2013年8月アーカイブ

2013年8月28日

エコッツェリアから農水省へ

 

今日は午後から外出して、

丸の内から霞ヶ関へと流れた。

丸の内では新丸ビル10階にある 「エコッツェリア」 でインタビューを受ける。

ホームページで連載されている 「VOICE」 というコーナーでの取材。

エコッツェリアを訪れる人々へのスナップショット的ショートインタビュー。

ライトな企画なので、ついでの際で結構ですから、と言われて

本当に気軽に臨んだ。

 

15分程度で、と言われていたのだけれど、

軽いようで突っ込んだ質問もあり、結局1時間ほどお喋りしてしまった。

 

・エコッツェリアに来るようになったきっかけは?

・エコッツェリアで何してるの?

・大丸有(だいまるゆう。大手町・丸の内・有楽町エリアの総称)

 で実現したいことは?

・今の社会での 「食」 の問題とは何だとお考えですか?

・大丸有で好きな場所は?

・大丸有を一日好きにしていい、と言われたら何をしたい?

・おススメの本は?

・あなたが大切にしていることは?

 

質問に対して準備して臨んでいたなら、

おそらくかなり違った話をしただろうと思う。

自分でもけっこう意外な発見をしたのだった。

9月9日アップ予定、とのこと。

よろしかったら覗いてみてください。

 

その足で、霞ヶ関は農水省へ。

「第1回 日本食文化ナビの活用推進検討会」 に出席する。

 


これは昨年参画させていただいた

地域食文化活用マニュアル検討会」 の第2ラウンドになる。

" 地域の食文化を活かして地域を活性化する "  をテーマに議論し、

日本食文化ナビ』 という形で完成させたのだったが、

これが本当に地域で活用できるものになっているのかの検証が必要である。

さらに実用的で地域に貢献できるものにバージョンアップさせたい。

 

これは僕も気になっていたところである。

出ないワケにはいかない。

僕らが描く  " あるべき姿 "  と、いわゆる  " 地元の感覚 "  に

乖離があるなら、それは埋めなければならないだろう。

しかも座長は昨年に引き続き、京都造形芸術大学教授・竹村真一さん。

彼に 「今年も手伝ってくれ」 と言われれば、NOとは言えない。

委員には、日本総合研究所の研究員・藻谷浩介さんと、

「Luvtelli Tokyo & NewYork」 代表の細川モモさんも

昨年からの継続で一緒、というのも嬉しい。

 

しかし、会議はどうも面白いものではなかった。

昨年度の成果物 (『食文化ナビ』) を検証するにあたって、

実は事前に推薦地域を竹村座長に提出してあったのだが、

どうやらそれは事務局の意向ではなかったらしい。

農水省が今年から支援を始めた 「食のモデル地域育成事業」 で

選定された地域を対象に現地調査およびモニター調査を行いたい、

という趣旨が示されたのだ。

それはそれで分からなくはないが、

リストを見れば、" 地域の食文化 "  というより、

地域特産品を開発して産業振興したい、というようなものが多い。

補助事業をうまくつなげたいだけなら、僕の出る幕はない。

 

そもそも、地域特産品の開発だけなら、民の力でやり切るべきだ。

だからこそ、活力が生まれるんじゃないのか。

むしろ補助金をアテにしていない地域こそモデル事業である、

と僕は思うものである。

それでは霞ヶ関は必要ないみたいだけど、そんなことはない。

この先、スリムな行政を目指してもらうためにも、

先進地から学んだ役に立つテキストをつくることは

" 公 "  の任務のひとつではあろうと思うのである。

 

年度末まで、どこまでの仕事ができるのか分からない。

でも、せっかくの税金を使っての仕事である。

" ナビ "  を手にとった地方の若い自治体職員が、

やってみたい、と感じられるものを目指したい。

竹村真一の描くイメージを形にしてみたい、とは僕の野心でもある。

 



2013年8月25日

郷酒(さとざけ)、3年連続「金賞」受賞!

 

昨日は、夕方から飲んだ。

しかも  " とりあえずビール "  などない、

のっけから日本酒一本。

 

我らが銘酒 「種蒔人」 の蔵元、大和川酒造店(福島県喜多方市) の

『大吟醸 弥右衛門(やえもん)』 が、

全国新酒鑑評会で見事、金賞を受賞した。

しかも3年連続という快挙だ。

e13082508.JPG

 

したがって、祝う会も3年連続。

当然のごとく、" 日本酒でカンパイ!"  の夕べとなる。

 

毎度書いてきたことだが、大和川酒造のこだわりは、

その土地の米で酒を醸してこそ 「地酒」 であろう、という哲学である。

東北での栽培は無理と言われてきた酒造好適米 「山田錦」 を

自社田「大和川ファーム」 で育て、地の水、地の技で最高の地酒に仕上げる。

そして  " この酒で獲ってやる "  と決めた全国での金賞獲得。 

弥右衛門さんは、この意気地を込めた酒を 「郷酒(さとざけ)」 と表現し、

地酒に代わる言葉として世界に広めたいと企んでいる。

 

というワケで、

第3回 「郷酒を楽しむ会」、の開催。 

e13082501.JPG

会場は、有楽町にある日本外国特派員協会。

 

挨拶に立つ、九代目・佐藤弥右衛門さん。

「金賞を祝う会」 にすると来年できないかもしれないので・・・

と笑いを取って、

「金賞は、続けて取ってこそホンモノと言われる。

 郷酒は3年連続。 正真正銘の金賞酒として誇りたい」

と胸を張った。

あっぱれ、大和川酒造店!

e13082502.JPG

 

最初の来賓挨拶に指名されたのは、

環境エネルギー政策研究所所長・飯田哲也さん。

 


e13082504.JPG

「長州人の私が会津に足を運ぶようになったのは、弥右衛門さんのせいです。

 最初は殺されるかもしれないと恐怖も感じたけれど、

 会津でのエネルギー自立運動に少しでもお役に立てたなら、

 かつて会津を賊軍に落としこめたことへの、私なりの罪滅ぼしにもなるかと。

 東電から水系を取り戻すたたかい、やりましょう!」

 

そしてあろうことか、乾杯の発声に指名されてしまった。

開会5分前に、「エビちゃん、カンパイ、ヨロシク」 という無茶振り。 

もう、勘弁してよ。。。

e13082509.JPG

 

大和川さんとのお付き合いも、ついに20年になった。

忘れもしない、平成の大冷害と言われた1993年。

一枚でも多くの田んぼを残したいと、

稲田稲作研究会の伊藤俊彦氏(当時は農協職員) と一緒に乗り込んで、

「俺たちの酒を造ってほしい」 と頼み込んだ。

当時専務だった佐藤芳伸さん(現在の弥右衛門さん) は、

拍子抜けするくらいの一発回答で受けてくれて、

そうと決まったら、とラーメンを食いに出た。

 

あれから20年。

大和川酒造はどんどん人脈を広げ、

ニホンシュの命運を背負って世界にまで飛び出した。

 

2011年の春。

原発事故の影響が予測しきれないまま米づくりに突入したのだが、

万が一を心配して大和川ファームが原料米栽培を引き受けてくれて、

稲田(須賀川) で育ち始めた苗を会津まで運んだ。

大和川さんから無事田植え完了という知らせを受けたとき、

僕は今年の米で造られた 「種蒔人」 をゼッタイに忘れない、と肝に銘じた。

米づくりがリレーされたお酒って、前代未聞のことだろう。

 

奇しくも、3年連続金賞の快進撃は、この年から始まった。

さらに会津電力へと弥右衛門さんのたたかいは続く、郷酒とともに。

これは未来への希望をかけたたたかいである。

挑み続ける大和川酒造店に与えられた金賞の栄誉と、

郷酒に連なるすべての人たちのご健勝を祈念して、乾杯!

