのである。

この理屈を突破したい。

強制的な減反で価格が維持できるという考え方は、すでに時代錯誤だし、

そもそも民主的手続きになってない。

他に選択肢が思い浮かばないからという消極的支持で、

自身の、そして仲間の手を縛る政策からは、何ら未来は見えてこない。

そもそも、この政策にしがみついているのは、上記の生産者も含めて

農民の本音ではない、と僕は信じている。

後継者不足や耕作放棄地の増大を目の当たりにしているわけだし。

 

学生時代に (一部で)流行った言葉に、「コペルニクス的転回」 ってのがあった。

為政者も宗教家も、すべての人を敵に回した真実

  - 回っているのは太陽ではない、地球である。

 

リセットしてみないか、このカビの生えた論理を。

そして農業政策というものを一から再構築してみないか、みんなの手で。

キーワードは、持続可能性と生物多様性、そして自給だろう。

もちろん食の安全と環境との調和、資源の循環といった視点も

この中に包摂されているし、未来の世代の暮らしの安定につながっている。

しかも、すぐれて地球環境と経済への貢献策にもなるはずである。

ベースになるのは、有機農業であろう。

 

勉強会を終えて、若手社員の声は、

「もっといろんな生産者の話を聞いてみたい」 と、欲求はさらに強くなってしまった。

それはそれで受けてやらないといけないけど、 思うに、

ことほど左様に、生産と消費は分断されていたのである。

減反政策が長く続いたのは、その不幸の上にある。

 

消費者と本当につながろうとせず、

地域の協同性を喪わせた元凶に対して、「地域の存続」という名目でもって、

減反政策の維持を要求する、補助金の受け皿としての農民団体がある。

「農協」 という組織を、僕はどうしてもそのように見てしまうのである。

 しかも 「お上」 は、今もその上に立っている。

 



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