2011年3月アーカイブ

2011年3月31日

人類はアブナイものをつくり過ぎた

 

3月31日。

年度末という日程も完全に無視。 2トントラックをレンタルして、

「大地を守る会の備蓄米」 の産地、福島県須賀川市・ジェイラップに

お見舞いもかねて救援物資を運んできました。

救援物資といっても偉そうなものじゃなく、水とお茶約1.5トン+ α  程度で、

地震前から予定していた仕事の用件もあって、、ということなんだけど。

それでも皆さん、恐縮するくらいに喜んでくれたのでした。 

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(右から、ジェイラップ・伊藤大輔さん、同・関根政一さん、左が弊社農産チーム・須佐武美)

 

この日の報告は追ってしたいと思いますが、その前に

この間届いている、放射能汚染に対する生産者からの様々な声も紹介したいし、

ずっと当社で放射能測定を依頼してきた 「放射能汚染食品測定室」 の話もしたいし、、、

という感じで、お伝えしたいことがどんどん溜まっていきます。

まったく前代未聞の非日常の連続の中で、いろんな仕事を散らかしたまま、

とうとう年度を越してしまう事態となってしまいました。

 

そこで、モロモロの報告は次に回させていただき、

ここは、忘れもしない歴史的コピーを改めて蘇らせることで、

新しい年度へと、気持ちをつなげたいと思う。

 

人類はアブナイものをつくり過ぎた

 


これは、1988年に行なわれた  " いのちの祭り シンポジウム "

で使われたキャッチ・コピーである。

 

コメの市場開放が争われる真っただ中で、

 " 日本の食と農業を守ろう "  のスローガンのもと、

全国農業協同組合中央会(全中) と自治労などの労働組合、

そして有機農業団体や市民団体が初めて手をつないで開催された、

画期的な集会だった。

会場はなんと、これまた特例中の特例として解放された 国技館 である。 

会場のど真ん中に土俵があり、米俵が積まれ、

発言するパネラーの表情が、でかいスクリーンに映し出された。

大地を守る会の藤田和芳会長はこのシンポジウムの実行委員として参画し、

農協や労働組合のトップたちを前に、

 「 食と農業を守るためには、環境を守る農業に転換しなければならない。

  加えて安全な食や環境と相いれないものとして、原発がある。

  農民も、労働組合も、原発に反対してほしい! 」

と壇上から訴えた。

司会は作家の立松和平さんだった。

 

このシンポジウムの冠コピーを書いてくれたのは、

コピーライターという職業をブレイクさせた筆頭格、仲畑貴志さんだ。

この方の作品で僕が一番好きなのは、

反省だけなら猿でも~ ではなくて、

「荒野に出ることだけが 冒険じゃない」 かな。

 

上がってきた原稿を見て、 オオーッ! と叫んだのを覚えている。

 

人類はアブナイものをつくり過ぎた

 - これから農業

 

チェルノブィリ原発事故から2年。 

昭和から平成に移る直前の、今思えば、

食や環境の安全が一部の人の関心事ではなく、

国家的に議論しなければならない時代に突入していることを、

社会的に提示した  " 事件 "  だったと言える。

 

実はこのシンポジウムは前哨戦で、これを皮切りに各地で機運を盛り上げていって、

翌年には代々木公園を借り切っての大きな  " 祭り "  本番に突入するという構想だった。

大地を守る会はこの大ムーヴメントの事務局構成メンバーとなり、

僕は生け贄として赤坂の事務所に出向させられた。

全国から農民が、労働者が、そしてたくさんの市民団体や消費者が

代々木公園に結集して、

日本の農の大切さを、そして食の安全を守ろうと謳い上げる、

という壮大な仕掛けが進んでいた。

 

すべてが信じられないくらい、うまくいっていた。 

しかし・・・  " 祭り "  は実現しなかった。

昭和天皇が危険な容態となって、農協がギリギリになって自粛を判断した。

労働組合は怒り狂った。 全国からバスを仕立ててやってきた闘士たちを前に、

僕はスタッフの一人として公園の入口でひたすら頭を下げ続けた。

引き返す際に浴びせられた数々の罵声は忘れられない。

「本当にすごいことが起きると、ワクワクしてきたのに- 」

「これがどんな意味を持ってんのか、知ってんのかッ! 」

「 何とか皆を説得して農協と組むのを承認させたんだ。 オレの首も飛ぶよ。 」

これだけの規模と質を獲得した国民運動は以後、つくられてないよね。

 

その年の暮れに昭和は終わり、あれから22年。

今こうして アブナイ が本当に目の前に繰り広げられる現実のものとなって、

空も大地も水も人々も、行き場のない哀しさと怒りで充満している。

 

震災だけなら、むしろ人をつなぐ力にもできる。

しかし目に見えない放射能という恐怖は、分断させるばかりだ。

生命をつなぐはずの貴重な収穫物が、

生産者のまったく関与していない理由で  " 危険 "  のレッテルが貼られていく。

この原因は誰がつくったのだろう。。。

" 誰でもない、みんな です "  という声も聞こえてくる。

それぞれに己れがたどってきた生き方を振り返ることが求められているのだろう。

 

2011年3月31日。

とっ散らかったまま来てしまった年度末を、

改めて引っ張り出したこの言葉で締めて、明日に向かいたい。

 

人類はアブナイものをつくり過ぎた

-これから農業

 

大地を、社会を、立て直す力は、有機農業にこそある。

いや正確には、数え切れない微生物も含めた  " いのち "  の共同作業が、

誰を恨むなんて感情をもつことなく、せっせと壊れたつながりを修復させ、

地球を安定化させていくのだ。

その  " つながろうとするエネルギー "  と、連帯したい。 

 



2011年3月30日

有機農家の死

 

天下無敵さん、たかはしさん、

いただいたコメントに 「有り難う」 と返してよいのか、言葉が浮かびません。

福島県須賀川市で、有機農業30年という農家の方が亡くなられました。

我々の関係者ではないのでお名前も分かりませんが、本当につらいすね。 

報道によれば、キャベツの出荷が止められた (正確には 「摂取制限の指示」)

その翌日に縊死(いし) されたとのこと。

福島県産というだけで、大気汚染濃度だってさほども進んでいない土地で。

朝日新聞(3月29日付朝刊) には、こう書かれていました。

 

 男性(64歳) は30年以上前から有機栽培にこだわり、

  自作の腐葉土などで土壌改良を重ねてきた。

 キャベツは10年近くかけて種のまき方などを工夫し、

 この地域では育てられなかった高品質の種類の生産にも成功。 

 農協でも人気が高く、地元の小学校の給食に使うキャベツも一手に引き受けていた。

 「子どもたちが食べるものなのだから、気をつけて作らないと」。

 そう言って、安全な野菜づくりを誇りにしていたという。

 

安全安心に誇りを持っていたことの裏返しとしての絶望が、その方を襲ったのでしょうか。

生きられた喜びで雄々しく再建に向かう人々がいる時を同じくして、

自ら人生を絶つ人が現われてしまいました。

しかもこれから私たちが頼りにしなければならないはずの

土壌の力を知る人の中から。

 

もっとも誇りとした世界が、もっとも嫌忌するものによって汚される、

その絶望が心身の破断へと至らせたのか、真実は知る由もありませんが、

「原発に殺された」 -遺族の方のコメントがやるせません。

 

その方の魂に向かって、

あえてこう呼びかけることを、お許し願いたい。

 - まだ眠ることなく、私たちとともにいてほしい。

 

いまそれぞれの胸の中にある無念や悔しさを

全部集めて、進軍したい。 希望に向かって。

 



2011年3月28日

出荷停止は危機管理になっているか?

