産地情報: 2008年3月アーカイブ

2008年3月12日

「合鴨水稲同時作」 -田んぼのもうひとつの生産物

 

これは、熊本は阿蘇のお米の生産者、大和秀輔さんが田んぼで育てたアイガモのお肉。

アイガモをヒナのうちから田んぼに放して、雑草や虫を食べてもらいながら、

米とアイガモを一緒に育てる。 当然、農薬は使わない。

これを 「合鴨水稲同時作 (あいがもすいとうどうじさく) 」 という。

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無農薬米も、アイガモも、最後には食べる。 これで完結する。

手を合わせ、「いただきます」 。 


肉の塊も、その背景や育った環境まで想像できてしまうと、

接する気持ちも多少違ってきたりする。

「食」 とは、いのちをいただくこと。 この当たり前のことが、しみじみと切なくなったりする。

でも 「食べることによって、いのちがつながる」 のだ。

大和さんが育てたお米とアイガモのいのちを、私の体で受け止めることとする。

 

まずは、焼き鳥。 ねぎまにして、焼いてみる。

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煙が部屋中に広がって、ヤバイ状態になるも、気分は盛り上がる。

しかもここまでくると、不思議なことに、もはやただの食いしん坊である。 

 

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連れは、庄内協同ファーム・斉藤健一さんの米で作った 「雪の大地」 とする。

スッキリ系のきれいな酒で いってみたい。

 

で、ねぎまにかぶりつく。

美味い! きっちりした歯ごたえ、適度の脂身、甘みもある。

何より、臭みがまったくない。

私の記憶がたしかならば・・・田んぼで育てたアイガモ肉は、野生の味が残ったりしたのだが・・・。

大和さん、上手に仕上げたねぇ。 感動もんだ。

 

1990年を思い出す。

前年から福島・稲田稲作研究会の生産者、岩崎隆さんが合鴨水稲同時作に挑んでいた。

これによって、これまで除草剤1回使用だったコシヒカリを無農薬にする。

そのチャレンジに応えたいと、僕は専門委員会 「大地のおコメ会議] (現在の「米プロジェクト21)」) で、

「合鴨オーナー制度」 というのを呼びかけた。

合鴨水稲同時作の一番困難な壁は、最後の合鴨の処理と販売だったのだ。

無農薬の米生産を支援するために、合鴨肉を引き受けるオーナーを事前に募集する。

一羽、なんと5千円。

最後の飼育手間と処理費、冷凍保管、発送費などを単純計算したら、こうなったのだ。

 

それでも集まった。 遊び心も心意気である。

生産者もやる気になってくれて、無農薬米の水田が広がった。

 

しかし、現実はそう甘くはなかった。

田んぼから上げた合鴨を処理して、肉にして、オーナーに送り届けたところ、

喜んでくれた人もいたが、苦情も多かった。

  「こんなに小さいのに5千円なのか!」

  「ケモノくさくて食べられない」 ・・・・・・・・・・

肉にムラがありすぎたのだ。

 

こんなやりとりもあった。

  「田んぼで働いてくれた合鴨を最後は食べるなんて、残酷だ!」

  「でも、あなただって、毎日いのちを食べてるんですよ。 牛なら許されるんですか 」

 

圧巻だったのは-

  「主旨には賛同する。 オーナーにはなるけど、肉は勘弁して」 という申し出である。

生産者に伝えたら、電話口から聞こえてきた言葉は-

  「エビちゃん、俺たちゃ乞食じゃないよ!」 

さすがにそのまま伝えることはできず、 " お気持ちだけで結構です。 どうぞご無理なさらないでください " 。

 

合鴨オーナー制度はその後も3年くらい続けたが、

事前予約でお金をもらうだけに、生産者も飼育に真剣になって、

 

ハウスの中でカモを飼っている米農家と、まるで畜産農家だね、と笑いあったことがあった。

結局、続かなかった。

 