(・・・という感じで、何度も噛みながら。)

 

楽しむ会には、超ビッグなゲストが招かれていた。

能楽囃子大倉流大鼓(おおつづみ)奏者、重要無形文化財総合認定保持者、

能楽師の 大倉正之助 さん。 

e13082505.JPG

 

生で聴く大鼓の迫力に、会場は一瞬にして圧倒される。

ローマ法王に招聘されてクリスマスの日に宮殿で独演したという雲上の人の演奏が、

郷酒をいっそう奥深いものにしてくれる。

能楽なんてさっぱり分からないけど、

これは一度ちゃんと鑑賞する必要があるなあ・・・

なんて感じ入っていたら、大倉さんのほうから声をかけてくれた。

「大地を守る会の初代会長・藤本敏夫さん(故人)は、よく聴きに来てくれたんですよ」

だと!!!

感激の極みで、1枚お願いする。

我ながら、面の皮が厚い。

 

宴たけなわの中で、アナウンスがあって壇上を振り返れば、

これまたテレビや雑誌でしか見たことないお方の登場。

世界的ファッションデザイナー、コシノジュンコ女史ではないか。

 

e13082511.JPG

 

私と大和川さんの関係は・・・

写真を撮るのに焦って、どういうご関係なのか聞き取れなかった。

まったくどういう関係なんだよ。

人脈はどこまで広がっているのか、恐るべし、佐藤弥右衛門。

 

佐藤和典工場長(杜氏) はじめ、晴れの舞台に立つ蔵人たち。

米の種まきから始まり(厳密にはその前作業から)、

実際に造ったのは、俺たちだ! 

e13082507.JPG

一段と高まる拍手。 

一人一人、胴上げしてあげたいくらい。

 

楽しむ会のあとも場所を替え、

酒客たちは日本酒で何度もカンパイするのだった。

e13082510.JPG

 

郷酒とともに拓かれていく未来に、広がっていく希望に、

もう一回、乾杯!

終わんないね・・・

 

最後にお知らせ。

大地を守る会の専門委員会 「米プロジェクト21」 では、

大和川酒造での酒造り体験企画を準備中です。

袋絞りという伝統的手法で贅沢なお酒を一樽、一緒にやってみませんか。

もちろん部分的な体験でしかありませんが、

お米が並行複醗酵という複雑な工程を経て清酒に仕上がっていく世界を

体感し、最後はそれぞれにマイ・ラベルを貼って、

" オレの酒・私だけのお酒 "  を楽しみます。

贈り物にも使えます。

会報誌 『NEWS大地を守る』 12月号にて告知します。

乞うご期待。

 



2013年8月22日

有機農業の普及支援における " 販路 " とは-

 

今日は、茨城県つくば市にある農林水産省の研修所 「つくば館」

まで出向いた。

各県の農業改良普及センターで環境保全型農業や有機農業の普及に携わる

指導員を対象に、4日間のプログラムで開かれた 

「有機農業普及支援研修」 。

ここで、「有機農産物の販路拡大について」 というテーマでの講義を

依頼されたのだ。

タイトルは変化しつつ、今年で3年目になる。

 

農業指導員を相手に何を偉そうな、と思われるかもしれないが、

官製の農業指導には有機農業のプログラムはない、

いや正確には 「なかった」。

その基本思想や技術の概論から始まり、実践者から学ぶ。

教えるのは、現場で闘ってきた者以外にいないのである。

現場研修先に選ばれるのは、だいたい埼玉県小川町の霜里農場・金子美登さんだ。

そして3日目の最後のあたりに入れられるのが、

有機農産物の流通事情と課題。

技術を農家に伝えても、それはどこにどうやって売るのか、と問われる。

実はそれだけ、まだマイナーな世界だということだ。

しかもここ数年、有機JAS認証を取得した有機農産物は、

けっして順調に伸びているとは言えない。

 

したがって僕の話も、バラ色の世界は描けない。

むしろ、なぜ有機農業なのか、どういう農業経営でやるのか、

についてしっかり考えないと、

販路というターゲットは見えてこない、という話になる。

 

有機農産物が法律上 「有機JASマーク付き農産物」 に限定されたことで、

その内容はわりと明確になって、

まがい物を排除する役割は果たしたと言えるが、

一方で有機農業を語る表現力は貧弱になったような気がする。

JASマークに頼らず (ただし栽培内容を正しく説明できる体制は必要である)、

" 私の有機農業は- "  を語れる農業者を育ててほしい。

地元の子供たちが  " それって面白い、素晴らしい、私もやるなら有機農業 " 

と感じ取ってもらえるような農業を。

だって有機農業は、その地の環境を守り、資源やお金の地域循環を促し、

未来の地域社会を支えるもののはずだから。

大地を守る会やらでぃっしゅぼーやさんやオイシックスさんに営業に行く前に、

大事な地域は足元にあり、

食べてほしい人は目の前にいるんじゃないのか。

 

逃げを打ったわけでもなく、煙に巻いたわけでもなく、

有機農業に関わった30年余の経験から学んだ、僕なりの有機農業論を

語らせてもらった。

流通現場にだって哲学は存在するのだ。

キモのところだけでも受け止めてくれたなら、幸いである。

 



2013年8月21日

営まれてこそ続く未来への財産

 

斎藤さんの田んぼを後にして、

次に訪れたのは 「トキの森公園」。

 