 

被災者の一日も早い暮らしの安定と復興を願って、

力を合わせて前に進もうとした矢先、

放射能という、永遠に眠らせておかなければならなかった怪獣が

爆発とともに天空に吹き上げられ、

のたうっては人の善意をあざ嗤い、かき乱し、

私たちの心を被災地から遠ざけていく。

この怪獣は自らを制御することができない、愛をもってしても。

 

いま首都圏の人々は、" がんばろう日本 "  に共振する市民の顔と、

" 放射能への恐怖 "  にうろたえる消費者心理で悶えている。

牛乳やら野菜やら水やら、あちこちのいろんなモノが測定され、

ひとつのサンプルが暫定的に設定された規制値にひっかかると、

出荷停止や摂取制限という形で、一気に 「県」 単位で規制がかけられる。

「食べてもただちに健康危害がおきるものではない」 という解説付きで。

タバコよりリスクは少ない、という記事もあった。

しかし疑心暗鬼は増幅するいっぽうで、つながりが分断されていってる。

 

家族を守りたいと思う行動は当然であり、責めるわけにはいかない。

しかし、いま進んでいる食品規制は、はたしてこれでいいのだろうか。

このままでは相当にヤバイ、そんな気がしてならないでいる。

なんだろう、この激しい焦燥感は。

何か本質的なものが欠落していないだろうか。

風評被害から生産者も消費者も守らなければならないはずの行政が、

風評被害を広げてしまっていないだろうか。

 

悶々とする中で、問題はやっぱこれだよ、と思ったのは、

風向や大気も含めた汚染の状態も無視して、内陸部の会津地方まで、

福島県だからとひと括りにされて何種類かの野菜が出荷制限されたことだ。

 

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(3月24日付・朝日新聞夕刊)


福島・浜通り(太平洋沿岸地帯) では、この時期はだいたい風は西よりで、

海に向かって吹いていたと思う。

汚染はけっして規則正しく同心円的に拡がるわけではない。

水であれば、たとえば利根川上流が汚染されれば、

汚染は群馬県という行政区分ではなく、あるいは半径何キロという円でもなく、

水系に沿って一気に東京(河口) へと伝ってくる。

空から降ってくるものの影響を測るのは、単純な直線距離ではなく、

風の向きと力、そして地形だろう。

現場は実験室の中のシャーレではない。

西に100キロ離れた会津地方まで 「県」 という単位で同列に規制する

この判断基準はどこからくるのか。

答えはこれでいいだろうか。 -判断を県という自治体にさせているからだ。

どなたか専門家の方がいらっしゃれば、教えてほしい。

 

この危機は、地球儀を見ながら考えなければならないと思う。

中国から黄沙が飛んでくる季節のうちに、

何としても収束させなければならなかったのだ。 もう無理のようだけど。

 

出荷停止(あるいは自粛) という措置に怒っているのではない。

その規制値に文句を言っているのでもない、今は。

とりあえず疑問は置いて、僕らも従っているワケだし。

ただ、放射能汚染という超ド級の非常事態にあって、

「県」 単位の判断というのは、いくらなんでも稚拙で乱暴すぎないだろうか。

各地の大気モニタリング測定や風をもとに拡散実態を追い、

モノの検査測定値も見ながら、人も含めて規制を指示してゆくべきではないか。

地方自治体の防衛本能に任せる話ではない。

 

非常事態にあっては、行動原理はひとつにしなければならない。

ここでいえば、それは国でなければできないことだ。

「国が情報を集約し、(ひとつの物差しに沿って) 指示する」

こそが必要だと思う。

危機管理の基本だと言ってもいい。

 

すでに県レベルで 「出荷停止」 の判断が異なってきている。

めいめいの小賢しい計算はやめて、行動の目安は一緒にして動かないと、

疑心暗鬼は加速し、必要な人のところに必要なモノが行き渡らなくなる。

 

大地を守る会がいま採用している流通可否判定基準は、

国が出した暫定基準値である。

「そんなんでいいのか!」 というお叱りの言葉も聞こえてきている。

しかし・・・ふだん厳しい安全基準を謳ってはいても、

こういう時に跳ね上がった勝手な行動は慎むべきだと思うのである。

これは自信をもって言ってるわけではなくて、

それしかないんじゃないか、というのがあれこれ考えた結果での、

偽らざる本音である。

 

いたずらに基準をあらそって消費心理を混乱させないために、

行動の基準は一致させて動くことが必要だ、と肝に銘じたいと思うのである。

流通がバラバラに動くと、

生産はゆるいほうに流れ、消費は厳密なほうに流れる。

モノの流れがバラバラになって、対策は後手後手になってしまう。

 

重ねて強調しておきたい。

これは平時の話ではなく、

放射能という、安全を保証する閾値(いきち、しきいち) を明解に設定できない

敵を相手にしている、いままさに進む極めて危険な非常事態での行動規範について、

である。

 

危険度最強レベルの非常事態が進行している。

誰も 「安全です」 と断言できる世界は喪われてきている。

最低ここまでのラインは維持したい、というレベルが国によって示されたなら、

いったんはそれに基づいて行動しよう。

そこに最も多くのデータが集積され

(それは僕らがこれまでやってきたサンプル数の比ではない)、

現状に基づいて適切な判断がそこでされるなら。

しかし、その必死の信頼を担保するだけの判断と指導体制がないとなると、

危機管理システムは機能しない。

みんなが自己保身に走ったら、社会は崩壊する。

 

ここは骨太でいきたい。

ホウレンソウは食べても大丈夫ですか?

-大丈夫です。 僕も食べてます。

  ただし長びけば長びくほど、そうは言えなくなる、という事態が進行しています。

落ち着いた行動が、みんなを守ります。

対策や対応も早くなります。

 

ただ、国や行政の動きがバラバラなままだと、いつまでも紳士ではいられなくなる。

「ここは独自路線で自らの身とみんなを守りましょう」

と叫んでしまう時がきそうで、怖い。

 

せっかく入荷したにも拘らず流通停止にしてしまった 

「くらぶち草の会」(群馬) のホウレンソウをたくさん持ち帰って、

せっせと茹でて、毎日食べている。

草の会の皆さん、僕が食べた分は払います。

 

上に貼り付けた新聞記事。 最後のところで、大地を守る会の生産者である

二本松市の大野達弘さん (NPO 東和ふるさとづくり協議会) が登場して、

語っている。

 

  「安全安心に自信があった品物なのに・・・」。

  地域をあげて無農薬や有機栽培に取り組み、

  山あいの不利な条件を克服する農業を実践してきた。

  県外から新規就農する若者も出てきていた。

  その矢先の原発事故。

  「我々は何も悪いことをしていないのに、なぜこんなことになるのか。

  早く作物が安全だといってもらえるようになりたい」

 



2011年3月27日

こんな時だから

 

まったく気持ちに余裕がなくなっていた。

寝床に入り、ため息をつき、そんな自分を振り返りながら、

ふと、もしや・・・ という気がして、パソコンを開き、覗いて見ると、

温かい投稿が一件入っていた。

新潟県佐渡市の 島びとさん からだ。

 

こんな時だから、春の訪れを~

 

佐渡からの心にくいメッセージ。 ありがとうございます。

 

動乱の中で、頭からすっかり消えてしまっていました。 

田んぼスケープ

というサイトをつくったことを。

 

サイト作成者のアラカワ君とは、東京集会で、

以前から上がっていたふたつの課題を何とかしようと話し合ったのにね。

パソコンからも投稿できるようにしたい、

双方向のやりとりができるようにしたい、と。

 

春までには・・・・と話していたのに、

気分はとてもそれどころではなくなってしまった。

 

