産地情報: 2011年5月アーカイブ

2011年5月13日

千葉幸教さんの家族旅行計画

 

福島レポートの途中ですが、書かずにいられない話を。

 

とある旅行代理店から、一本の電話がかかってきた。

エリンギの生産者だった宮城県南三陸町の故 千葉幸教さん のご遺族と

連絡を取りたいのだという。

 

聞けば、千葉さんは家族旅行を計画していたらしい。

中国から来られた奥様と、中学生と小学生の二人のお子様を連れて、春休みに。

行き先は、ディズニーランド。

 

予約金をお返ししたいのだが、連絡先が分からず、

ネットで検索したらこのブログを発見した、とのこと。

 

千葉さんの担当だった須佐武美が対応して、

奥様の連絡先をお知らせした。

 

たったそれだけのことだけど、

子供たちの春休みに、家族でディズニーランド計画・・・

楽しみにしていたんだろうな、千葉さん。

 

このブログも多少は役に立つこともあるのね、とか思う前に、

今になって知らされると、改めて切なさが込み上げてきて、

こんな話が被災者の数だけあるのかと思うと、胸が裂けそうになる。

 

須佐君、さあ。

落ち着いたら、ご招待するってのはどうかな。

みんなでカンパしてさ。

千葉さんのささやかな計画を、どうかな。

 



2011年5月11日

脱原発に向かうしかないです -福島行脚その④

 

今日の朝日新聞朝刊トップの見出し。

「夏の電力 全国で切迫 -原発54基、42基停止も-」

 

震災で止まった青森の東通から茨城・東海までの原発に加え、

これから浜岡原発が止まり、

さらに定期検査を終了しても運転再開を見合わしている原発と

夏までに検査に入る原発が、地元住民との合意が得られずに再開できない場合、

国内の商用原子炉54基のうち42基が止まる事態となる。

国内全電源の2割に相当するらしい。

この夏の電力不足は必至、ということのようだ。

 

電力不足をこれ見よがしに主張して、あるいは計画停電も実施して、

  " だからやっぱり原子力を "  と世論を誘導するねらいだと分析する人もいる。

真偽のほどは知らないが、ならば、こう言うしかない。

 

この夏を、健全に突破しようではないか。

 

楽しく省エネ(節電)、そして再生可能エネルギーに大胆にシフトさせよう。

(大地を守る会では、節電アイデアを募集中 です。)

 

自然エネルギーへの完全シフト -それは充分可能である。

いや可能どころか、今世紀の中頃 (我が子の時代、目の前の話である) には

石油もウランも枯渇すると予測されるなかで、

21世紀のイノベーション(技術革命) は太陽エネルギーの効率的捕捉による

" 低炭素化社会 "  づくりにかかっているといっても過言ではない。

この分野でリーダーシップを発揮することこそ、平和を愛する技術立国の使命である。

 

80年代からの畏友である同時代人の旗手、

竹村真一さん(京都造形芸術大教授) の言葉を借りれば、

「 太陽が提供してくれているエネルギーの、100万分の1でも捕獲して

 利用していくことができれば、この星にはエネルギー問題など存在しなくなる」

(著書 『地球の目線』 や 『環東京湾構想』 から)  のだ。

原子力エネルギーに利権を求めているうちに、

この国は完全にそのレースから遅れをとってしまっている。

 

福島の方々の苦悩と涙への答えは、それしかない。

・・・・・と気合いは入れてみるものの、

なかなか終わらない 「福島行脚」-その④ はつらい報告になる。

以下、続けたい。

 

5月5日の朝、「堰さらい隊」 とともに山都を立った僕は、

会津若松駅で降ろしてもらって、電車で福島へと向かった。

福島県内で野菜の作付契約をしている4つの生産団体に集まってもらって、

異例の合同会議を設定したのだった。

場所は福島市内にある 「福島わかば会」 の事務所。

集まってもらったのは、福島わかば会の他、

二本松有機農業研究会、NPO東和ふるさとづくり協議会、福島有機倶楽部。

 


ログハウスの二階に全部で50人くらいだったろうか、

ぎゅうぎゅうに詰め込んで行なった会議のねらいを要約すれば、

こういうことである。

 

原発事故以降、福島県産の野菜の販売は、正直言って大苦戦の中にある。

大地を守る会では、「福島&北関東の農家がんばろうセット」 などを企画して

販売に努めているが、皆さんと交わした作付契約量を消化 (販売) し切ることは、

現実的には無理な事態に立ち至っている。 事情をご了解いただくとともに、

この損失はきっちり計算して、東京電力に賠償請求するしかない。

そのための協力は惜しまない。 全力でバックアップする所存です。

 

やったってさぁ、取れる保証はないべ?

