2013年12月28日

萩原進さん


前回日記の最後でも触れたけど、

今日、成田市の八冨斎場にて、

「三里塚産直の会」 代表・萩原進さんの告別式がしめやかに行なわれた。

会場に入りきれないほどの弔問客が訪れ、

進さんとの別れを惜しんだ。


亡くなられたのが21日の夜。

先週も電話で話したばっかりなのに・・・

と仕入担当の結城修も驚く突然の訃報だった。

仲間との楽しい忘年会の帰りに倒られたとのこと。

福島と沖縄と三里塚の連帯、を語っていたと言う。

心筋梗塞、享年 69歳。



我々にとっての萩原進さんは、生産グループ 「三里塚産直の会」 の代表。

言わば有機農業のリーダーの一人であるが、

社会的にはむしろ、成田空港建設反対運動 (三里塚闘争とも呼ばれる)

の闘士として、その名を轟かせている。

空港建設計画に対して、三里塚・芝山連合空港反対同盟が結成されたのが 1966年。

建設用地内に農地を持つ農家の息子として、

進さんは迷うことなく運動に身を投じた。 当時 22歳。

青年行動隊長を務めた時期もあり、文字通り体を張ってたたかい続けた。

彼にとってこの運動は、

国家の横暴に対して農民の生きる権利を示すたたかいだった。

空港が完成して同盟が分裂した後も、進さんは妥協を許さず、

一貫して農地を死守し続けてきた。

まさに三里塚闘争の歴史に筋を通した志士として、その人生を貫徹された。


世間ではこの反対運動を  " 過激派の運動 "  と理解している人が多いが、

その世間で言うところの過激派、いわゆる新左翼党派(セクト) は、

ここではあくまでも支援者の立場であった。

反対同盟の初代委員長は戸村一作さんというキリスト者で、

すべての支援を等しく受け入れたこともあって、

党派間での争い(いわゆる内ゲバ) も三里塚では慎むという時代が長くあったのだが、

やがて争いが持ち込まれ、同盟分裂後は、

市民レベルでの支援者も多くが離れていった。


僕が進さんとやり合ったのは、2011年の夏のことだった。

放射能汚染に不安を抱いて東北の野菜を拒否する消費者が相次ぐなかで、

西日本の生産者の野菜セットを組んだことがきっかけだった。

「福島や関東の農家をつぶす気か」

「応援を訴えるのが、君らの務めじゃないのか」

進さんは烈火のごとく怒り、

大地を守る会への野菜の出荷を引き上げる、と宣言してきた。

「両者をつなぐ立場として、消費者の強い要望に対しては応える必要がある」

「このままでは共倒れになりかねない」

「福島県産も関東産も、測定した上でちゃんと販売は続ける。 支援も続ける」

 - そう説明しても、受け入れてくれなかった。


出荷やめたら消費者とのつながりを拒否するってことになる。

それは本末転倒の方針だ。

僕はそう主張したが、進さんは断固として

「俺の野菜は福島にカンパする。 お前らには渡さない」 と言い放った。


「原理主義者め!」 とか吐き捨てながら、でも僕はこういう人は嫌いじゃない。

実は好きだ、と言ってもいい。

冷戦はしばらく続いて、時期を見て再開となるのだが、

この一件の決着は、まだついてない。

そろそろ一升瓶持って顔を見せようかな・・・

と思いながら、後回しにしてしまった。

もう相手にしてもらえないなんて、

肩すかしを食らったような、ぽっかりと空洞ができたような、

後悔先に立たず。。。


娘婿の富雄さんによれば、

孫の成長を誰よりも喜び、相当な好々爺だったようだ。

優しく、繊細で、しかし鉄の意志をもった昭和の烈士。

ご冥福を祈るしかない。


法要が終わり、「反対同盟の歌」 の大合唱に送られて、

進さんは出棺された。 

   大地を打てば地底より  原初の響き鳴りわたる

   土に生まれ土に活き  骨を埋めるその土の

   誇りも高き農地死守  われらが業に栄えあれ!


その詩の通りに生きた人だった。

合掌




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