2013年9月 2日

『語ろう! これからの農業』 -後継者会議から(続)

 

「第10回 全国農業後継者会議」 報告を続ける。

 

有機農業の本質的な価値を受け継ごうとする浅見彰宏さんの基調講演に続いて、

浅見さんも含めた3名の生産者によるパネルディスカッション。

後継者といっても、今回お願いしたパネラーは、

すでに地域の牽引者として活躍する脂の乗った40代である。

テーマは、『語ろう! これからの農業』。

僭越ながら、コーディネーターを務めさせていただく。 

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まずは浅見さん、基調講演で言い足りなかったことや

今の課題、同世代に伝えたいことがあれば、と水を向ける。

 

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山間地での有機農業の意義と役割をしっかりと整理したうえで、

浅見さんは 「責任のないものにも責任を持つ生き方」 をしたいと語る。 

260年続いてきた水路を守るために奮闘するのも、

自分の田んぼのためだけじゃない。

地域を守ることは、農の役割の重要な柱だと考える。

だから新規就農者を支援し、「会津耕人会たべらんしょ」 のメンバーも

増やしていきたい。

そのためには、少量多品目栽培をベースにしながらも、

安定した販路も確保する必要があり、

これまであまり考えることのなかった  " 基幹作物 "  という視点も

取り入れる時期に来ているか、と思い始めている。

彼がいま考えているのは、在来品種 「庄右衛門インゲン」 である。

たしかに柔らかくて美味しいインゲンだ。

しかも自分たちで種を保全できる。

(注・・・大地を守る会では、「とくたろうさん」 改め 「日本むかし野菜」 に登録すると、

 この時期に何度か届きます。)

小さな農家で生きていきながら、次の世代に希望を引き継ごうと思っている。

 

続いては、高知県佐川町の田村雄一さん。

ニラ栽培と酪農を主体としつつ、「SOEL」(ソエル) という

有機農業研修組織をつくって若手育成に努める46歳。

会津耕人会の野菜セットに続く形で、

研修生たちが育てた 「高生連の tururu 河鹿の里野菜セット」 を届けてくれる。

毎回のていねいな包装に、

三浦さん夫妻の指導の証しが感じ取れるセットだ。 

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田村さんは30歳で脱サラし、農業を継いだ。

有機農業に転進したのは、お父さんの病死がきっかけだという。

高知県は単位面積あたりの農薬使用量が日本一の県で、

当時佐川町に有機農業をやっている農家は一軒もなかった。

「有機でやる」 と言ったとき、

周囲の言葉は 「田村は潰れる」 だった。

以来、潰れるワケにはいかない、と覚悟を決めてやってきた。

 

研修組織を立ち上げたのは、就農して3年でやめるパターンを見たこと。

自分の持っている資源・設備・労力を活用して、若手の育成をしたいと考えた。

現在、SOEL(サカワ・オーガニック・エコロジー・ラボラトリィ) には、

4名の研修生がいて、うち3名は県外からである。

課題は、入手できる土地が条件不利地ばかりであること。

そして新規組に販路がないこと。

地域農業全体の衰退と、諸費用の高騰も不安である。

新規就農者へのメッセージとしては、

いきなり高品質や多収穫を目指さず、未利用資源を有効活用しながら、

「しぶとく、無難に、そこそこに」、

まずは有機で飯が食えるようになること。

 

田村さんには高校生の息子がいる。

小さな時から農作業で遊ばせて、何かできるたびに、とにかく褒めた。

今ではそこそこの仕事はできるようになっている、という。

素晴らしい。

潰れるどころか、誰が農の未来を支えようとしているのか、

と言いたいところだろう。

 

3番手は、島根県浜田市から

「いわみ地方有機野菜の会」 の三浦大輔さん、40歳。

浜田市といっても、5市町村が合併してからは

日本海から広島県境まで至る広域の市となった。

三浦さんが住むのは浜田市弥栄町、旧弥栄村といえば山間地である。

やっぱ旧市町村を示さないと地域が見えてこないよね。 

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三浦さんが森林組合の勤めを辞め、地元に帰って農業を始めたのが7年前。

