2011年6月10日
までいの力 -福島行脚レポート(補)
5月6日(金)、視察・交流団一行が福島から相馬~南相馬~と回っていた頃、
東京・八重洲にある福島県八重洲観光交流館では、
飯館村産の米で仕込んだ日本酒の販売会が催されていた。
飯舘村は、原発事故にも 「 負けねど!」
という意気込みを首都圏の人たちにアピールしようと企画されたものだが、
午前10時の開館と同時に長蛇の列ができて、
大変な売れ行きだったらしい。
報告してくれたのは、大和川酒造代表社員、佐藤弥右衛門さんである。
飯舘村酒販組合では、25年前より村内産の米で造られた酒 「おこし酒」 を
村内限定で販売してきた。
その醸造を委託されていたのが大和川酒造さんというワケで、
弥右衛門社長もこの日は勇んで応援に行ったようだ。
会場で振る舞われたのは、その 「おこし酒」 と大吟醸 「飯舘」 の2種類。
「飛ぶように売れた」 らしいが、
それはそれで 「極めて複雑な心境」 にもさせられたことと思う。
原発事故により全村避難となって、
飯舘村では今年の米の作付も制限されてしまった。
26年間続いた酒の製造が今年は途絶えることになる。
来年以降も酒を造れる保証はないが、
「味を舌に記憶してもらって、再び販売できた時に、また応援してもらえれば」
と飯舘村酒販組合の会長さんが希望を語っている。
翌日の帰り、二本松駅で買った 「福島民友」 に、そんなコメントが報じられていた。
記事を読みながら、振り返る。。
5月3日、山都に入る前に大和川酒造店に立ち寄り、
現地への差し入れ用の 「種蒔人」 を車に積み込んだ際、
弥右衛門社長から 「6日か7日、東京で会えないか」 と声をかけられたのだ。
飯舘村を応援したい、何か考えたいんだよ、と言われた。
「考えたい」 に 「だよ」 が付くときは危険信号である。
それはイコール 「一緒に行動しろ」 という意味であることを、
20年近いお付き合いの中で、僕は骨身に染みている。
今回ばかりは、さすがに手が回らない、というのが正直なところだった。
それでも社長の気持ちは、びんびんと伝わってきた。
彼は、飯舘村から任命された 「までい大使」 の一人なのだ。
『 までいの力 』 (SEEDS出版刊、2500円(税込))
「までい」 とは、東北地方の方言で、
" 手間ひま惜しまず、丁寧に心を込めて、つつましく " という意味らしい。
それは、「もったいない」 や 「思いやり・支え合い」 といった精神にも通じている。
飯館村は、各地で市町村の合併が相次ぐ時代にあって、
「自主自立の村づくり」 という、真逆の道を選択した。
しかしそれは、すべて自分たちの力で切り開かなければならない道でもあった。
菅野典雄村長は、村の振興計画を模索する中で
「スローライフ」 という言葉に出会う。
「それだ!」 とひらめいたものの、村民の反応は冷たかった。
その言葉は、村の人の心には響かなかったのだ。
村の精神を表現する言葉が見つからない。
そんなとき、 「それって 『までい』 ってごどじゃねーべか」
という一人の呟きによって、エンジンがかかった。
飯舘村の挑戦は、独創的というより、
現代社会を生きる者たちへの本質的な問いかけ、と言ったほうがふさわしい。
村長と村民たちの徹底的な対話から生まれた様々な取り組みがある。
嫁たちのヨーロッパ研修旅行 -「若妻の翼」。
それをきっかけに女性の起業家が生まれ、
男には育児休暇が義務づけられ (それは研修と位置づけられる)、
" 座り読みOK " の村営本屋さんが誕生し、全国から1万冊の絵本が届けられる。
村内産100%の学校給食への挑戦。
小学6年生を対象にした 「沖縄までいの旅」。
ラオスに学校をつくるプランを発案する子供たち。
自宅で家族と過ごしているような介護施設。
村人がもてなす " ど田舎体験 " ・・・・・などなどなどなど。
「自立する」 とは、とても厳しいことだが、かくも楽しいかと思わせる力がある。
みんな頭を柔らかくし、年寄りが生涯現役を誇る村。
資源は 「までい」 にあり、その気づきによって、
何もないと思っていた里山からも、資源は無尽蔵に生れ出てくる。
これこそまさに地元学のいう 「 ないものねだり から あるものさがし へ 」 である。
高橋日出夫さんが語った 「理想郷に向かっている村」 が、
たしかにあったのだ、2011年3月11日までは。
翻ってみるに、
福島第一原発のある双葉町は、全国トップクラスの債務超過の町に陥っている。
東電から落ちていた莫大なお金は、町や住民に何を与えたのだろうか。
いや、奪ったんだ、実は。
原発の論点は、安全性やエネルギー問題だけではない。
地域の自立や資源を奪いつくすものとして、いま目の前に現れている。
本当の豊かさとは-
使い古された言葉だけど、よくよく考えなければならないことだと思う。
震災後、飯館村へ、あるいは相馬へと、
大和川酒造店の方々は、一升瓶に水を詰めては届けて回った。
それでも、までい大使・佐藤弥右衛門は悩んでいる。
いただいたメールから-
応援し、支援するということは、物資を送ることだけではなく、
私たちの生活のなかに、その痛みを共有し受け入れていくことなのだと思う次第です。
いま、すべての人が試されている時とも感じています。
うさくじら様
「お金で買えないものに価値を〜」、その通りですね。本当に大切なものはどんな値段をつけられたって、売れないです、ホント。その価値は失ってから気づいても遅い。いま僕らはそのことをとことん考えなければならないと思います。
うさくじらさんのブログも拝見しました。美しい写真に旅ライフ、素晴らしいですね。僕もいつか、宿題を終えたら……というひと言をつけなければならないのが、なんか切ないですが。
こんにちは。
この間、御茶ノ水で鎌仲ひとみ監督の「ぶんぶん通信」とトークを聞いてきました。
監督への質疑応答の中で、「なぜ祝島の反対運動は、他の原発地域と違い、長続きしうまく機能してきたのだろうか?」という問いがでました。監督の答えは「祝島の人たちはお金で買えないものに価値をみいだしていたから」と答えていました。
飯館村の方々の取り組みは今回初めて知りましたが、すばらしいことですね。このエネルギーを見習わなくてはですね。
私たち大人は、つらい現実を直視して、逃げずあきらめない。まだまだやれる事はたくさんあるはずです。何に価値をみいだすか、今、大きな転換の時期ですね。