それでも、、、生産者の皆さん。 

田んぼの前で立ち止まってじっと眺めたときに、

もしその気になったなら、今の様子を送っていただけると、嬉しいです。

現在の心情とともに、あるいは友への小さなメッセージとして。

 

いま画面は、

これまで投稿していただいたものから適当にピックアップして、

ちりばめてます。

とても厳しい春で、慰めにもならないかもしれないけど。

でも、

すべて生命体は、身のまわりの世界がどんな事態になろうと

うろたえながらも自らの生命活動、その役割を全うしようとするわけで、

我にかえる意味でも、

まわりを見渡してみるのは、悪くないことだと思う。

こんな時だから・・・

 



2011年3月26日

感謝と誤報のお詫び。そして願わくば 「希望の米」 へ。

 

地震と津波による大災害が起きてからの日記で、

この間コメントをお寄せいただいた

大豆 さん、ゆう さん、竹田由美子 さん、天下無敵 さん、フカヤ さん、谷川 さん、

小黒江利子 さん、農民たかはし さん、ソレイユ さん、MO さん、ゆかり さん。

お返事も書けずにいまして、すみません。

皆さんの温かいひと言ひと言に、けっこうグッときてました。

皆さんの期待に応えられるよう精一杯やらねば、と読ませていただいておりました。

この場を借りて御礼申し上げます。 有難うございました。

小黒さん、お久しぶり。 元気でボランティアに参加されている由、頑張ってください。

 

また潮田さんには、本当に申し訳ありませんでした。

私自身、無事の一報を得て舞い上がってしまいました。

かえってつらい思いをさせてしまったかと、深く後悔しております。

 

他にも何人か安否確認でお問い合わせを頂戴し、

個別にお返事させていただきました。 

このブログも少しはお役に立てたようで、嬉しいです。

 

第一報ということでは、もうひとつ誤報を出してしまいました。

被害の状況をお伝えする中で、

福島県須賀川市・ジェイラップ (生産団体名=稲田稲作研究会) の

 「備蓄米の貯蔵タンク」 が損傷を受けた、とお伝えしましたが、

正確には 「精米ライン内のタンク」 でした。

地震後の数日、ほとんど連絡が取れない中、

当社職員の携帯電話で幸運にもつながった際に 「タンクが破損」 との報告を受け、

すっかり貯蔵タンクかと思いこんでしまったようで、

そのまま 「被害情報」 として流してしまいました。

正確な確認がなかなかできない状況下で、

いち早くお知らせしたいという思いであったとはいえ、

不正確な情報を流してしまいました。

たくさんの心配の声が寄せられ、感謝とともに、深く深くお詫びする次第です。

 

本日、ジェイラップの関根政一さんから

籾(モミ) 貯蔵タンクの写真が届いたので、アップします。

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写真に張り付けられたコメントは以下の通りです。

 

大地を守る会 備蓄米登録会員様へ

  3月11日に発生しました 「東北地方太平洋沖地震」 にて

  大地を守る会様より 「籾貯蔵タンク」 が破損したとの発表がありましたが、

  安否及び被害状況確認時の情報に行き違いがあり、大変ご心配をおかけしましたが、

  ご覧の通りビクともせず無事ですので、ご安心いただきたく思います。

  この度は、皆さまよりご心配や励ましのお言葉をいただき、

  誠にありがとうございました。

                                 平成23年3月26日

                                   稲田稲作研究会

 

ジェイラップの、その後の驚異的なスピードでの復旧努力については、

お伝えした通りです。

ただ、もっと深刻なのは、実は今年の、これからの米作りです。

須賀川では、新聞等でも報道されましたが、藤沼湖という農業用ダムが決壊し、

用水路や送水ポンプにも被害があり、農業用水の確保が困難なほ場が

多数発生しているという状況です。

それでも稲田稲作研究会では、可能な限り諦めないで作付を行なうこと、

目標、希望、農地を捨てず、前向きに進む決意を確認し合い、

今日から、23年産米の作付に向けて、種籾の温湯消毒を開始しました。

「どの程度の数量が確保できるかは分かりませんが、精一杯頑張ろうと思います」

と関根さんは力強く語ってくれています。

 

しかし、追い打ちをかけるように、福島原発事故の影響が、

日を追って深刻になってきています。

福島第一原発から西南西に70㎞という距離があっても、

福島県内というだけですでに風評被害の影響も受けています。

 

震災や冷害など非常時にこそ力を発揮する 「備蓄米」。

外部からの汚染に対して最も安全で、しかも食味や品質を損なわない 「モミ貯蔵」。

未来への永続性を見据えながら、環境を守る稲作技術を進化させてきた生産者たち。

20年かけて築いてきた最強布陣のシステムも、

もしこのまま放射能問題が長期化すれば、どうなるだろうか。。。

 

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「 見えない先を恐れて、何もしないで立ち止まれば、目標も希望も失ってしまいます。

 私たちはとにかく、安心して食べてもらえる米作りに、ひたすら取り組むのみです。

 いま私たちが作業を始めなかったら、来年のお米がないわけですから。 」

 

「 色々な困難が待ち受けていると思いますが、とにかく前に出るのみです。

 頑張りますから。」

 

ジェイラップ・関根政一さんの言葉は、けっして彼だけのものではなく、

想像を絶する震災に遭いながらも、

いま田んぼに立っている、すべての農民共通の思いに違いありません。

 

ただ前を見るしかない。

秋に見せてくれるであろう黄金色の稔りに希望を託して-

そんな思いで今年の米作りをスタートさせたすべての農民に、

心からエールを送りたい。 そして祈ります。 

 - 雄々しいタンクの写真と関根さんの言葉を見つめながら、そんな思いです。

 

なお、大地を守る会のHPでは、

「大地を守る会の生産者の被害状況」

が一覧にまとめられていますので、どうぞご確認ください。

 



2011年3月23日

被災生産者への復興支援義援金受付を開始します。

 

大地を守る会の消費者会員の方々には、

昨日(22日:火曜日) から配布の 「ほっとでぇた号外」 にて、

義援金の募集を開始しましたが (いつもの注文書で申し込めます)、

生産者や関係者の方々からも多数のお申し出を受けており、

急ぎ専用口座を開設いたしましたので、ご案内申し上げます。

 

お申込みいただいた義援金は、大地を守る会の被災生産者の復興支援等に

活用させていただきます。

義援金の額・使途につきましては、機関誌 『NEWS 大地を守る』 や

ホームページ等を通じて報告させていただきます。

振込指定口座は、以下の通りです。

 

三井住友銀行 六本木支店

普通口座: 7464419 

口座名義: 大地を守る震災復興支援基金
       (ダイチオマモルシンサイフッコウシエンキキン)

 

上記の口座は、別途生産者の方々にお送りした

「福島第一原発の事故に対する大地を守る会の取り組みについて」

にてご案内した口座 (千葉興業銀行) とは異なりますが、

どちらをご利用いただいてもかまいません。

ここでは名義の文字数が少ない方を記載しました。

それでも ATM などでは口座名義の全文字が表示されない場合がございます。

あらかじめご了承ください。

また、大地を守る会では電話・メールによる義援金の勧誘は行なっておりませんので、

十分ご注意ください。

 

また、大地を守る会のホームページでは、

「大地を守る会の震災復興支援活動について」

のコーナーを新設しました。

義援金だけでなく、物資での救援活動や生産者の受け入れ活動など、

各種の支援活動の取り組み状況が逐次アップされますので、

どうぞご確認ください。 

 

とても苦しく、悲しい事態が続いていますが、

前を向き、気持ちを奮い立たせて復興に進み始めた方々の姿には、

私たちも勇気づけられています。 

気持ちを一つにして、大きな力で支援したいと考えます。

一人でも多くの方のご支援ご協力をお願いする次第であります。

 