ここでトキ保護から野生復帰までの歴史を辿ってみると-

大英博物館がトキに 「ニッポニア・ニッポン」 という学名を付したのが 1871年。

日本の特別天然記念物に指定されたのが 1952年。

国際保護鳥に選定されたのが 1960年。

佐渡・新穂村に 「トキ保護センター」 が開設されたのが 1967年。

1981年、佐渡に残っていた野生のトキ 5羽を捕獲し、センターで飼育を始める。

以降、中国から借りたりもしながらペアリングを試みるが成功せず。

1989年、中国で初めて人工ふ化に成功。

1994年、保護センターを含める形で 「トキの森公園」 がオープン。

 一般公開が始まる。

1999年、国内で初めて人工繁殖に成功。 「ユウユウ」 誕生。

2003年10月10日、日本最後の野生トキ 「キン」 死亡。 享年36歳。

2007年、11ペアから14羽のヒナが育つ (自然繁殖11羽)。

2008年9月25日、10羽のトキが野外に試験放鳥される。

 以降、今年の6月まで8回の放鳥が行われた。

2010年、放鳥トキの営巣確認。 産卵が確認されるもふ化せず。

2012年4~5月、自然界で36年ぶりのヒナ誕生が確認される。

 

これまでに放鳥された数、125羽。

うち 70羽が生存しているとされる。

野生化で誕生したトキの数、22羽。 うち12羽が生存中 (6羽死亡、4羽は収容)。

 - 以上、パンフレットおよびHPから -

 

自然に放たれるのを待つトキたち。

e13081913.JPG

 

トキはコウノトリ目だと理解していたが、

数年前にペリカン目に変更されたことを初めて知った。

この違いは何なんだ。 

今度、陶ハカセに会ったら聞いてみよう。

 (それくらい自分で調べろ、と言われそうだけど・・・)

 

e13081914.JPG

 

さて、ペリカン、じゃなかったトキのおさらいをしたところで、

ここなら運がよければ野生トキが見えるかもしれない、

というスポットに案内される。

「あくまでも、運がよかったら、ですからね」

渡辺課長に念を押される。

e13081916.JPG

 

なるほど。 水辺があり、営巣できる森がある。

しかも巣に戻ってくる夕方の時間帯。

さあて、本日の我々の運力やいかに。

 


あの林のあの木の上のほうに白いものがチラチラ、見えない?

いやあ見えないなあ、巣じゃないかなあ・・・

とか言い合いながら、10分ほど待っただろうか。

誰かが叫んだ。

「来た!」

e13081917.JPG 

 

オオー! と歓声が上がる。

コンパクトカメラのズームでは、ここまでが限界。

一羽発見で喜んでいるのも束の間、

続いて4羽の編隊が帰って来た。

e13082001.JPG

 

田んぼの上を悠々と舞うトキ。

驚きの声が、ゆっくりと感動のため息に変わる。

 

e13082002.JPG

 

この風景を取り戻すのに約半世紀。

時代に抵抗するかのように棚田を復元し、餌場を増やし、

トキと共存する環境を蘇らせてきた。

大の大人たちが、数羽の野鳥を見て感慨に浸っている。

失っていた大事なものを、少しは見つめ直すことができただろうか。。。

 

島に復活したニッポニア・ニッポンと、どう暮らしていくか。

米が高く売れるなら、といった算盤ではすまないよね。

このペリカン目の鳥を眺めては、島のありように思いを巡らせたりしながら、

島の人々は生きていくことになるんだろう。

何かが試されている、のかもしれない。

 

「皆さん、何か(運を) 持ってますねぇ」

とおだてられ、とてもイイ気分になって、

「また来るから。 元気でいてね」 と、トキに別れを告げる。

 

途中、斎藤さんが昨年からチャレンジしている

自然栽培の田んぼに立ち寄る。

e13081915.JPG

 

『奇跡のりんご』 で話題の木村秋則さんの指導を受けて、

2枚の田んぼで始めている。

木村さんについては、ここでコメントは控える。

話を聞いて、「試しにやってみるか」 という斎藤さんの探究心にこそ

真髄があるので。

来年、再来年、あるいはその先の結果が、

何かを教えてくれるだろう。 

 

夜は露天風呂のある温泉宿で楽しく懇親会をやって、

翌8月18日(日)。

千葉孝志さん、マゴメさんと別れて、我々「米プロ」 一行は、

斎藤さんの車で、棚田保全に取り組む NPO法人を訪ねた。

 

岩首(いわくび) という地区で、

廃校となった小学校を借りて運営されている

「NPO法人さど 岩首分室」。

e13082003.JPG

 

ここでガイドしてくれたのは、佐渡棚田協議会会長、

" 棚田おじさん "  の愛称で呼ばれている大石惣一郎さん。

 

e13082011.JPG

 

集落内の名所 「養老の滝」 を見て、 

e13082004.JPG

 

大石さん自慢の 「岩首棚田」 を登る。 

e13082005.JPG

 

眼下に碧い海を望む。

2011年、日本でいち早く 「世界農業遺産(GIAHS)」 に登録された、

佐渡を代表する棚田。

初めて来た土地なのに、懐かしさのような感情が涌いてくる。

この 「遺産」 は、博物館でも史跡でもない。

人の暮らしとともに息づいているからこそ、

愛おしくなるのではないか。

営まれているからこそ続く、未来への資産である。

 

e13082006.JPG

 

「美しい村など、はじめからあったわけではない。」

民俗学の泰斗、柳田國男の言葉だ。

 

e13082007.JPG

先人たちの汗の賜物、営々と受け継がれてきた宝物を、

この国は  " 生産効率 "  という近代経済のモノサシで捨て去ろうとしている。

大丈夫かニッポン・・・・・ 遠くを見つめるエビであった。

キマってない? 失礼しました。

 

では、棚田と日本海をバックに記念撮影。

気分を変えて、棚田ヤンキー参上! でいきましょうか。

e13082008.JPG

 

法(のり) には、ミソハギが咲いている。

e13082009.JPG

お盆の頃に咲くので盆花とも言われている。

あえてこの草は刈らずに残すんだそうだ。

あぜの花もまた、郷愁を誘う脇役である。

 

駆け足で佐渡金山にも立ち寄って、帰途に着く。

最初から最後まで、ずっと案内してくれた斎藤真一郎さんに深く感謝。

 

来年、佐渡ツアーを実現させることを約束して、

島を後にする。

e13082010.JPG

 



2013年8月19日

朱鷺の舞う島へ

 

・・・やってきた。 

e13081901.JPG

 

大地を守る会の専門委員会 「米プロジェクト21」 のメンバーたちと組んだ、

公式ツアー企画を検討するための予備調査も兼ねての訪問。

僕にとって佐渡は、11年ぶり である。

 

8月17日(土)、7時48分発Maxとき307号で新潟へ。

新潟港からジェットフォイルで65分、

昼過ぎに佐渡島の真ん中に位置する両津港に到着。

港で出迎えてくれたのは、

佐渡 「トキの田んぼを守る会」 代表の斎藤真一郎さんと

大井克己さん、土屋健一さん、そして

佐渡市農林水産課長の渡辺竜五さん。

渡辺さんが市のマイクロバスを用意してくれて、運転手まで買って出てくれた。

 

