2014年3月 3日
農を変えたい!東北集会 in ふくしま
土日のイベントや出張が続く。 これで 6週目。
3月1日(土)~2日(日)は、
「農を変えたい!東北集会 in ふくしま」 に参加した。
「農を変えたい」 東北シリーズも各県持ち回りで 9 回目を数え、
今年は福島県相馬市での開催の運びとなった。
浜通りの現状を見てほしいという思いを込めて、
あえてこの場所にした、と主催者から聞かされた。
3月1日午前10時半、仙台駅から貸切バスにて出発、
仙台東部道路を南下する。
名取川に差し掛かった瞬間、あの日の津波の映像が蘇る。
名取市から亘理(わたり) 町にかけて、
整地された地面の上にハウスの団地が立ち並ぶ光景を目にする。
かすかに映る中の影は、イチゴの水耕か高設栽培に見えた。
農が土から離れていく・・・・
福島県新地町に入ると、
地元のおじちゃんやおばちゃんが 5人ほど乗り込んでくれた。
当時の様子や復興の現況を聞かせてもらいながら、
被災現場を見る。
人の気配なく、地盤だけが暮らしの形跡を留める。
こんな場所がいたるところに、まだ残っている。
破壊されたままの防波堤。
内側も海水に浸かっている、というか
海の中に捨てられた瓦礫のようだ。
東北学を提唱する民俗学者、赤坂憲雄さんの言葉を思い出す。
昔は潟として存在していた海縁の場所が、
人口増加とともに埋め立てられて、
人々は海へ海へと生活域を広げていったのだが、
津波はそのような場所をことごとく飲み込んで、
3 年経った今でも湿地状態のまま、というところが多いらしい。
「潟に返してやればいいんじゃないか」
と赤坂さんは語っていた。
(『3.11から考える 「この国のかたち」』 新潮選書、および
『被災地から問う この国のかたち』 イースト新書/玄侑宗久さん・和合亮一さんとの共著)
3 年前の3月にあった境界は、その時点のものでしかない。
それを太古から決められた境界であるかのような前提に立って、
その線引きでどデカい防潮堤を築くことへの違和感が、
どの程度の割合かは分からないけれど、
被災地の人々の心にくすぶり続けていることを、
赤坂さんのひと言が物語っている。
荒涼とした風景に、参加者の会話も続かない。
ため息ばかりが伝わってくる。
電車が走ることもなくなった常磐線の線路。
「今でも一時停止してしまうんですよね。」
笑えない・・・
しばらく瓦礫の海と化していた農地も、
遠くは横浜や北海道あたりから土が運ばれ、
だんだんと修復されてきている。
しかしその土も、黄色かったり強酸性だったり、
農地に適さない土が入れられたという。
これはただの土木仕事であって、農業土木の技術ではないと。
・・・なんでこうなるんだろうね。
一見きれいに整地された田んぼだが、
これから先、はたして作る人がどれだけ残っていくか、
という声も聞かれる。
かたち的には修復されつつあるのだが、
3.11 前の風景とは違うものに変質していってるような、焦燥を感じる。
南相馬市に入り、
大田村地区での試験水田を視察。
農地除染をやれてない水田で、
新潟大学の野中昌法教授らの支援のもと、
コメづくりの試験栽培が行なわれたのだが、
なかなか思うような結果に到達していない。
試験を続ける必要がある。 しかし農家の体力が・・・・
除染を兼ねて油脂作物(ヒマワリやナタネ) の栽培を続ける
杉内清繁さん。
賠償金の対象からはずされても、農地回復に挑み続けている。
未来のために。
あてのない避難ほど辛いものはない。
年寄りは帰ってきたが、若者たちは帰ってこない。
4年続けて作付できないとなると、、、
もう取り戻せないかもしれない。 そんな言葉が重く響いてくる。
福島の復興なくして、日本の復興はない。
多くの人が言い続けてきた言葉である。
しかし風景は、厳しいままだ。
希望は人の心からしか生まれないのだが、
思いと現実の乖離が埋まらないまま、
時間というやつが無情にその芽を摘んでいってるようだ。
それでも信じている人たちがいる以上、
僕らは歩みを止めるわけにはいかない。
視察後は、東北各地から集まってきた参加者とともに、
相馬市松川浦で操業再開にこぎつけた 「なぎさの奏 ホテル夕鶴」 に参集。
二日間にわたるセッションに入る。
テーマは
『人とふるさとが輝く東北へ -食と農の再生をふくしまから-』。
続く。