2011年3月21日

みんな頑張っている

 

とてもつらい訃報の悲しみにひたる間もなく、

津波のように追い討ちをかけてくる福島原発事故の影響。

 

避難所では笑顔で励ましあっている人たちがいて、

ボランティアで東北に向かう人がいると思えば、

放射能汚染から逃れるために東京から避難する人も現われてきた。

 

原子力発電所では、50メートルまで近づいて放水を続ける人たちがいる。

彼らの胸の中にあるのは家族と子供の笑顔だろうか。

それとも一人の、孤的な美学がその行動を支えているのだろうか。

一方で、ホウレンソウはどこであっても要らない、という小売店まで現われた。

 

天使の心を発揮する人もいれば、悪魔の言葉を増殖させる人もいる。

僕はこの現実を冷静に受け止められず、翻弄されている。

ただただ判断を誤らないことを願いながら。

 


青森・新農業研究会の一戸寿昭会長から電話が入る。

青森とあって、何か起きたかと一瞬不安がよぎったが、用件は逆だった。

「大地から震災に対する方針が届いてこないんだけど、どうなってんの?」

 

倉庫や冷蔵庫が壊れたにもかかわらず、

「こっちの被害なんてどうってことないんだからさ。 支援の要請をよこしてよ。」

この程度じゃ被災だなんて言ってられない、支援させてほしいのだと言う。

91年の19号台風以来、被害への支援を受けた感謝を忘れない人たち。

この底力。 また涙が出てくる。

 

どこもみんな、建物や設備の損壊はある。 しかしそれで弱音を吐く人がいない。

たとえば本ブログにも時折登場する宮城の大豆生産者、

高橋伸さんのブログ  を見れば、大変な被害だったんだと改めて思う。 

これからの復旧資金は、どれだけの重荷になるだろうか。

でも彼は、心配する僕らに対して、「こっちは大したことないから」 と言ってくれる。

人への思いやり、あるいはへこたれない意思表示として。

 

たとえばこの間報告した福島県須賀川市・ジェイラップ。

驚異的な復旧で、今週末には米の供給を再開させるところまできた。

この程度で泣きごとを言うわけにはいかないという意地もあれば、

求めてくれる消費者に一日も早く届けたいという義務感もあれば、

励ましたいという願いも、やったぞと胸を張りたい男気も、あるのだろう。

みんな、強い。

 

須賀川で起きた農業用ダムの決壊など、

これから見えてくる影響については、改めて記したい。

この地震の影響は、まだまだ想像の範囲を超えて現われてくるだろう。

もうすでに今年の米作りの準備に入っていなければならない時期に

来ていることを想像してみてほしい。

 

ともすれば暗くなる気分をふっ飛ばすかのように、

岩手から突っ走ってきた奴がいた。

「総合農舎山形村」 の所長、木藤古修一さん(下写真の右) と大向さん(同左)。

 

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(写真提供:吉田和生)

 

18日夜20時30分に岩手県久慈市山形村を出発し、不眠不休で国道4号をひた走り、

翌19日朝10時過ぎには習志野物流センターに到着した。

宅配の注文品や東京駅エキュートの商材を、自ら運んできたのだ。

 

翌日の製造業務もあり、昼飯を食って、

集まっていた救援物資を積んで、とんぼ返りした。

帰りはさらに相当な、いや見事な荒業を駆使して走ったようだ。

 

職員中心に、急ぎ集めている救援物資。

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岩手県久慈市に引き取ってもらい、

各被災地にも振り分けてもらうようお願いしている。

 

各地の生産者から支援の申し出が続いている。

速やかにすべての愛に応えたいと思うのだが、

一方で原発事故は、未経験領域の  " 責任の取り方 "  の判断を迫ってくる。

 

この経験を、ひるまず力にしなければならない。

希望を信じて、覚悟を決めて、前に進むしかない。

 



2011年3月20日

畑にも被害が及び始めました。

 

厚生労働省は昨日(3月19日)、

福島県産の原乳と茨城県産のホウレンソウから、

食品衛生法に基づく暫定規制値を超える放射線量が検出されたと発表しました。

 

ともに県が実施したサンプル調査によるものです。

原乳は福島県川俣町で採取されたもので、

1キロ当たり932~1510ベクレルの放射性ヨウ素が検出されました。

ホウレンソウは茨城県の高萩市や日立市など6市町村のもので、

6100~1万5020ベクレルのヨウ素が、

また524ベクレルのセシウムが検出されたとのことです。

なお同時に分析されたネギは規制値以下の結果でした。

 

食品衛生法に基づく暫定規制値というのは、

今回の福島原発の事故を受けて急きょ設定されたもので、

この規制値を超える飲料水や生鮮食品については出荷させないように

(正確には 「食用に供されることがないよう販売その他について十分処置されたい」)、

という通知が都道府県に出されています。

牛乳の規制値は、放射性ヨウ素=300ベクレル、同セシウム=200ベクレル。

野菜は、ヨウ素=2000ベクレル、セシウム=500ベクレルとなっています。

いずれも 1㎏あたりの量です。

 

ただし規制の範囲は定められておらず、

これを受け、茨城県では県内の露地栽培のホウレンソウの出荷停止を各市町村に

要請しました。

 

この要請にともない、大地を守る会においても、

茨城県産ホウレンソウの流通をいったん停止しました。

再開は未定です。 今後の情勢により判断、という形にならざるを得ません。

 

とうとう畑や家畜にも影響が出てきました。

メディアでは、「食べてもただちに健康に影響が出る値ではない」

「野菜は洗ったり、茹でたりすれば、相当量が除去される」 と報じています。

それはそうなのですが、とはいえ、

これ (放射能) ばっかりは、どこまでが 「安全」 と言い切れるものはありません。

残念ながら私たちにも、断定できる閾値は設定できません。

 

放射能と安全な暮らしは共存できない。
原発は一度でも事故が起きると、その被害と影響は
空間(距離)的にも時間(未来)的にもはかり知れず、
原発に頼らないエネルギー政策にシフトしていかなければならない。
 
 

大地を守る会は、25年間にわたってそう主張してきました。

社会を変えるまでに至らなかった非力さを、無念や悔悟とともに深く自省しつつ、

しかしけっして諦めることなく、

未来のために、為すべきことを為したい、と自らに念じています。

 



悲報

 

コメントにて消息を尋ねられ、

いったんは無事避難されているとの情報をお出しした、

宮城県南三陸町のエリンギの生産者、千葉幸教さん (志津川アグリフード) ですが、

津波による遭難でお亡くなりになったことが判明しました。

 

地震後の第1派では、ご家族と一緒に避難されたのですが、

作業場に取り残された従業員の方を探しに戻られた際に、

第2派の津波に襲われたとのことです。

生存者名簿に記載されていたことや、ホテルに避難されたとの情報も、

おそらくはその時間差によるものかと思われます。

作業場で従業員の方と一緒に発見され、

18日、仙台にお住まいの千葉さんのお姉さまが

南三陸町の遺体が安置されている施設でご確認されました。

なお、奥さまやお子様はご無事です。

 

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(撮影:須佐武美) 

 

千葉さんは、当会との取引が始まってより、

地域で仲間や栽培品目を増やしていきたいと、夢を語っておられました。

残念でなりません。

千葉幸教さんのご冥福を衷心よりお祈りいたします。

 

また情報が錯綜してしまいましたこと、深くお詫びいたします。

 

 



2011年3月18日

心をひとつにして

 