港では、お米の仕入・保管・精米等でお世話になっている (株)マゴメの

馬込和明社長も合流。

さらには、なんと宮城県大崎市から車を飛ばして、

「蕪栗(かぶくり) 米生産組合」 代表の千葉孝志・孝子夫妻まで

駆けつけてくれた。

千葉さんも実は、生産組合の視察企画を考えての佐渡入りである。

そしてバスに乗り込めば、

佐渡の平たねなし柿の生産者、矢田徹夫さんが

笑顔で待ちかまえていた。

「矢田さんじゃないスか! いやーご無沙汰です。 お元気そうでなにより!」

この面子がそろっただけで、充実の交流が約束されたようなものだ。

 

まずは腹ごしらえ。

佐渡のB級グルメとして売り出し中の、佐渡天然ブリカツ丼。 

e13081902.JPG

 

佐渡の海で獲れた天然ブリに、

米は 「朱鷺と暮らす郷づくり認定ほ場」 で栽培されたコシヒカリ。

衣はその米粉使用という " オール佐渡 "  のこだわり。

その土地の食を記憶させることは、旅の大事な要素である。

しかも、庶民も気軽に食べられるお値段であることがキモだ。

" B級 "  にもちゃんとしたコンセプトがある、ってことね。

ウマかったです。 ご馳走さまでした。

 

さて、豪華メンバーとなった我々一座は、

両津から加茂湖を右手になぞりながら島の南側・小佐渡山地へと

入っていく。

朱鷺湖と命名されたらしい小倉川ダム湖からさらに上流に登り、

到着したのは、小倉千枚田。

e13081903.JPG

 


1969年から始まった減反政策以降だんだんと耕作放棄されてゆき、

荒廃地になってきたところを、5年前に復活のための支援が呼びかけられ、

オーナー制度 「トキの島農園小倉千枚田」 がスタートした。 

 

e13081904.JPG

 

田んぼごとにオーナーの名札が立てられている。

オーナー1口(1区画) 3万円で、30㎏のお米が届けられる。

募集した65口のオーナーは、すぐに予約が埋まったほどの人気である。

おかげで田んぼは90枚近くにまで復活した。 

それにしてもこの傾斜、小さな機械しか入れられない。

草を刈り、畦を塗り直し、水路を補修して、、、

かなり厄介な作業だったろうと推測する。

 

棚田の解説をしてくれる渡辺課長。 

e13081905.JPG

 

渡辺さんの話によれば、佐渡の棚田は、

金山発見によるゴールドラッシュの賜物である。

採掘の労働者はじめ人口が増え、米の需要が高まるにつれて、

棚田が開かれていったのだという。

しかも佐渡には自作農が多かった。

だから守ってこれたのだとも。

 

中には、こんな奥にまで、とビックリするような場所にも

田んぼがあったりするらしい。

いわゆる  " 隠し田 "  というやつか。

金山が発見されたのは、関ヶ原の戦いの翌年(1601年)。

江戸幕府は佐渡を藩とせず、天領として直接統治した。

流人や無宿人も含め増える人口に対して、

秩序を保つためにも食糧は厳しく取り立てられたに違いない。

隠し田という言葉には、農民が刻んだ深い皺の、

その溝の奥に染み込ませた執念を思わせる響きがある。

 

よく見るとまだ荒地も残っていたりするけれど、

まあ見事に復田させたものではある。

e13081906.JPG

 

話を聞かされると、僕も一口、という気になるのだが、

その前に食べなきゃいけない、約束の米がたくさんあって。。。 

 

一角で、畦を野焼きしている作業が見られた。 

e13081907.JPG

 

野焼きは禁止された行為ではないか、と思われるかもしれないが、

農地や草地、林地の現場では、その必要性と効果は認められてきたものだ。

焼くことによって地表の植物が焼失し (地下部分は生きている)、

優先種による支配への遷移を防ぐ。

枯れ草もなくなり、裸地になって炭や灰が残る。

黒くなった地面に直接日光が当たると地温が上がり、

地中の微生物が活性化される。

それまで支配しつつあった優先種がいなくなったことで、

様々な埋土種子が発芽してきて、植物の種類が多くなる。

植物の種類が増えると昆虫の種類も増える。

窒素量が増加し、灰分とともに植物の栄養となって利用される。

その意味で、野焼きはただ草を刈るよりも生物多様性を高める。

適度にかく乱してやったほうが生物多様性が高まることを、

中規模攪乱説という。

 

また炭は長く土中に固定される。

CO2を吸収して育ち、炭となって土の浄化を助ける。

カーボン・オフセットという概念にも含まれる技術であって、

農林草地の野焼きは、CO2の増大を招くものではない。

ゴミを燃やしているワケでは決してないのだ。

 

山から下りて、斎藤さんの田んぼを見せていただく。

e13081908.JPG

 

e13081910.JPG

 

冬水たんぼに江(え) の設置など、生き物たちのために田んぼを活かす。

経済的な生産性追求でない、もっと大きな世界と共存するための手仕事を、

米価低迷の時代にあって実践する人たちがいる。

僕らはこの外部経済 (それがあることによって、その商品価値以外の価値が守られている)

の意味を、ちゃんと問い直さなければならない。

 

ただ冬水たんぼは、けっして良いことだけではないようである。

収量や食味の点から見ても、3年目から弊害が出てくる、と斉藤さんは語る。

草の出方にも傾向があるようで、この技術を活かしきるには

もっと実践者同士の技術交流が必要なようだ。

 

斉藤さんの説明に反応し、自らの経験からアドバイスを送る

宮城の千葉孝志(こうし)さん (写真中央)。

e13081909.JPG

 

田んぼの縁にもう一本の水路をつくり、

田んぼを干した時にも水生生物が生きられる場所を用意する。

この 「江(え)」、ビオトープは、仲間の共同作業でつくられたものだ。

 

e13081911.JPG

 

トキの野外復帰を進め共存する、と口で言うのは簡単だけど、

このフィールドは国立公園内の話ではない。

これは一次産業者たちの暮らしとともに実現させるプロジェクトなのである。

僕らのベスト・タイアップは、どんな形なのだろうか。。。

 

e13081912.JPG

 

思いを深めるには、現場をもっと知らなければならない。

いや感じ取る必要がある。

 

さあ、トキを見に行こうか。

 



2013年8月13日

戦車からトラクターへ

 

今日は旧暦(太陰太陽暦) 七月七日、本来の七夕の日。

七夕とは秋の季語でもあり、やはり七夕はこの日にしたいと、

月のカレンダーがそれとなく主張している。

 

今年はお盆休みも取れず、

仕事、会議、仕事、会議、合い間に出張・・・ みたいな日々。

強がって仕事中毒を自慢したりしながら。。。

 

