2010年2月11日

立松和平さん

 

8日、作家の立松和平さんが、逝っちゃった。

立松さんと大地を守る会のお付き合いは古く、大地を守る会の国際局が運営する

「アジア農民元気大学」(通称:アホカレ) では設立時(92年) から総長をお願いしてきた。

大学といっても校舎があるわけではなく、" 畑が校舎、農民が教授 "  をコンセプトに、

定期的に講座を開いたり、海外の研修生受け入れなどを行なっている。

また 「総長」 といっても、ボランティアでお願いしているもので、

逆に肩書きを持つがゆえに、立松さんには毎年年末に 「総長講話」 という講義を

開いていただく決まりになっているという、まあなんと言うか、

実にほのぼのとした " お友だち " 関係なのである。

昨年の12月にも講話をお願いしたばかりだ。

 

訃報が届いた9日のこと。 機関誌 ( 「NEWS だいちをまもる」 ) に書いた

稲作体験の記事の校正紙をもって編集担当者の席に行った時、

その彼がパソコンに映し出されたニュース速報を見ていて、

「立松さんが亡くなった? ええッ? この情報、嘘じゃないですかね。」

僕も驚いて画面に釘づけになる。

手元の校正紙の別のページには、昨年12月に行なわれた総長講話の囲み記事があった。

 

僕らには突然の訃報だったのだが、長年の友人である藤田会長のもとには、

1月下旬から危篤の状態である旨の連絡が入っていたとのこと。

 

僕には、ここで立松さんのことを語れるほどの交友があったわけではない。

ただ、多少の思い出もないわけではないのだ。

 

初めて立松さんに会ったのは、1987年の春だった。

当時発行していた大地を守る会の機関誌 「大地」 が、100号を迎えるにあたって、

記念の対談というのを企画した。

お願いしたのは、立松和平  Vs  山本コータロー。

会の機関誌にビッグな名前を登場させるとあって、

編集委員として担当させていただいた僕は、内心ちょっと自慢げに、興奮していた。

若かったね。

都内のレストランで段取りし、お二人をお迎えした。

 

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2時間ほど好きなこと喋っていただいて、払った謝礼も1万とか2万とか、

そんな額だったが、お二人は 「楽しかったよ」 と言って帰って行かれた。

生き方とか価値観を見直さなければいけない、という共通認識で、お二人は語り合っていた。

そういう言葉は今もあちこちで耳にするが、しかし時代がまったく変わってないわけではない。

長い目で見れば、少しは風向きも変わってきたようにも思う。

立松さんは小説を書くだけでなく、世界を旅し、テレビにも出たりして、

新しい風を吹かせようとしていた。 

訥々とした語り口ゆえに強い精悍さは感じさせないが、間違いなく行動する作家だった。

あの栃木弁がもう聞けないのは寂しい。

 

88年には 「いのちのまつり」 という一大イベントに挑み、

立松さんと藤田会長はともに実行委員としてタッグを組んで、農協の親玉と張り合った。

僕は一時その事務局に出向させられ、立松さんの姿を身近で眺める時間をもらったのだが、

打ち合わせが終わったある晩、皆で一杯やろうと街に繰り出した時、

「オレ、今日が締め切りなんだよう。 今夜のうちに 〇 百枚書かないといけないんだよう」

と逃げていかれた。 2百枚だったか3百枚だったかは忘れたが、

プロの作家というのは恐るべしだなぁ、と感動したのを覚えている。

 

あれからずっと、立松さんはホント、大地を守る会をひいきにしてくれた。

パンフレットなんかに一文ねだると、すぐに書いて送ってきてくれた。

「この時代に大地を守る会が存在することが、嬉しい」

みたいなことをさらさらと書いてくれるのだった。

あの方の期待に、僕らは応えてこれたのだろうか・・・・・

実にたくさんの大きな方々に支えられてきたものだから、

逝かれるたびに、そんな思いに落ち込んでしまう。

 

62歳、早すぎます。

口惜しいけど、深く深く感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。

 



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