また聞きながら、どっかの会社の社長さんが、ブログで

「今が稼ぎ時」 みたいなことを書いて、バッシングを浴びているという話を聞いた。

物資不足にめげず、厳しい環境下でもみんなが一つになっていたわり合い、

支え合おうとしている中で、

なんという心ない、悲しい発言だろうかと、ブチ切れそうになった。

でも、そう考えている人は多いのかもしれない。

商売自体は何も悪いことではない。

必要とされるモノが人の間をうまく流れることで、人々の暮らしが安定するわけだから。

しかしお金というとても怖い両刃の剣を手段として手に持つ以上、

商いには礼節と仁義を欠かせてはならない、ゼッタイに。 

弱みや混乱に乗じて儲けるのは " 悪徳 "  である。

今だけは、せめて今だけは、この国でそんな姿は見たくない、

聞きたくないと思っていたのだったが。

怒りというより、悔しいと感じてしまうのは、

美しい国であってほしいと思う心根が、僕にもまだ多少は残っているからか。

 

備蓄米の精米ラインに損傷を受けたジェイラップ(福島県須賀川市) の

伊藤俊彦さんからメールが届いた。

 

大地震の後の余震も徐々に減りつつあるようです。 

精米工場の修復も本日(17日) までに一応の対策を完了しました。

明日いっぱいかけて試運転を行う予定です。

埼玉のエンジニアリング会社が、今日で四日目の作業を行なっております。

会社事務所に断熱材を敷き、風呂もシャワーも無しの3泊です。

真っ先に駆けつけ、ひたすらメンテナンスに当たっている姿に

手を合わせたい心境です。

家内の有り合わせ料理を 「おいしい」 と言ってくれる気持ちにも、ただ感謝々々です。

 

自分のことを後回しにして、頑張っている人がここにもいる。

みんなが言い始めている。 「ニッポンはまだ捨てたもんじゃない」。

それにしても猛烈なスピードでの復旧である。

鬼の形相でメンバーを鼓舞する伊藤俊彦、

「こんなのでツライなんて言ってたらバチがあたるぞ」 とか言っているのだろう。

「分かってますよ」 と歯を食いしばって働くメンバーたち。 彼らの顔が見えるようだ。

手を合わせたいのは我々の方である。

 

福岡県久留米市の石橋製油の上野裕嗣さんからも、

ダミ声ながら勢いのある電話がかかってきた。

「 油は油でもウチの油は、今のところあんまり必要ないようなので、

 水とお茶を習志野センターに送りますんで、使ってやってください!

 飛んでいきたいのはやまやまなんですが~、これくらいしかできませんで、

 ホント、なんかですね、お役に立たんといかんと思って、いてもたってもおれませんわ。

 お願いします、使うてください! お願いします! 」

数を聞けば、重量にして約 1.5トン ある。 参ったね。

被災地に届ける約束をして、有り難くお受けすることにした。

 

午後3時、本社にいた社員が集められて、

藤田社長から檄が飛ばされた。

 

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歴史に語り継がれることになるだろう未曽有の大惨事が進行している。

わが社も物流センターに多少の被害が発生したが、

東北で被災した方々に比べれば、何ほどのものでもない。

義援金や救援物資なども含めた被災者支援も最大限行ないたい。 

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福島原発では、暴走を食い止めようと必死で頑張ってくれている人たちがいる。

我々はずっと原発には反対してきた立場ではあるが、

今は政府や電力会社を批判している場合ではない。

私たちはもはや、命がけで作業にあたっている自衛隊や東電の社員さんたちに

かけるしかなくなっている。 彼らの頑張りに心から感謝し、応援したい。

事態は刻一刻と変わっていっているが、

各員、自分の持ち場で全力を尽くし、みんなの力でこの難局を乗り切りたい。


畜産水産グループ長の吉田和生からは、

義援金や救援物資といった一時的なモノだけでなく、

大地を守る会らしい、生産者のネットワークの力も活かした支援を考えたい、

という決意が語られた。

 

考えなければならないことは色々あるが、やってみようか。

鈴木康弘へ。 呼びかけは、お前の一文でいきたい。 受けるよね。

 



2011年3月17日

つながりと支援の輪を形にしよう

 

インターネットの検索から、お二人の方がこのブログにたどり着き、

生産者の安否を尋ねて来られた。

南三陸町の千葉幸教さんと、奥松島 (東松山市野蒜須崎) の二宮義政さん。

僕らももっとも連絡に苦慮した二人だった。

無事をお知らせして喜んでくれるのが、こちらにとってもこんなに嬉しいことかと、

不思議な気持ちになったりしている。

(まだ予断を許さない状況ではあるけれど。)

 

改めて書くと、二宮さんからの一報を受け取った

吉田和生 (畜産水産グループ長) からの報告は、こんな感じだった。

 

  帰れずに会社近くのホテルに泊まっていた3月14日(月) 朝7時前、

  二宮さんから携帯に電話が。

  「生きてたか!」 思わず叫び声を上げてしまった。

  二宮さんの家は、200人の遺体が発見された野蒜海岸、

  そして家の前がそのまま海という場所なので、

  はっきり言ってダメかなという思いが頭をよぎっていたのも事実。

  聞いてみると、地震があった瞬間に車で逃げたが、

  津波に追いつかれ、飲みこまれ、流され、電信柱にぶつかって止まった。

  しかし、窓ガラスが割れ、濁流が。 必死に脱出し、奇跡的に逃れた。

  その後は着のみ着のまま、10ヵ月になる孫の悠斗君を抱え、さまよい続け、

  3日目の夜に利府の親戚にたどり着き、ようやく畳の上で休めた。

  途中、孫は低体温で真っ青になり、

  孫だけは生きて欲しいと、必死にさすりながら、彷徨ったと。

  家も船も流され、孫のミルクにも不自由しているが、

  生きていて良かった。 本当に良かった。。。

 

隣で聞いていた N によれば、あのコワモテ、暴走族上がりの吉田が泣いていたという。

地獄のような惨劇のなかにあっても、

人はつながりと  " 愛 "  によって希望を持つことができる。

TV では子どもたちの健気なボランティアが大人を励ましている。

忘れないようにしよう、この心を。

 

石巻の 「高橋徳治商店」 社長、高橋英雄さんは、

孤立状態だった避難場所で、最後まで残って130人の避難民を誘導したという。

塩釜の 「遠藤蒲鉾店」 遠藤栄治さんは、

従業員全員で高台に避難して、家族も従業員も事なきを得た。

心配していた工場も奇跡的に大きな被害はなく、水道とガスはまだ開通しないが、

今も近隣では遺体が発見される日々だという。 心情は言葉に表せない。

 

あらゆる事態に圧倒される。

どんな言葉も軽くて軽くて、この無力感がやり切れない。

 

ベトナムの農村で地域開発に取り組むNPO団体の Ⅰ さんから

13日に届いたメール。

 

  日を追うごとに被害の状況がわかるようになり、

  ハノイで大変せつなく哀しい思いをしております。

  在ハノイ日本人の中にも東北にご家族がいらっしゃる方が大勢おり、

  未だに連絡が取れず、焦りを感じておられます。

  

  ベトナムのニュースや新聞では、困難な状況の中で、

  日本の皆さんが迅速に冷静に組織的に救援活動を開始し、

  秩序を保って行動していることが高く評価されています。

  私たちにとって、とても辛く厳しい状況ですが、日本の和の精神を大切に、

  この困難と悲しみを力を合わせて乗り越えていきましょう。

 

そして元大地を守る会の職員で、群馬県倉渕村(現高崎市) に入植した

「くらぶち草の会」 の鈴木康弘が、

いてもたっても・・・という心情がにじみ出たプランを送ってよこした。

 


被災者(特に農家がいれば) を受け入れるファームスティの

農家ネットワークを組織してほしいと。

 