8月13日。

今夜、郷里では、春に急死した高校の同級生を偲ぶ会が開かれた。

仲間内の電話・メールだけで25人集まったとの連絡。

3年前に開いた同窓会では幹事を務め、

二次会のカラオケで一緒に河島英五の 『時代おくれ』 を歌った。

元野球部で少々いじられキャラのイイ奴だった。

今朝は早くに、帰省途中の女子(いつまで経っても女子) から

「エビちゃんは出るんやろな」 のメールもあって、

ますます無念な気持ちが募る。

やっぱ、こういう義理は欠いてはいけないか。

 

関東から、一人でヤツに杯を捧げる。

こうやって人との別れを経験しながら、

僕らは生の意味をたしかめていくんだろうか。

僕のなかでは、ヤツは今も生きていて、楽しげにジョークを飛ばしている。

御霊を迎え、交信し、送るお盆の儀式が、どこにいても蘇る。 この時期になると。

お遍路の国で育った DNA なのかな。

N へ- ちゃんと帰れよ、またね。

 

さて、変わり種の新規就農者を一人見つけたので、

ご紹介しておきたい。

 

沢木勇一、43歳。

 

e13081301.JPG

 


 

元陸上自衛隊員。

PKO(国際連合平和維持活動) 支援で、

ゴラン高原(イスラエルとシリアの国境地帯) に派遣されたという男。

戦車に乗ってたという。

除隊して2年間、

千葉県 「さんぶ野菜ネットワーク」 の常勤理事・下山久信さんのもとで研修を重ね、

今年の春、農地を得て独立した。

 

就農への動機を聞けば、

子供が生れ、しっかりと大地に根づいた暮らしをしたいと思った、とのこと。

「今度、ゴラン高原の話を聞かせてください」 とお願いした。

 

e13081302.JPG

人参の播種前に水をくれている。

なかなか丁寧な作業をしていると思った。

教えられた手順を頭に入れる+状況に応じた対応能力

+手抜きをしない勤勉さ、が農家に好かれるコツだ。

簡単に言っているけど、これが実に一筋縄ではいかないのである。

 

農林水産省の新規就農総合支援事業の青年就農給付金に

何とか間に合ったと、

研修から農地斡旋まで世話を焼いた下山さんは安堵している。

就農時年齢で45歳までという条件で、

年間150万円(2年間限定) の助成が得られるのだ。

 

沢木さんは地主さんにも気に入られたようで、

あそこの畑も使ってくれと頼まれたりして、

いきなり2町歩(=ha) の農地を任された。

 

「 いや、やる気ある。 なんたって覚えが早いんだ。

 やっぱ戦車扱ってたからな、筋が違う・・ 」

と独自の理論を展開する下山さん(下の写真左)。

嬉しそうだ。

 

e13081303.JPG

 

新規就農者が、いきなり有機農業で2ヘクタール。

「時代は変わるよ、エビちゃん」

と下山久信は将来を見据える。

沢木さんの後ろの畑では、麦が植わっている。

有機農業は土づくりから。 教えを守っている。

 

借りたハウスでは、薬剤を使わない太陽熱での土壌殺菌。

e13081304.JPG

 

しかし、有機栽培の本当の苦労はこれからなんだよね。

 

途中、さんぶ野菜ネットワーク理事長の富谷亜喜博さんの畑に立ち寄れば、

炎天下の中、こちらも二人の研修生に指南の真っ最中。

 

e13081305.JPG

 

ロープワークひとつとっても、

サッとやって、こうやるのよ、と言われても、エッ?

という感じが伝わってくる。

でも若者たちも、数時間後には当たり前にこなすようになるのだ。

 

世の中に悲観ばかりしている場合ではない。

それぞれのフィールドで、みんな何かをつなげようとしている。

故郷のご先祖や同級生への不義理に対する弁解じゃないけど、

僕もここで頑張ってるから、とは言わせてくれ。

 



2013年8月12日

人体に影響ないなら・・・、自分にできることは・・・

 

『大地を守る会の放射能連続講座』 も、

昨年の6月からここまで、11人の講師を招いて続けてきたけれど、

坪倉さんの話を聞いて、改めて

" 原発とは、本当に罪作りなものだ "  と思わされた。

 

施設を強制退去させられ、悲しみうろたえながら、

死んでいったお年寄りたちがいた。

ふるさとから追われた仮設住宅で、病人が増えている。。。

これは、実にとんでもない報告である。

 

いったい何者の責任なのか。

ここでの退去は地震や津波のせいではない。

ヒバクシャとして病が進行したからでもない。

しかし、たしかにこれは、原発事故によってもたらされた不幸である。

やっぱ、ゲンパツという技術、それを推進する政策とは共存できないと、

つくづくと思ったのだった。

 

e13072708.JPG  

(笑顔で質問に答えてくれる坪倉正治さん。)

 

聞いていただいた方は、みんなそう感じてくれたに違いない。

 - と思っていたら、返ってきたアンケートに、こんな一枚があった。

 

  私は、原発は廃炉にすべきと思って、食事に気をつけたり、

  情報を集めたり、反原発の一票を投じたりしていますが、

  今日のお話を伺って、原発事故が起きても、

  そ~んなに大きく人体に影響がなさそうなら、

  反原発でいる方がずっとストレスがたまって、体に悪いのかな、

  と少し思いました。

  ・・・・・人間は日々の生活の方が重要だし、その内、私も放射能になれてしまって、

  反原発でいる事をやめてしまうのかな。

  この前の参議院選挙は、福島県ですら、自民党が圧勝だったし、

  福島県の為には、放射能は恐くない、とした方が良いのかもしれませんね。

  だったら、何の為の反原発なのか、考えてしまいます。

 

この感想には主催者として答える義務がある、と思った。

 


論理的に展開しようと意識すると、

とてもくどいものになりそうな気がするので、

今の思いを箇条書きのような形で列記してみたい。

 

1.原発事故が起きても人体に影響がない、と言った方はいません。

  あくまでも今回の事故による放射能の影響を冷静に見た場合に、

  当初恐れていたような事態にはなってない、ということ。

  したがって食品や産地に対する偏見は別な問題を起こしていないか考えたい、

  という視点が示されてきた、ということであります。

  ただし初期被ばくの影響は、これから数十年先まで見ないと分からない。

  また今後の影響は、まだ予断を許さない。

  だからほとんどの講師が、継続的調査を訴えておられました。

 

2.原発事故による影響は、放射能被ばくによる

  人体への短期間の影響だけではありません。

  その前に、人間関係が壊れたり、

  ふるさとから全員が避難しなければならないような過酷事故として、

  目の前に現われている、ということです。

  これによって人が傷つき、病人が増えていることを

  坪倉さんは語っている、と僕は理解しました。

  避難させられた人たちと私たちは関係ないことなのか、

  原子力エネルギーに頼るとはどういうことなのか。

  考える義務が今を生きている大人には、あるのではないでしょうか。

 