コンビニも信号もない、働く場所もない村に帰る以上、

地元に恩返しがしたい、仕事を創り出したい、と思った。

幸い佐々木一郎さんという先人がいて、

「いわみ地方有機野菜の会」 という組織がつくられていた。

この出会いによって、三浦さんは最初から有機農業で始めるのだが、

もともと有機農業をやりたかったのではなく、

地元で農業でやっていけるようにするために選んだのが、有機農業だった。

サラリーマンと同等レベルの生活ができる、儲かる農業がしたかった、

と本音を隠さない。

山間部で日照時間が短く、街への距離が長いため輸送コストがかかる。

野菜の価値でたたかえる有機農業でいこう、と考えたのだ。

こういう経営感覚で有機に参入する人が現われることを、

良い悪いと峻別してはいけない。

これは有機に力がついてきた証左であって、 問題はその次である。

同じ山間地で生きることを決めた浅見さんと三浦さんが

何を語り合いどうつながるか、だろう。

ちなみに、浜田市弥栄町 (弥栄自治区) が昨年発行した

有機農業普及パンフレット の表紙には、こう謳われている。

「山村だからこそ、有機農業。」

山村に若者がやってくる、有機農業者が増える、子供が生まれる、

そうやって何かが変わっていく。

 

三浦さんはハウスを1棟建てるところから始め、

最初の年に11棟まで増やした。

市も支援してくれて、現在では66棟。

面積にして1.3ha という規模にまで達し、

葉物野菜中心での周年出荷体制を確立させている。

常雇用が2名、パート・アルバイトが15名。

この経営は楽ではないだろうと予測もするが、

立派な雇用創出である。

経営のコツは? と尋ねてみた。

明快な答えが返ってきた -「ビジョンを持つことです。」

 

5年前、いわみ地方有機野菜の会は、全会員の出資によって

販売会社 「(株)ぐり~んは~と」 を設立した。

これによって販売先が広がる中でも、作ることに集中できるようになった。

 

もちろん、課題や悩みもある。

病害虫対策、品質の向上、新規就農者のための販路の確保と経営安定支援。。。

最近は調理をしない、包丁もないという家庭が増えているのが心配だ。

生鮮物だけで売れなくなっている。

年間品目を増やして、いろんな生活スタイルやニーズに対応した

供給力をつけていきたい。

近年、夏が長くなってきている感じがしていて、

ハウスを回していく (栽培作物を変えながら年間出荷計画を立てる)

のに狂いが生じたりすることがある。

 

さて、会場とのやり取りでは、

販売会社立ち上げまでの経過や、山間地での水の確保の問題などが

話題に上がったが、一番集中したのは販路の問題だろか。

一般市場での有機農産物の販売は伸びてなく、

既存の団体や販売先はベテラン組が押えてしまっていて、参入できない。

また隙間を狙おうとすると旬を外すことにもなり、

結果的に生産コストが上がる。 何を作ればいいんだろう。

結局、新規就農者を育てても・・・という閉塞感や焦りがある。

このテーマについては、パネラーと言えども明快な答えがあるわけではないが、

いくつかのキーワードがメモられている。

増えてない、ということは減ってもいないわけで、充分に可能性はある。

まずは地域、地場に目を向ける、など。

 

議論をいま振り返って思うことは、

これはいつの時代にもついて回った悩みだった、ということだ。

時にブームのように伸びた時期もあったが、その次には必ず壁があった。

有機農業運動草創期の生産者の悩みに答えたのが

「大地を守る会の設立」(1975年) であったように、

ブームの兆しを捉えブレイクさせたのが 「らでぃっしゅぼ~やの設立」(1987年)

であったように、 

新たなムーブメントを起こすか、あるいは地域を掘り下げるか、

戦略は自らの生き方の延長線上に、あるはずだ。

有機農業推進法ができて、就農支援制度までつくられた時代にあって、

販路拡大の知恵まで先人に頼ってはいけないんじゃないか。

 

続く。

 



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