  自分たちは農家です。

  ボランティアに行きたくても、自分の持ち場(畑) から離れることはできません。

  しかし一時的な避難先として受け入れることは可能です。

  部屋と食事を提供することぐらいはできます。

  特に農家の方などは、農作業をしながら故郷の再生の時に備えることは

  体育館や仮設施設でもんもんと過ごすより

  精神的にも良い部分が多いのではないかと考えます。

  受け入れ側も農作業をお願いしやすく、強力な助っ人になるでしょう。

  ぜひ、大地の方々や生産者理事の方などで話し合ってもらえればと思い

  メールしました。

  こみ上げてくる悲しみ、悔しさ、そして無力感。 そんな気持ちが

  心の底から湧き上がってくるやる気、使命感に変わってきています。

  それぞれが自分の持ち場で最高の仕事をするしかないと

  みんなが気づいてきているように思います。

  それでは。 畑へ急がねば・・・。

 

分かった。 時間もないけど、精一杯考えてみよう。

 

徳島県阿南市の武田水産・武田輝久さんからも同様の電話が入ってきた。

「 漁師は陸(おか) に上がっても何もでけん。

 三陸の漁師の技術(うで) を徳島で活かしてくれるんやったら、

 何人でも受け入れたるぞお。 」

 

吉田和生もその気になってきた。

大地を守る会のネットワークで、一次産業の懐の深さを、

そこに農や漁があることの有り難さを、みせてやろうか。

 

支援物資や義援金の問い合わせもたくさん入ってきて、

準備も一気に進んできた。

会員の皆さま、生産者の皆様、来週にもご案内を差し上げますので、

ご支援ご協力のほど、お願い申し上げます。

 

物流は、とにかく油、燃料とのたたかいになってきている。

モノがあっても届けられない。

それでもなんとか、同種の代替品を入れさせていただいたりして、

注文の8割強は供給できている感じだろうか。

習志野物流センターのライフラインはまだ修復しないが、

みな気合いで頑張ってくれている。

 

今も余震は続いている。 今日は静岡でも地震があった。

制御不能に陥った福島原発は、大暴走を食い止めるべく必死の防戦を強いられている。

真綿で首を絞められるかのように進むクライシスが、

人々の不安と恐怖を増幅させている。

 

夜、前回の日記で紹介した茨城の濱田幸生さんに返事を出す。

もう気休めの言葉は書けない。

 - 生きましょう。 生きて、この腐れ社会を立て直しましょう。

 



2011年3月15日

安否確認

 

昨日の日記へのコメントを通じて、

宮城県南三陸町のエリンギの生産者、千葉幸教さん (「志津川アグリフード」) の

消息をたずねてこられた潮田沙織 様。

仕入担当・須佐があちこちアンテナを張って調べていたところ、

ようやく 「無事のようです」 の情報提供を得ました。

直接本人と会ってないので、まだ確定とは言えませんが、

ご本人とご家族は近くのホテルと小学校に避難されているようで、

南三陸町の生存者名簿にも記載されているとのことです。

お体の様子がつかめませんが、とりあえずひと安心、というところでしょうか。

よかったです。

 

これで農産関係の生産者はほぼ無事が確認ができました。

「ほぼ」 というのは、団体のメンバー全員の確認まではまだやり切れてない、

という事情です。

 

弊社・幕張本社と習志野物流センターは、

計画停電情報と交通機関の混乱に振り回されながらも、

何とか人の手当てから臨機応変な業務オペレーションまで、

やりくりしながらつないでいます。

昨日は職員の送迎で、京葉線・海浜幕張から総武線・西船橋間の

ピストンもやりました。 車に自転車まで積まされたのは参りましたが。。。

 

配送も遅れ遅れながら、頑張ってくれています。

ただ産地からの物流が、道路事情だけでなく燃料の確保がままならず、

随所でストップしている状態です。

茨城県行方市の卵の生産者、濱田幸生さん (キジムナー農場) が

彼のブログ 「農と島のありんくりん」 で、

あまり報道されない茨城の状況を伝えています。 ぜひ読んでみて下さい。

 

亡くなられた方やご家族の方々には本当に申し訳ない言い方ですが、

大地を守る会の生産者は皆さん、何とか無事で、頑張って生きてます。 

気持ちを切らすことなく復旧に入られた方々には、本当に頭が下がる思いです。

 

いろんな食材が欠品になっています。

それでも他の生産者・メーカーさんのもので代用できるものは

手当てさせていただいています。 

食べていただければ、生産者にとっても嬉しい限りです。

どうか事情ご理解くださいますよう、お願いします。

 

地震に加えて、原発の状況がますます緊迫してきています。

ヘンな情報も乱れ飛び始めているようです。

冷静に判断しながら行動しなければならないですが、

とはいえ最悪の事態になったら・・・ 身も震えてきます。

大地を守る会は、86年のチェルノブイリ事故以来、ずっと原発に反対してきました。

その力が足りなかった悔しさに歯ぎしり噛んでいますが、

しかしここはとにかく、一人でも多くの人を救いたい、その思いに集中したい。

日々のつなぎ (物流と情報の流れ) に汲々としながらも、

やれることはやりきろう、と鞭打っています。

 



2011年3月14日

東日本大震災

 

ため息や涙も飲み込んでしまうような事態が進行していますね。

刻一刻と情勢が変化するなか、情報収集や物流関係での判断等に追われて、

なかなかブログまで手が回りませんでした。

 

まずはとにもかくにも、

被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、

一人でも多くのご無事と一日も早い復旧を願わずにはいられません。

 

大地を守る会の公式情報は、HPを見ていただくとして、

取り急ぎ、3月14日午前11時時点での状況です。

 

生産者関係では、これまでのところ、「人」 は無事です。

なかなか安否確認できなかった宮城・岩手・福島方面もようやく連絡が入るようになり、

順次、無事を確認しています。

一番心配していた奥松島の二宮さん(カキ) からも今朝連絡があり、

地震直後に車で逃げたが、津波に追いつかれ、

電柱にぶつかりガラスが割れたので車から脱出、

家族全員で歩いて親戚宅までたどり着いたとのこと。 まさに奇跡の生還!です。

塩釜の遠藤さん(練り物) も、高橋徳治商店さんも、元気です。

 

農産関係で被害が大きかったところでは、

福島・須賀川、ジェイラップの備蓄米の精米ラインが損傷を受けました。

各所に地割れが発生して、メンバーの家屋も相当な被害が出ているようですが、

それでも 「津波や大火に見舞われた方々に比べれば」 と

伊藤俊彦代表の陣頭指揮のもと、気を取り戻して復旧に入っているとのことです。

 

とにかくライフラインがメチャメチャです。

ヤマトの集出荷も止まっていて、モノが届きません。

「ガソリンの確保もままならない」 といった連絡も相次いでいます。

弊社・習志野物流センターの状況はというと、

地震当日は停電と地盤の液状化現象によって避難指示を受けましたが、

12日から早々に業務を再開。

今も断水の状態が続いていますが、今日からの宅配はしっかり走らせています。

ただし時間はお約束できません。

モノも相当量が欠品になってますが、どうかお許しください。

順次回復してゆければいいのですが、計画停電の影響が読めません。

 

以上、取り急ぎ、です。

下の写真は、地震翌日12日の午後の、海浜幕張駅周辺の様子。

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相当な液状化現象があったようです。

というのも、僕は前日は成田で足止めを喰らって会社に戻れなかったのでした。 

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駅は通行止めです。

 

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11日は電車がストップして、

大地を守る会の職員も100人ほどが、幕張テクノガーデン・ビルに泊まったとのこと。

窓から市原のコンビナート炎上を眺めながら。

キノコ雲が上がったのを、呆然と見つめたらしい。

 