3.原発事故はもう起きない、という保証はありません。

  今日、あるいは明日、どこかで発生するかもしれないのです。

  これまで講座の司会をしていて何度か発言しましたが、

  世界には 400 を超える原発が、今なお稼動しています。

  僕自身は、

  日本こそ脱原発社会(地球) の実現に向けて牽引力を果たす責任がある、

  と思う立場です。

  しかも私たちは、世界のためにも、

  福島第一原発事故による教訓をしっかり残さないといけません。

  そう考えるなら、福島を切り捨てた解決策はあり得ない。

  お呼びした講師がおしなべて福島への支援を語るのは、

  未来への責任の取り方を模索しているのだ、と僕は受けとめています。

 

4.参議院選挙の福島選挙区での結果については、

  個人的な感想として率直に言うと、驚くものではありません。

  自民党と民主党を単純に比較すれば、

  自民党の福島県連のほうが脱原発の意思を示していたワケですから。

  それが党の政策に反映されるとも思えませんが、

  電力会社の労組の顔色をうかがっているような候補者が勝利しても・・・

  すみません、それ以上のコメントはここでは控えます。

  いずれにしても、

  「福島県の人にとっては、放射能は恐くない、とした方が良いのかも・・」

  などとは、誰も思ってはいないと思います。

  福島の人たちの思いはむしろ、

  「東京の人たちは、福島を切り捨てて、忘れようとしているのではないか」、

  あるいは汚染者のように見られることへの反発、 

  のような気がします。

  河田昌東さんの私たちへのメッセージは、「つながるためには、忘れないこと」。

  この意味を考えたいと思います。

 

5.何の為の反原発なのか-

  私が数年後にガンになる不確かな不安よりも、未来の子供たちのために、

  ではないでしょうか。

  健康への影響だけでなく、何も生み出さない廃棄物のために、

  管理を誤ると大変なことになる物質のために、

  何万年もお金を拠出され続けなければならない。

  そんなゲンパツ社会を、いま私たちは建設しているのです。

  幻想のようなエネルギー論に引き連られながら。

 

かたやこんな意見もあった。

 

  全部には参加できませんでしたが、

  各方面で放射能と向き合ってこられた方々の活動を伺うことによって、

  自分が何もできていないことを思わずにはいられません。

  多くの講師の方々が  " 忘れないこと "  と仰るが、

  むしろ、それを言い訳にしている自分がいます。

  日常できることは、できるだけ  " 福島を食べる "  と多少のカンパくらい・・・

  でよいのだろうか?

 

う~ん 。。。

" 食べる (=体に取り込む) "  とは命がけのことですから、

充分な連帯だと思うのではありますが、

そこでつながっているという信頼の輪を、確実なものにしたいですね。

語り合いましょう。

次回(8月31日) は福島の生産者の登場です。

ぜひお越しください。

 

講座終了後、

駆け寄ってきてくれた方から、こんな嬉しいお話も頂いた。

前回の高橋弘さんの講演を聴いて以来、

ファイトケミカルスープを続けてきたところ、

先日夫が足を骨折したのだけど、お医者さんもビックリするくらい回復が早くて、

これは野菜スープの力か、なんて話してるの。

ホントかどうか分からないけど・・・(笑)。

 

ホントかどうか分からないけど、

免疫力が強化されつつあることは、確かかもね。

野菜には力があります。

 

実は・・・僕も何度か試してるんだけど、

継続ができない。

e13081201.JPG

 

野菜のエキスだけではどうも味が薄くて、いや優しすぎて、

高橋先生に 「塩、入れちゃだめですか?」 なんて聞いてしまったのだけど、

呆れた顔をされ、続いて

懇々と塩分摂り過ぎの問題について説教されたのだった。

 

食でたたかえる。

しかし、だからといって問題の根源を見失ってはいけない。

食で鍛えながら、

自分のペースで種を播き続けるってことでしょうか。

バトンを握り締めて、歩き続けたい。

 



2013年8月10日

原発 23 kmでの医療支援から(Ⅲ)

 

坪倉正治医師の話-その3。

 

スーパーで産地を気にして買い物をしている人とそうでない人の間に、

内部被ばくの差はなかった。

これが坪倉さんがやったアンケート調査とHBC(ホールボディカウンター) 検査の

結果である。 

どっちの子供でも、HBCでは同じだった。

ただし検出限界値以下での違いまでは分からない。

ここが聞いているほうには微妙に悩ましいところではあるけれども、

まあ顕著な差はなかったということだ。

 

e13072705.JPG

 

現状においてハッキリ言えることは、

食品から均等に放射性物質を摂取しているワケではないこと。

どこどこ産という問題でもない。

むしろどういう類のものを食べたか、が問題である。

内部被ばく線量の高い人に特徴的なのは、

野生の獣肉(イノシシなど) や山菜を好んで食べた人。

内部被ばくは、毎日ちょっとずつ蓄積、というより、何かでポンと上がっている。

ポンと上がって、徐々に減り、ある時ポンと上がる、というような傾向。

 

チェルノブイリでは、トナカイと野生のキノコが大きな要因と言われている。

トナカイはコケを、イノシシはミミズを食べる。

 


坪倉さんの話を聞いていて、

イノシシなんてそう食べないよね、機会もないし、と思われたことだろう。

まったくその通りなんだけど、食べる人にとっては

" 殺めた以上、多少のリスクがあっても、食べる "  相手なのである。

今でも関東以北では調査用に捕獲されているが、

猟をする人の気持ちは、ただ検査するためだけに殺す手伝いはしたくない、

という感じらしい。

獲ったら食べる、美味しくいただく、が基本精神で、

3.11以降、狩猟をする人がめっきり減っている。

おかげで獣害も増えてきている。

原発事故は、いろんな悪循環を生み出しているということである。

しかも  " 食べる "  という生命の根源的営みから、喜びや楽しみや

生に対する敬虔の心根まで奪った。

それらはけっして賠償の対象にはならない。

 

坪倉さんの話に戻る。

内部被ばくは食べ物が主因だが、リスクが万遍なく分散しているワケではない。

特定のもの避ければ、大きく減らすことができる。

大事なのは産地ではなく、種類である。

出荷制限がかかっている食べ物を、しかも未検査のままで、

継続的に食べないこと。

逆に言えば、それくらい大胆に食べないと (線量は)上がらない、

というのが現状である。

もちろん、すべてが収束したわけではないし、

メカニズムがすべて明らかになったワケではない。

食品の検査はまだまだ継続してやっていく必要はある。

 

水も、限りなくゼロに近いけれども、ゼロではない。

しかし問題は水が運ぶ泥であって、水ではない。

ガラスバッジでの線量も明らかに下がってきている。

 

外部被ばくを避けるポイントは、ホットスポットを避けることより、

長時間生活する場所の線量を下げること (必要な場所の除染)。

皮肉な事例を挙げれば、

早期除染された学校の中にいたほうが、(除染していない) 家庭に留まっているより

子供の線量は下がる。

 

e13072706.JPG

 