その後、合鴨水稲同時作の生産技術は年々進化していって、

肉もかなり上質に仕上げられるようになってきた。

今になって、僕らの取り組みは早すぎたようにも言われるが、そんなことはない。

あの草創期にやったからこそ楽しく、意義もあったのだ。

当時、熊本で開催された 「合鴨サミット」 で、

大地は、生産者と消費者と事務局が一緒に壇上に上がって報告した唯一の団体だった。

あれから、似たような取り組みがあちこちに増えていったことを、僕は知っている。

それこそ喜びである。

 

最初にアイガモ肉を食べてから18年。

僕は、今でもこの栽培方法が気になっている。

いくつかのマイナス点もあり、安易に絶賛はできない。 しかし思想と技術は深まっている。

 

何といっても、THAT'S国産の畜産物が、田んぼで育つのである。

 

次は、玉ねぎと煮る。

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しっかりした肉だ。 問題ないどころか、充分使える。

お米の値段が下がるなかで、再度、何とかできないか・・・・・

と思案するうちに、「雪の大地」 が空いてしまった。

 



2008年3月 5日

波村さんのポンカンと酸性雨

 

昨日に続いて波村郁夫さんの話を。

 

実は、東京集会 (だいちのわ2008) での 「身近な環境セミナー」 で、

マエキタミヤコさんのお話の終了後、LESSON 2へのスタンバイをしているときに、

波村さんがポンカンを手に持ってみんなの前に出た。

そのポンカンは、セミナー参加者へのお土産用にと送ってくれたものだったが、

そのワケを波村さんが伝えてくれたのだ。 ちょっとショッキングな内容だった。

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このポンカンは何と、酸性雨にやられたものだという。

ポンカンは長く木に実をつけたまま持たせるもので、当然その間に雨にも当たるが、

あるときの雨のあと、近隣の園地も含めて、水滴がついていたあたりから

赤茶色のサビのような斑点ができて、腐っていったらしい。

周囲では、全滅してボタボタと落ちていった木がたくさん見られたとのこと。

 

公的機関は酸性雨の被害だとは認めてくれないが、その雨のあとに被害が発生したのは、

酸性雨としか考えられない、と波村さんは考えている。

 

「売り物にならないので、自分も放っておこうかと考えたが、ちょうど東京集会があったので、

 皆さんで食べてもらって、少しでも環境のことなども考えてもらえたらと思って、

 比較的きれいに残ったものを摘んで、送らせてもらいました。 どうぞ食べてください。」

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今回の被害の原因が本当に酸性雨のせいなのかどうかは、私には分からない。

しかし、波村さんがそう確信するのにも、それなりの理由はある。

 

この時期になると南からの風に乗って黄砂がやってくるが、

中国では今、化学肥料の大量投入や地下水の富栄養化などで農業環境の汚染が進んでいる。

その影響で、土壌の劣化や塩類集積、そして生産力の低下を招き、

結果的に、放棄された土壌は黄砂の発生源になる。

さらには黄砂に含まれる酸化硫黄は、雨の酸性化をも招いているだろう。

もちろん人間の健康への影響も懸念される。

 

環境の悪化は、誰にとってもいいことはない。

その影響はだいたいが上流 (風上) から下流 (川下) へと進む。

そういう意味で、安全性 (土壌や環境の健全性) に気を配ってくれる生産者は、

我々消費者にとっては、大切なアンテナの役割も果たしてくれている。

彼のミカン経営が長く続くよう、たくさんの人に支えていただけると嬉しい。

 

・・・・・なんて言いながら、少し恥ずかしい思い出が蘇る。

僕が初めて波村さんとじっくり話をしたのは、16,7年位前の東京集会の夜だった。

ウマが合ってたはずの農業談義が、気がつけば、口論に発展していた。

その年、集会で講演をしてもらったのが作家の井上ひさしさんで、

畑も耕しとらん小説家に何が分かるか、という彼の感想に、

農民の狭い了見だ、とかなんとか、肥後もっこすの火に油を注いでしまったのだ。

そのうち、なんでか......

「あんたに農業が分かると? 分からんもんに何も言われたかなかよ。」

「ああ分かった。 あんたのミカンなんか、売りたくない!」

「ああ、よか! あんたなんかに売ってもらいとうない!」

 ・・・・・あ~あ、アホだね、ほんと。 (前にも似たような話を書いたような...)

