2011年6月 3日アーカイブ

2011年6月 3日

福島・浜通りの苦悩 -福島行脚その⑤

 

さてと・・・・・ 忘れてはいません。

福島行脚レポートが、実はまだ終わっていないのです。

 

でもこれが、ななかな気が重くて、書けないでいました。

でも、書かなければならない。

ワタシはこの体験を記憶しておかなければならない、とも思うのであって。。。

 

どうも、いつまで経ってもまとめられそうな気がしないので、

どんな形で終了するのか判然としないまま、書き綴ってみます。

言葉が浮かばないところは、写真だけで、

しかも細切れで続くことになるかもしれないけど、お許し願いたい。

 

5月5日、福島の生産者たちとの会合を終えて (福島行脚④ 参照)、

僕は福島駅前のビジネスホテルに一人宿泊して、

翌6日、日本有機農業学会の有志で企画された

「被災地視察と生産者との交流会」 に参加した。

 

朝、福島駅集合。 

ホテルの玄関に掲げてあるスローガンに一礼する。

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参加者は、日本有機農業学会会長代行の澤登早苗さん(恵泉女学園大学) に、

このところ会うことが多い茨城大学の中島紀一さんやコモンズの大江正章さん他、

総勢21名。

 

一行はワゴンのレンタカーを調達して、まずは被災の現地・相馬市に向かう。

例年なら観光客も多いだろうと思われる新緑の山間地を過ぎ、 

海から2~3km という相馬市柏崎地区に入る。

 

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いきなり、圧倒される。

防風林の松がきれいさっぱりと倒され、ここまで流されてきている。

 

田んぼがひび割れしている。

でもこれはただの乾いた田んぼではなくて、表面を覆っているのはヘドロである。

めくればその下に、津波で運ばれた  " 異物 "  が見える。

干からびた鮭とゴルフボールが、同居していたりして。

この田の再生は、、、想像するだけでため息が出てくる。

 

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ここに来る前に、相馬市で有機農業を営む生産者を訪ねたのだが、

集まってこられた生産者たちから聞かされた経験譚は

まるでSF映画のような話だった。

 

「海岸から200mくらいの交差点の赤信号で止まったら、前から津波が来るのが見えて、

 慌ててUターンして逃げた。 何も知らずに海に向かう車が通り過ぎていったが、

 助けることができなかった。」

「地震の時はトラクターに乗っていたが、まるで遊園地の回転木馬のようだった。

 降りたら立ってられなかった。」

「津波に遭って、姉は流木につかまって間一髪助かった。

 あちこちに悲鳴が聞こえて、家が壊れる音やらで凄い音とスピードだった。

 堤防が決壊して、地盤沈下もあるので、大潮になると今も水が入ってくる。」

「地震の時は浪江町を車で移動中だった。 津波が来たとは知らなくて、

 次の日に浜に行ったら海だった。 親戚を探そうとしたが、避難所も分からず、

 とにかく足で稼ぐしかなかった。 親戚夫婦が4km流されたところで発見された。

 供養できただけでも良かったと思う。

 (こっちも大変だったんだけれども) 原発で避難してきた方を受け入れて、

 しばらく3世帯10数人で生活した。」

そんな話を淡々と聞かされる。

 

相馬市は、今年も米の作付を行なうことを決定したが、

まだ行方不明者がいるので、捜索に支障をきたさないよう、

5月8日までは田んぼに水を入れないことも、申し合わせたという。

「捜索と営農のギリギリの選択が、5月8日っつうことになったわけです。」

田に水を入れることがどういうことか・・・

こんな米づくりを経験することになろうとは、、、言葉が出ない。

 

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相馬市から南相馬市に移動する。 

地震からもう2ヵ月近いというのに、立ちつくすしかない風景が続く。

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東京電力福島第1原発から20km圏ギリギリで圏外にある杉内清繁さん宅で、

20km圏内の根本洸一さんも同席されて、話をうかがう。

 

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杉内さんは93年から有機農業に転換したが、

今回の震災の影響よって、有機JAS認証は外さざるを得ない、

と認証機関から言われたとのこと。

そのあたりの判断は認証機関で統一されているのだろうか、心配なところである。

 

「 3月11日から二日間は余震も激しくて、夜は車の中で過ごしました。

 13日に行政の指示が出て小学校に避難したが、ドーンという音を聞いて

 原発が爆発したのではないかと思って、翌日に家族4人で郡山に避難しました。

 その後、宮城県亘理町の叔父の家に移って、4月24日に帰宅したんですが、

 周りでは空き巣や窃盗もあったようです。」

 

南相馬市は、原発事故とその後の行政方針によって、

「警戒区域」 と 「計画的避難区域」 「緊急避難準備区域」、

そして制限のない区域に分かれることになった。

制限のない区域には米の作付は問題ないとされたのだが、

4月14日、市は全域での稲の作付禁止を決めた。

損害賠償を睨んでの措置だと思われるが、

しかし稲以外の作物はOKとなったため、農家の悩みは深くなるばかりである。

 

20km圏内で有機農業を営んできた根本洸一さんは、

福島県の有機農業ネットワークの代表も務めた方。 

家の蔵から有機米50袋 (25俵=1,500㎏) を何とか持ち出したが、

大豆23袋を残してきたことが心残りである、と語る。

とにかく田畑を一刻も早くきれいにしたいと、あれこれ今から考えている。

 

地域のみんなが原発の安全神話を信じていた。

" 二重三重のセーフティネットが整っている "  と聞かされてきたんだけれど・・・

お二人の抑揚を控えた口調が、

かえってその悔しさや苦悩を感じさせるのだった。

(続く)

 



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