医療の現場にいる者として、伝えておきたいことがある。

( 坪倉さんはむしろこっちを問題にしたいと思っているのではないか、

 と僕には感じられた。)

血圧、コレステロール、糖尿、肥満、それらのリスクが上がると、

心筋梗塞、脳梗塞の可能性が高まる。

心筋梗塞になると、3分の1は病院に辿りつけず亡くなる。

3分の1は病院から帰れなくなる。

残りの3分の1は、薬に頼って生きていかなければならなくなる。

 

仮設住宅で暮らす人の間で、

肥満が+10%、高血圧が+10%、糖尿病は2倍に増えている。

何が大事なのだろうか。

内部被ばく検査も食品検査も大事なことだけれども、

食生活のバランスを崩すことのほうが、よっぽど問題ではないか、と思う。

こういうことを言うと、「内部被ばくを隠すのか」 と言われちゃったりするんだけれど・・・

 

たとえば、ビタミンD という栄養素は骨を作るのに貢献している。

日本人はカルシウム摂取量が低いと言われるが、骨折率は低い。

貢献しているのはビタミンD であり、

その供給源はキノコと魚である。

内部被ばくと必要な栄養摂取のバランスをどう考えたらいいのか・・・

ひと言では言えない、と坪倉さんは口をつぐむ。。。

 

震災後、南相馬の老人ホームでは、

(一定期間内での) 亡くなる人の数が通常の6倍に増えた。

その方々には被ばくの症状はない。

家族の体調の変化は、家族でないと分からないことが多い。

それはとても重要な情報なのだけれども、

環境が変わったことで、キャッチできなくなる。

人間は環境変化にメチャクチャ弱い。。。

 

e13072707.JPG

 

今、HBC など検査への関心がとても薄れてきているのが心配だ。

あれだけ殺到してきていたのに、なんで来なくなったのか。

アンケートをとると、土日にやってくれないから、という声が多くあった。

でも、日曜日に開けても、来る人は増えなかった。

 

いかに現場の人たちに情報を伝え、継続的な検査の必要性を理解してもらえるか

が課題である。

そのためにも、と思って、坪倉さんは、

放射線の説明会や子供たち向けの授業を、こまめに積み重ねている。

子供を守ることは、検査の継続と、結果を正しく(冷静に) 解釈できる力を

子供たちに与えることだと考えている。

 

ま、そんなところで、少しでも何かお手伝いできれば、と思って、

ボチボチやってます。

今日は聞いていただいて有り難うございました。

 

・・・講演はピッタリ90分で終了。

すみません、本日はここまで。

 

あと一回、いくつか追記して、

坪倉講座レポートを終わりたい。

 



2013年8月 8日

原発 23 kmでの医療支援から(Ⅱ)

 

放射能連続講座Ⅱ-第5回、

坪倉正治さんの話を続ける。

 

放射線は、ゼロか1か、といった問題ではなく、あくまでも量の問題である、

と坪倉さんは力説する。

たしかに、ゼロということはあり得ない。

地球自体が大きな原子炉とも言えるし、宇宙からも飛んでくる。

60年代には大気圏核実験が頻繁に行なわれ、

世界中の人々が被ばくしている。

その影響はまだゼロにはなっていない。

今もフクイチからは汚染水が垂れ流されているし、

空中にも放出されているようである。

 

しかし、幸いなことに、

今のところ南相馬市内で空間線量が上がったり、

HBC(ホールボディカウンター) でヨウ素131 が新たに検出されるということは

起きていない。

つまり今のところ (あくまでも  " 今のところ " )

リスクが上がっているという状況ではない、ということは言えるだろう。

もちろん、モニタリングの強化と検査の継続が必要なことは

言うまでもないことである。

 

e13072709.JPG

 

内部被ばくも、その量や推移が問題になる。

そこで内部被ばく量を測るのに、一番手っ取り早いのが HBC である。

測定時間によって検出限界値が変わるのは他の測定器と同じ。

「ここまで測ることができますよ」 ということであって、

機械は完全無欠ではない。

ちなみに坪倉さんたちが行なっている検査は、

測定時間 2 分、検出限界値は 250Bq(ベクレル)/Body。

/Body(パー・ボディ) であることに注意してほしい。

数字を自分の体重で割って、/㎏ の数字になる。

仮に体重 60㎏ の人で 300Bq の数値が出たなら、

300 ÷ 60 = 5 Bq/㎏、ということになる。

 


2011年9月に、ようやく最新の機械が入った。

1台5千万円クラスのもの。

現在では福島県内に HBC が 40~50台配備されている。

今まで 30万人の検査が終わっている段階だが、

残念ながら、その結果が充分に伝わっているとは言えない。

 

検査をすれば、結果を伝えることになる。

当然、数字はゼロではないので、継続的な検査が必要だとか、

食べものに気をつけるように、といった話を家族にする。

一人(1家族) 20分くらい使っていただろうか。

しかし予約が殺到するようになって、翌年の3月まで埋まってパンクした。

話をする時間がなくなり、紙だけで伝える方法に変えたところ、

今度はクレームの嵐となった。

外来でつかみかかられたり、東京から送りこまれたエージェントだと罵られたり、

何のためにやっているのか分からなくなって、外来に出るのが嫌になった。

胃が痛くなって薬を飲んだり、顔面神経麻痺も経験した。

 

何とか1年で1万人の検査を終えた。

高性能の機械で測った大人8千人のデータでは、

5千人強が ND(検出限界値以下) という結果だった。

そこでチェルノブイリと比較したり、シーベルトに換算し直したりしながら、

リスクの程度を考えてみると、

例えば、大気中核実験が行なわれていた時代の日本人の

セシウム137の平均値が 10~15 Bq/㎏ である。

幸いなことに、南相馬で測定した 95% の人たちは、その数値を下回っていた。

例えば、年間1ミリシーベルトという基準値をベクレルに換算すると、

350~400Bq/㎏ になる。 それに比べればはるかに低い。

だから大丈夫、と言いたいのではない。

少なくとも、いきなり健康被害が起きるような事態ではない、

とは言えるのではないだろうか。

 

しかしデータを公表すればしたで、マスコミの餌食にされた。

「内部被ばくしている!」 と大々的に騒がれたのだ。

こういう事例を語る時の坪倉さんの話しぶりは、やや投げやりである。

「まあまあ、そんなこともあったというだけのことで・・・」

みたいな。

 

その後も検査を続けていくなかで、検出率はさらに下がっていく。

今では検出する大人が一部に残る、という程度である。

仮に、検出限界ギリギリの 249Bq/ボディ の人が

この数値のままで1年間過ごした場合の被ばく量は 0.01mSv/年、

程度となる。

リスクがゼロという意味ではない。

レントゲン写真1枚の 3分の1~4分の1 レベルのリスク、

と理解してほしい。

現在は、99.9%の子ども、96~97%の大人が、

そのリスク以下のレベルを維持している、ということである。

250Bq 以下の被ばくを見逃しているのではないか、と問われれば、

答えは YES と言うしかない。

 