 

今はなき市川塩浜のセンターで、飲んだなぁ、とことん。

最後は一緒に寝たんだっけか。

あれから毎年、会うたびに、僕らはまず照れたようなはにかみを交わしてから握手をする。

飲めば、「俺たちは同志だから」 と周囲に自慢する。

やっぱりアホは変わってない。

 



2008年3月 4日

波村さんのかんきつ思い

 

東京集会が終わって、その余韻を引きずりながらレポートを書いていた先週、

少し疲れた心身 をさりげなく癒してくれたものがあった。

私の部署の窓際の一角、テーブル一台分の共有スペースに、何げに並べられていた柑橘類。

見ればアンケート用紙がついている。

『波村さんの 「とくたろう」 候補のかんきつ類です。 率直なご意見をお願いします。』

波村さんとは、大地にみかんを出荷してくれている波村郁夫さん (熊本県三角町/現宇城市) のこと。

 

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6種類の柑橘が並べられている。

「九年母(くねんぼ)」(写真手前の右)、「三宝柑(さんぽうかん)」、「絹皮(きぬかわ)」

「金柑子(きんこうじ)」、「蓬莱柑(ほうらいかん)」、

そして 「黄金柑(おうごんかん)」(手前の左の小さいやつ)。

 

「黄金柑」 は近年の交配種なので、在来種にこだわる 「とくたろう」 のコンセプトとしては別物となるが、

その他の5種は、波村さんが九州の山々を歩いて見つけては育ててきた、古い品種たちらしい。

話には聞いていたけど、こんなに探したのか、と感心する。

今の種々のかんきつ類のどこかに、彼らのDNAがつながっているかもしれない。

もちろん元はすべて南方から伝来されたものではあるが、

そこで住み着いて定着してくれた先祖たちということで、 「とくたろう」 候補なのだ。

波村さんがあちこち歩きながら見つけては残してきた、というのがなんか響いてくるものがある。

 

「九年母」 ・・・インドシナ原産。 室町時代に伝来し、紀州みかんや柚子と並び、江戸時代までの

 日本の主流品種で、宮廷の貴族や公家などが食し、江戸の将軍家にも献上されたという話がある。

 温州みかんの先祖とも推定されている。 ジューシーで酸味強く、独特の香りがある。 

 これが温州の原種かと思うと、この香りもトロピカルな・・・・という言葉が浮かんでくる。 

「金柑子」 ・・・江戸時代からあったとか。 さっぱりした甘夏って感じ。 酸味に多少の苦味が残る。

 あちこちに色んな呼び名で残っているらしい。

「絹皮」 ・・・・・これも江戸時代から記録がある。 文字通り剥きやすく、食べやすい、さっぱりした味。

「三宝柑」 ・・・柚子の遠縁らしい。 デコポンに似た果実。 三宝 (三方のこと) に載せられて

 献上されたことから名づけられたと解説にある。 果肉は上品で爽やかな甘みがある。

 皮が厚いので、今でも中をくり抜いて料理に使われている。

「蓬莱柑」 ・・・三宝柑とほぼ同じ系統のようだ。 剥きやすくジューシー。 味はこちらも淡白。

 袋ごと食べると独特の渋みがかった苦味が残った。

 

「黄金柑」 は、今や "ゴールデンオレンジ" の異名もある、知る人ぞ知る柑橘。

小さな果実だが、甘み酸味ともに強く、爽やかな芳香がある。

これは別ものとして、

古来からの5種は、ともに全般的に淡白な味わいである。 でも、食べてみて思う。

今の甘い品種に慣れた者には味気なくも感じられるだろうが、これが原種の味であり力なのだ。

昔の人は、他の果実にない香りと酸味と甘みに異国情緒や季節感を感じて楽しんだのだろう。

種の多さから見ても、強い生命力を感じさせる。

農薬・肥料なしでもしっかりと生きてきたんだよね。

こういった忘れられた品種を探しては自園に残してきた波村郁夫は、

本当にかんきつ思いの柑橘農家なんだと思う。

 

もしかして、いつか波村農園から、まったく新しいミカンが生まれるかもしれない。

どっかのお店で独占契約して、 " 波村さんの未来みかんコーナー " というのはいかがか。

 



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