同じテクノガーデンに本社がある気象会社、ウェザーニューズ社でも、

2階フロアを開放して、帰れなくなった避難者を受け容れたようです。

ウェザーニューズのUさんから送られてきた様子。

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こういうときに必要なのは、とにかく助け合い、ですね。

みんなで励ましあい、難局を乗り切りましょう。

 



2011年3月 8日

異常気象で生産者が消えていく・・・

 

東京集会のレポートは2回でいいかと思っていたが、

そろそろ整理しようと思って手に取った記録メモを見直してみて、

やっぱ生産者が語った大事な話だけでも残しておきたいと、改めて思うのである。 

実行委員会から写真もゲットしたし。

 

お祭りのように賑やかで楽しい交流集会のなかで、

唯一といってもいい、重苦しい話題でのステージ30分一本勝負。

" 生産者が語る 「異常気象レポート」 " 。

 

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私へのイメージが暗いものに固まるのがこわくて、

スタッフ・エプロンを羽織ってもみたのだが、ぜんぜん似合ってないじゃんよ。

写真も暗いしィ 。。。

解説もこんな感じで・・・

 

「異常気象」 という言葉には、もう聞き飽きた感も持たれることかと思うが、

この言葉にも定義があって、

けっして不安を煽るために都合よく使われているわけではない。

気象庁によれば、それは

「統計的に、30年に1回以下の出現率で発生した気象現象」

ということになっている。

この言葉がひんぱんに登場するほどに、

気候変動は日増しに激しくなってきていることを意味している。

 

例えば昨年夏の高温・猛暑は、気象庁が統計を取り始めた1898年からの、

過去112年間での最高記録である。 

つまり100年に一回かどうかも分からない記録というわけだ。

世界全体で見ても、統計上2番目の高さだった。

しかもベスト5はこの10年ちょっとの間に集中している。

 

冬になれば、日本海側ではこれまた記録的な豪雪となった。

日本の観測地点37ヶ所で最大積雪記録が更新されたのが、この冬である。

「集中豪雪」 なる言葉まで生まれた年として残ることになる。

背景として指摘される 「ラニーニャ現象」 は、

世界気象機関 (WMO) が 「100年の中でも最強クラス」 と呼んだほどだ。

 

そして自然災害の規模は、年々大きくなっている。

 


2月24日の日記で示した2010年の世界の異常気象MAP (気象庁データ)

を見てもお分かりのように、世界のあちこちで異常気象が観測され、

それらが相互に関連し合い、かつ至る所で災害をもたらしている。

しかも今後の気候変動はより不確実性を高め、激変する可能性を帯びてきている。

温暖化とは年々少しずつ気温が上がるということでなく、

乱高下の変動幅がどんどん激しくなることだと理解しなければならない。

 

IPCC(気候変動に関する政府間パネル) 第4次報告によれば、

20世紀後半の気温上昇・温暖化は、もはや自然要因だけでは説明できない。

明らかに人為的な要因が加わっている、と指摘されている。

気候変動がもたらす社会的影響は、

時限爆弾ともいえる人為的ウィルスを抱えながら進んでいると言える。

 

同時に地球規模で進んでいるのが、

人口の増加と耕作面積の減少 (地力の短期的収奪・砂漠化も含めて)

という自己破滅的な動向の加速化である。

温暖化は水収支も悪化させていて、世界は水資源の奪い合いを激しくさせている。

前世紀の経済発展のエンジンとなった石油は供給力ピークを越えた。

投機マネーはいよいよ穀物市場を荒らし始め、

外国の耕地を買い漁る 「ランド・ラッシュ」 という言葉まで生まれた。

買われた土地の下には水脈がある。

 

昨年から今年にかけては、

ソ連やオーストラリアの干ばつによる不作や輸出禁止政策が穀物の高騰を誘引し、

それがアラブ諸国や北アフリカの政情にも影響を与えている。

世界は前代未聞の資源戦争の世紀に突入した。

 

かたや日本では、山 (=水源) は荒れて外国資本に買われはじめ、

耕作放棄地は平地にまで及び、

持続性がどこにあるのかよく分からない輸出市場に期待をかけて

関税撤廃 (これは農産物だけの話ではない) に乗せられようとしている。

基盤が脆弱化しつつあるなかで、防壁のない戦を始めようとしている気がするのは

僕だけだろうか。

 

そんな状況を背景に、昨年各地から届いた写真を見ていただく。

例えばこんな写真。 

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これは茨城県筑西(ちくせい) 市、大和田忠さんの人参畑。

7月中旬~8月いっぱい、ほとんど雨が降らない大干ばつに見舞われた。

7月下旬に播種(はしゅ) した人参が発芽したのは9月になってから。

灌水設備がない畑のため、大和田さんは、タンクで水を汲んできては撒く、

汲んできては撒く、を繰り返したが、10月の冷え込みもあって、

この畑の人参はついに大きくならなかった。

 

東北地方を襲った 虫の異常発生と北上 は以前にもレポートした通りである。

奇形果が大量に出たトマト、日焼けで白くなった柑橘・・・

農業歴ウン十年の生産者でも、これまで経験したことがないという

現象があちこちで発生した。

 

発言をお願いした北海道中富良野町、「どらごんふらい」 のメンバー、

石山耕太さんが解説してくれた人参畑。

 

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8月の断続的ゲリラ豪雨によって畑は水浸しになり、根の先端から腐っていった。

玉ねぎ畑は先日の日記で見てもらった通りである。

 

それでも石山さんは、しっかりと前を向いて語ってくれたのだ。

 

我々にできることは何か?

異常気象が当たり前という前提で、高温、低温、多雨、少雨を問わずに対応可能な

心と、体と、手段を持ちたい。 

簡単にあきらめないこと。

あきらめざるを得ない時は、すばやく次の戦略を練ること。 

そして、作物の生命力を信じたい。

 

夏の次は冬。

日本有数の漁港、鳥取県境港で漁船を持つ(株)福栄専務取締役、岩田健二郎さん。

大地を守る会には、イカやカニ製品を出していただいている。

 

昨年末から正月にかけての記録的集中豪雪で、

たくさんの小型漁船がやられた。

 

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小型漁船の主は、60歳以上の方が多い。

船舶の保険料は高く、こういうことがあると、「もうやめるわ」 という人が現われる。

災害のたびに漁業者がいなくなっていくのだという。

 

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突発的な災害だけでなく、温暖化は海水温の変化ももたらしていて、

岩田さんは魚種が減っていることも不安であると語る。

境港は多様な魚が揚がる、つまり海の豊かさを誇っていたものだが、

魚種が減るということは、確実に漁業資源の枯渇にもつながってゆく。

そこに災害が襲うと・・・ 一次産業者には耐える力も衰えてきているのです。

国に何とかしてほしいと思ったりもするんですが・・・ 

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先日、世界銀行の総裁が、

「世界の食料価格は、極めて危険な水準まで上昇している」 と警告を発した。

私たちは、これからさらにひんぱんに異常気象を経験することになる。

食料の奪い合い、資源争奪戦が激しくなる中で、

自由市場に出れば出るほど、

食べものが一部の人たちの力で左右されるリスクが増すことになる。 

 

ここ2ヶ月ほどの新聞を見ても、かなりヤバイ記事が増えている。

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食糧危機は、来るべき不安ではなく、現在進行中の事態なのである。

僕らはすでに

ゆで蛙 (だんだんと温度が上がっていく中で、知らずに茹で上がってゆく)

と同じ状態に陥ってないだろうか。

世界中で格差が拡大していっているのは、無関係ではない。

 

