2013年10月 8日

街から山へ、山から街へ、風が吹いている

 

「 市に合併して、喜多方市熱塩加納町 となったけど、

 いつまでも美しい 「村」 であり続けたい」

 

" 小林芳正節(ぶし)、健在 "  をたしかめて、

我々 「地域の力フォーラム」 一行は市内に戻り、

様々な仕掛けを演出する 「NPO法人 まちづくり喜多方」 を訪ねる。

お話を伺ったのは代表理事の蛭川靖弘さん。

 

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10年前に人口5万人以下の町で初めて、

コミュニティ放送局 「喜多方シティFM 株式会社」 を設立し、

軌道に乗せた実績を持つ(現在は非常勤の取締役)。 

8年前に 「NPO法人まちづくり喜多方」 の設立に参画し、

3年前より代表理事に就任した。

理事には大和川酒造代表・佐藤弥右衛門氏も名を連ねる。

しかも蛭川さんは、弥右衛門さんたちが立ち上げた

「一般社団法人 会津自然エネルギー機構」 の社員でもある。

 


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現在その NPO で準備を進めているのが、太陽光発電の建設。

名前は 「うつくしま太陽光発電所」 という。

「積雪地における融雪システム付き太陽光発電事業の実証」

のためのモデル事業として福島県からも助成を受け、建設に入った。

積雪地域で普及が進まない住宅用のパネルに、

融雪システムを導入することで普及を加速させよう、という狙いである。

建設地は、以前にも紹介 したことのある雄国山麓。

破綻した国のパイロット事業の跡地に、

4年後までに 2 メガ級の発電量を達成する構想。

12月にはいよいよ売電を開始する。

しかも発電で得た収益で、森林も含めた除染事業を推進するのだという。

 

反原発を唱えるだけでなく、自らの手で

福島県を自然エネルギーの先進地に転換させる。

地域住民主導で、なおかつ自力財源による

「地域循環型除染システム」 も創り上げる。

構想は大きく、未来に広がっている。

 

蛭川さんの活動は多岐にわたる。

喜多方の町並み保存や蔵の活用、文化の発信などを託された

「喜多方まちづくりセンター」 の運営、

さらには漆職人の担い手を育てるための仕掛けまでやってる。

蛭川さんの周りには相当な数の人たちが動き、風を吹かせているようだ。

こういう街は面白い。

 

さて、市内から今度は西北に上る。

V 字を逆に書くような移動となって、飯豊山麓・山都町に入る。

今回聞き取らせていただくのは、浅見彰宏さんではなく、

浅見さんの先輩入植者、大友治さんだ。

「元木・早稲谷 堰と里山を守る会」 の事務局長である。

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大友さんがこの山間地・山都に移住したのは1995年。

全共闘世代で、御多分に洩れず学生運動にも参加し、

「左翼の仕事もやりました」 とサラっと言う (仕事の内容は不明)。

その後、半導体関係の仕事を得るが、

宮沢賢治が好きで、農業をやりたいという思いを捨てきれず、

写真と山が好きで、新潟の棚田地帯に憧れたりもして、

あちこちと移転先を求めて回ったが、独身者は相手にしてくれなかった。

あの頃はオウム事件なんかもあったし。。。

 

そんな悶々としていた時に、小川光さん(チャルジョウ農場) の名前を聞き

電話をしたところ、「熱意さえあればいいです」 と

いとも簡単に受け入れてくれた。

小川さんは村の空き家情報にも精通していて、移住はすぐに出来たのだが、

しかし畑は半年見つからなかった。

 

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ようやく区長の紹介で、荒れた畑を 1反(≒10a) 1万円で借りることができた。

でもその年に大水害が発生してダメになり、

翌年は雹(ヒョウ) が降って、きゅうりの出荷が始まった3日目で全滅した。

しかしそこでやめなかったことで、ようやく本気だと思ってくれた。

再び挑戦して、きゅうり作りを通して村の人との信頼関係を築けたと思う。

それからは田んぼも 「借りてくれ」 と言われるようになった。

現在耕作している面積は 3反 3畝(せ)。

他に 1反 6畝を他の人と共同でやっている。

 

獲れた初モノは、必ず集落の人に配って回りました。

回ることで会話も生まれます。

とにかく日常の行動が大事で、公民館活動も積極的に引き受けました。

さなぶり祭りの復活や、笹団子づくりをみんなでやったり。。。

家を回ってはお茶飲みながら昔の暮らしなどを聞いたりして、

各家庭にあった古い写真を600枚お借りして写真展を開いた時には、

村の人たちの忘れかけていた記憶が呼び戻されたみたいで、

たいそう喜ばれました。

 

年寄りの頭の中と手だけにしか残ってない文化がある。

お漬け物の味が一軒々々違うんです。

そこでコンテストもやりましたね。

みんな自分ちのを一番につけるんで、コンテストにはなりませんでしたが、ハハ。

 

堰管理の役員を頼まれた年に、浅見くんからボランティアの話が持ち上がって、

都会から人が来ることに対する抵抗感は強いものがあったけれど、

だんだんと信頼されるようになりましたね。

信頼されると、今度は何から何まで (役職が) 回ってくるんですよ。

今では総会の議長まで任されるようになって。

え~と、こんな話、ダラダラとしてよかったんでしたっけ・・・

 

新規就農心得のようなお話だったが、

これはこれでとても参考になる。 みんな聞き入っていた。

地域で受け継がれてきた文化の豊かさは、地元の人には分からなかったりする。

余所者の再発見によって気づきが生まれることがあるのだ。

大友さんや浅見さんやその後の就農者たち、そして先達の小川さん。

警戒され、怪しまれながら、やがて待たれる存在になって、

今や彼らはミツバチのような媒介者だ。

彼らが飛びまわることで、花が咲き、実が成り、命が継承される。

 

そんなワケで、大友さんの田んぼは、

不便な山の中にある。

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棚田を耕すことは、麓の暮らしを守ることにつながっている。

水が涵養され、大地が削られることなく維持され、糧(かて) が届けられる。

この景観が懐かしく人を安心させるのは、

たゆまぬ人の営みがあるからだ。

 

このお米を、僕らは高い・安いと議論する。

しかし、大友さんがここで汗を流すことで守られているものがあることは、

顧みられない。

値段に含まれていない外部経済の価値を、

僕らはもっと伝えなければならない。

大友さんは、エライ!

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田んぼをバックに記念撮影。

大友さん(前列右から二人目) は故郷の恩師みたいだ。

 

視察の最後に、浅見さんが堰を案内してくれる。

 

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お彼岸だというのに日本の街はひどく暑いままだけど、

ここにはさやかな風が吹いている。

新しい時代に向かって、地域パワーを蘇らせる若者たちが、

風に吹かれて一人また一人とやってくる。

 

浅見さんは本当に好きなんだと思う、此処が。 

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民俗学者・柳田國男の言葉が、また蘇る。

 - 美しい村などはじめからあったわけではない。

   美しく生きようとする村人がいて、村は美しくなったのである。 (『都市と農村』)

 



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