放射性セシウムは体から排出される。

大人だと約4ヶ月で半分くらいになる (生物学的半減期)。

子どもの場合、6歳で1ヶ月、1歳だと10日で半分になる。

ということは、子どもを測って検出されたら、

それは新しい被ばく (今も受けている)、ということになる。

食べて、飲んで、吸って、おしっこで出して、を繰り返しながら、

測定した子どもの 99.9% は検出しない。 ということは、

この3ヶ月で以前より高く摂取している状況ではない。

 

逆に言えば、事故当時の被ばく量(その時の影響度)は、

今となっては調べられない、ということでもある。

家族全員を調べることの意味がここにある (大人から類推する)。

調べられない最たる物質がヨウ素131 である。

2011年7月には、消えていた。

ただ HBC で測定を開始した事故後4カ月時点での量から、

最大値を推測することは可能である。

そこから類推して、当時の人でも

ほぼ全員が 1mSv 以下だっただろうとは推測できる。

もちろん、この数値をどうリスク評価するかは別である。

少なくともデータが示していることは、

そのレベルのリスク未満にはおさまっている、ということである。

 

日常生活では、内部被ばくは少なくなっている。

しかし中に、下がらない人、時に上がる人、がパラパラと存在する。

この人たちは何を食べてきたのか。

それもほぼハッキリしてきている。

 

すみません。 今日はここまで。

 



2013年8月 7日

原発 23 kmでの医療支援から

 

暦では立秋となりましたが、

いやー、暑いっすね。

皆様、体調はいかがでしょうか。

 

夏は嫌いじゃない。 むしろ得意な方だけど、

フライパンに乗せられているような都会の夏は、やっぱキツイ。

日射しは強くても直球勝負のような爽快感があった太陽、

生命感でむせるような草いきれ、やかましく騒ぐクマゼミの山、

麦わら帽子にスケッチブック、時折吹いてくる涼しげな風、

タオル一枚持って毎日のように潜りに行った海、

あの頃の夏はもう返ってこない。。。

 

特販課長という新しい任務(放射能対策との兼務) に忙しなく追いかけられて、

まったくブログに到達しない日々が続いた。

要は  " あと一歩 "  の気持ちだけなんだけど、ビールが入るともう書けない。

体は睡眠を求めてくるし・・・

 

しかし、この間の諸々は省いても、これだけは自分に課した義務として

残しておかなければならない。

7月25日(木) 開催、

『大地を守る会の放射能連続講座Ⅱ-第5回。

 " 福島の今 "  から学ぶ ~原発23kmでの医療支援を通じて~』。

ゆるゆると進めますが、お許しください。

 

講師は東京大学医科学研究所研究員、血液内科医の坪倉正治さん。

福島第1原発に一番近い総合病院である南相馬市立総合病院の

非常勤医も務めている。

月~水は南相馬で外来。 木曜日に帰ってきて、金・土は東京の病院で外来。

この2年、そんな日が続いている。

 

e13072701.JPG

 

都立駒込病院の血液内科医として働いていた坪倉さんが、

医療支援として東京都から派遣されたのが 4月の頭だった。

南相馬で起こったことを振り返ってみる。

 

e13072702.JPG

 


2011年3月11日、東日本一帯に大震災が襲う。

地震に津波。

南相馬市立総合病院はただちにトリアージの体制に入る。 

トリアージとは、非常事態時で医療の優先度を決める識別救急体制のこと。

翌日には DMAT(ディーマット/災害派遣医療チーム) が到着する。

若い医者が全国から駆り出された。

そこに原発事故が発生する。

3月15日の朝、3号機の爆発をテレビで見て、全体集会が開かれる。

病院に残るか、避難するか、判断は個人の意思に任された。

270人いたスタッフのうち、80~90名が残った。

医者では、常勤医4名と支援に入った大学の若い医者たちが残留に手を上げた。

 

残った者で病院のシステムを維持した。

その時点では、インフラは機能していたのだが、

原発から 30 km 以内が 「緊急時避難準備区域」 に設定されたことで、

補給が断たれることになる。

 

e13072703.JPG

最初になくなったのが、酸素の備蓄。

DMAT も救急車も入ってこなくなった。

マスコミの取材依頼があって、ぜひ実情を見て伝えてほしいとお願いしたところ、

30km の外に出てきてほしいと言われ、絶句した。

30km 圏内の特別養護老人ホームの方々は全員避難したが、

その4分の1の方が 3ヶ月以内に亡くなった。

「原発事故で一人も死んでいない」 って、どうなんでしょう・・・

 

坪倉さんが支援に入って最初にやったことは、

避難準備区域になったことで入院できなくなった人を、

30km の外に野戦病院のようなものをつくってそこに集めるお手伝い。

次に薬の処方箋書き。

レントゲンのフィルムが感光(放射線を受けている) しているのが見つかり、

防護を強化し、導線を作り直した。

 

e13072704.JPG

 

その時点で病院にあった線量計は1個だけ。

坪倉さんはその線量計を持ってあちこち測り始める。

一番高かったのは空気清浄機の中のエアフィルターだった。

朝の外来のあと、1個の線量計を持って順番に学校に出向き、

測定しては図に落として、学校に渡した。

 

しかしそれだけでは、どの程度安全なのか危険なのかが判断できず、

内部被ばくを測らなければ・・・ ということになったのだが、

機械もなければ人もいない。

何を使って、誰が、どうやって測るのか。

5月に、副院長が宮城の女川原発まで行って

HBC(ホールボディカウンター) で測ってもらったところ、

数千Bq(ベクレル) という値が検出された。

 - 内部被ばくしている。 これは測らなければならない。

それから機械を求めて奔走する。

 

2011年7月、人形峠(岡山と鳥取の県境、ウラン鉱山があった峠) から

第1号機が到着する。

しかし、誰が、どうやって・・・・・皆で目を合わせた。

しょうがないので、翌日、自衛隊の中央病院まで出かけて検査の方法を習った。

そして HBC での検査を開始。

日本国内で市民を対象に検査をやった初めての病院が

南相馬市立総合病院ということになった。

 

以後1年間で、福島全体で 5~6 万件の検査が行なわれたが、

その3分の1は南相馬での測定データである。

ベラルーシとウクライナでは、事故後1年で13万件の検査が行われている。

27年前のロシアですら、この数字である。

いかに日本の体制がお粗末であったか。 しかしこれが現実だった。

 

2台目の HBC が届いたのが、8月。

それは福島第1原発のオフサイトセンターにあったもので、

破壊と汚染で修復するのに5ヶ月かかったということ。

今では新型の機械が稼働しているが、

逆に測定を求めて来る人はめっきり減ってしまった。

 

すみません。今日はここまで。

 



大地を守る会のホームページへ
とくたろうさんブログへ