私たちは、食べものと水を永続的に供給し続けてくれるこの豊かな国土を

しっかりと守る必要がある。

食と健康と、それを支える環境(=暮らしの土台) を守ることによって、未来は安定する。

できることなら、地球資源をもっとも調和的に維持させているモデル国として

イニシアチブを取るくらいの国になりたい、とすら思う。

 

そのために私たちが日々取るべき行動とは、究極のところ、

誰とつながり、何を食べるのか、食も水もお金も含めた資源をどんな循環でまわすのか、

という点に集約されていくのではないだろうか。

頑張って作り、食べる。 その輪を強化したい。

その輪に選ばれる組織でありたい。

けっして嘘をつくことなく。

 

私たちの交流は前に進んだか。

 



2011年3月 5日

「食の記憶」 が伝える豊かさ ~ だいち交流会 から

 

大地を守る東京集会の1日目、

2月26日(土) に開かれた 「だいち交流会」 の模様もアップしておきたい。 

この日は首都圏13の会場に分散して生産者と消費者の交流が行なわれ、

僕は墨田区・錦糸町の会場に参加した。

こちらの会場を準備してくれたのは、会員が主体となって運営する 「だいちサークル」

のひとつ、Fuwatto の方々である。

 

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こちらで設定されたテーマは、

「日本縦断? 地域の食べ方み~つけた。」

 昔ながらの食べもの、各地の郷土料理、我が家自慢のおススメ料理、

 私だけの 〇〇 な組み合わせ、つくる人特権の味、

 今日はどんなメニューが並ぶかな。

 さあ、みんなで 「食の旅」 に出かけよう。 オー!

 

-というわけで、参加者は少人数で各テーブルを囲み、

与えられたテーマ (お題) に沿って思い描いた答えを紙に記入し、発表する。

お題は3つで、変わるたびにメンバーが入れ替わりながら、進められる。

 

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最初のテーマは 「我が家のおススメ料理、各地域のふるさとの味」。

ふたつめは 「大至急!3分でごはん。あなたならどうする !? 」。

みっつめは 「忘れられない味」。

みんな悩んだり、照れたりしながらも、面白がって書いている。

 

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自分の書いた食材を発表するうちに、雰囲気が自然と和んでくる。

しかも出てきた答えは、見事にそれそれの地域の食文化を反映している。

消費者の場合は、ふるさとの味、である。

「ああ、なるほど」 から 「なにそれ?」 まで。

 


いま思えば、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔するほど、

なかなかにその人の素性というかDNAを、見事に表現していたような気がする。

 

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「ふるさとの味」 は、特定の食材であったり、郷土料理だったり、母の秘伝の味だったり。 

「3分でごはん」 では、おにぎりにも微妙な味つけや具材に違いが見える。

納豆が随所に登場するかと思えば、

たとえば僕のように、「忘れられない味」 は、四国から上京して初めて食べた納豆である。

関東の人間は腐ったもん食っとる・・・・・あの驚愕の体験。

連合軍捕虜にゴボウを食べさせた廉(かど) で戦犯に処せられた話など

比ではないと思ったくらいだ。

しかしこの糸を引く怪しい食べものは、腐敗ではなく 「醗酵」 なのだという。

ニッポンは広い! ワシはまだな~んも知らんのんちゃうか、という衝撃。

龍馬もきっと同じ体験をして、世界に目を開いたのだと、僕は今でも秘かに信じている。

 

ま、そんな個人的な体験はどうでもいいとして、

「食」 とは、かくも人間を表現する。 ただ生きるために必要なものだが、

それだけに互いを知る上での格好のコミュニケーション素材なのかもしれないし、

であるからこそ 「食」 は人をつなげるのだろう。

ブリア・サヴァランの 『美味礼賛』 だったっけ。

 - あなたが何を食べているのかを言ってみたまえ。 あなたが何者かを言ってみよう。

記憶が曖昧で、スミマセン。

 

「生産者」 と 「消費者」 という枠組みに捉われず、

テーブルを回りながら、キーワードに沿って自己紹介し、

私の 「食風景」 を語り合い、相手を理解する。

初めて会った水産関係の生産者を、「〇〇丼の人」 として記憶に留めたりして。

こういうのもあり、か。 自分にまとわりついている固定観念を少し反省する。

 

会の最後に、「頑固な野良の会」(茨城) の阿部豊さんに、歌で締めてもらう。

 

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大企業勤めを捨て、有機農業の世界に飛び込んでもう20年以上になったね。

農作業のなかで作ったのであろうオリジナル曲に加えて、

サッチモ(ルイ・アームストロング) の 「WHAT  A  WONDERFUL  WORLD」

を自分流に訳したという一曲を披露してくれた。 

 

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もっと時間がほしかった、とみんな思ったことでしょう。

アットホームな、素敵な交流会でした。

Fuwatto の皆さんに感謝、です。

 

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他でも12ヵ所で、

それぞれに趣向を凝らした楽しい交流が繰り広げられたことと思う。

あとは楽しく飲む、も欠かさずに。

 

この地区別交流会も始めて28年。

気がつけば、当時生まれた世代が仕切るまでになっている。

伝統というのは継続のなかで育まれながら、

かつ静かに変化もしているのだった。

 



2011年3月 2日

2011年の 「大地を守る東京集会」, 無事終了

 

" 大地を守る会の オーガニック フェスタ " 

 - 時代遅れのワタシには少々照れくさいようなタイトルを冠した

「大地を守る東京集会」 が無事終了した。

 

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来場者、約 3,500名。 

事故や目だったトラブルもなく、いい交流の一日をつくれたのではないかと思う。

出展いただいた生産者・メーカーの方々に、まずは感謝です。

また、至らない点も多々あったはずのところを

大らかに受け止めながら楽しんでくれた会員の方々と来場者すべての方に、

心から御礼申し上げます。

 

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そして実行委員の方々、お疲れ様でした。

 

1978年2月に 「地球は泣いている 東京集会」 を開催してから、

毎年欠かさず続けてきたこのイベントも、もう34回を数えるまでになった。

思い返せば、僕が二日間にわたる総合司会をやらされたのは、

入社して2年目の84年のことだった。

以来、だいたい司会は生意気そうな若手が指名されるようになった。

翌85年から職員と消費者による実行委員形式でやろうということになって、

僕は実行委員に手を挙げて、

二日間のうちの一日を地区に分かれて交流する企画が実現した。

それやこれらは、いまや大地を守る会の伝統と言われるまでになった。

僕にとっての東京集会自慢はそこまで遡る。

 

そして年々規模が大きくなるに連れ、

実行委員会の負担は当時とは比べものにならなくなったけど、

こういった積み重ねがあって伝統も進化したきたわけだ。 

もちろん実行委員に限らず、スタッフ・出展者全員の力であることは言うまでもない。

それぞれにとっての 「私の自慢の東京集会」 が、また新しく生まれていく、

それこそが嬉しい。

 

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企画は盛りだくさんにあったのだけど、自分の受け持ちもあって、

回れた部分だけでも、盛況ぶりを紹介したい。

写真だけで流します。

雰囲気が少しでも伝われば幸いであります。 

 

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みんな一生懸命生きている。

その生を謳歌しながら、楽しくつながりたい。 

この仕事は、そのためにこそあるんだよね。

 

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未来を生きる子供たちへの責任を果たしたい、と強く思う。

 

失敗はしても、嘘はつかない。

そんな関係を築きたくて続けてきた  " 顔の見える関係 "  づくりだけど、

会長が壇上からお詫びせざるを得ない事態があったこともあって、

盛会であっただけに深く責任の重さを考え直す、

記憶に残さなければならない東京集会となった。

まだまだ、だね。

 



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