-たしかに、僕らの力で保証できるわけではありません。

  しかし、原発事故が招いた被害と影響の大きさと社会的損失は、

  皆さんがどれだけ苦しい思いをしたかも含めて、社会的に示す必要があると思う。

 

具体的に品目ごとに、これからの作付と販売のすり合わせを行ないながら、

「いや、もうそれは (作るのを) やめようと思う」

「予定通り行きたい」

といった意向を、淡々とうかがっていく。 辛い時間が経過していく。

 

質疑のなかで、耐え切れなくなったか、一人の生産者が声を荒げた。

「 避難した子が差別されてるって聞いてるけど、

 俺たち東京電力の電気さ使ってるわけでもねえし、いわば防波堤になってんだよ。

  いったい東京の人は、なに考えてんだよ! 」

 

逃げられないので、東京都民の代理人になって応えるしかない。

「 そういう報道がされていることは知ってます。 でもね、それはごく一部の人です。

 一部の人の心ない言動に胸を痛めている都民のほうが圧倒的に多いはずです。

 十把ひとからげにして非難したり敵意を抱いたりせず、

 支援してくれる人たちへの感謝をもって行動することが今は大切です。

 何をもって応えるかを、考えましょうよ。」

 

・・・そんなことは彼も重々知っているのだ。

言わないでいられない悔しさは、受け止めるしかない。 僕でよければ。

 

とにかく、生産と消費を対立させてはならない。

山都で訴えたことを、ここでも伝える。

子どもを守りたいと思う気持ちを  " 風評被害 "  と一緒にしないように。

それがたとえ拡大解釈によるものだとしても、です。

 

こんな発言もあった。

「 大地さんからいただいた義援金で放射能測定器を買わせてもらおうかと思ってます。

 作る者の責任として。」

---なんてつらいコメントなんだろう。 これが支援の結果? でいいのか。。。

 

大地を守る会に入社して26年。 こんな経験をするとは思ってもいなかった。

 

脱原発に向かうしかないです。

とにかく皆さんの営農を維持するために、できることはすべてやるから、

一緒に前に進んでほしい。

まとめはこれしかない。

 

別れ際、生産者の奥さんが声をかけてくれた。

「春になったのにね、何にもする気力が涌いてこなくてね。

 でも今日皆さんに会えて、やることやらなきゃって思いました。 有り難うございました。」

 

福島担当の佐々木克哉が、

「がんばろうセット」 に入れるリーフレット用に、記念写真を撮りましょうと言う。

福島がんばろう! でいきましょう。

 

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少し笑顔も取り戻してくれたか。

 

決意するところがある。

夏に、「脱原発を宣言する大地を守る会の生産者会議」 を開きたいと思う。

 

福島駅前の一番安いビジネスホテルに潜り込んで、

居酒屋を探す気力もなく、地酒を一本買って部屋で物思いにふける。

駅で流れていた甲子園賛歌 「栄冠は君に輝く」 などを口ずさんでみる。

 

  雲は涌き 光溢れて 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ

  若人よ いざ まなじりは 歓呼にこたえ

  いさぎよし 微笑む希望

  ああ 栄冠は 君に輝く

 

泣けてくるね。

ついでに3番の一節も。

 

  空を切る 球の力に かようもの 美しく におえる健康

  若人よ いざ 緑濃き しゅろの葉かざす 感激を 目蓋にえがけ

 

未来を守らなければならない。 それは僕らの義務だ。

 



2011年5月 9日

母の問いに逡巡した私 -福島行脚その③

 

「ミニ講演会&里山交流会」 報告の続き。

 

原発と放射能汚染の講演に続いては、

この地に入植して15年、「あいづ耕人会たべらんしょ」 の生産者でもある 浅見彰宏さん から、

石巻と南相馬での  " 泥だし+炊き出し "  ボランティアに参加した報告がされた。

 

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TV等で何度も見せられた惨状であっても、

やはり実際に行動してきた方からの生の話と映像は、

臨場感を持って迫ってくるものがある。

「元気を与えたいと思って行ったのに、逆に元気をもらって帰ってきた。」

ボランティアを経験した方々が共通して持ち帰ってくるこの感覚。

生死の境目でなお人を思いやれる心とか、

普段は表に出ない人間の強さとか深さのようなものに触れたのだと思う。

自分がしていない体験談は、どんなものでも聞く価値がある。

 

講演と報告の後の質疑では、

一人の若いお母さんからの質問が胸にこたえた。

「 山都に嫁いで来て、二人の子どもができて、まさかこんなことが起きるなんて・・・

 先祖から受け継いできた田畑があって、この土地を離れるわけにはいかない。

 そう思いながらも、子供のことを考えると不安がいっぱいです。

 どうすればいいんでしょうか。」

 

長谷川さんへの質問だったのだが、誠実に答えようと思えば思うほど、

質問者には歯がゆい回答になってしまう。

今はまだ大丈夫だけど、これから近隣の測定データをこまめにチェックして、

出来る防衛策をとりながら、、、

長谷川さんをフォローしようか、でも彼女の不安を払拭できる明快な回答は・・・

と一瞬二瞬の逡巡が手を挙げさせるのをためらわせてしまって、

その方のやや辛そうな 「どうもありがとうございました」 のひと言で、

僕は目を伏せてしまったのだった。

 


昼間の作業の疲れもある中、楽しい交流会を前に時間を30分オーバーしても、

参加者は熱心に耳を傾け、いわゆる  " 集中してる "  感じが漂っている。 

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厳しい自然と折り合いつけながら、支え合って里山の暮らしを実直に紡いできた人たちに、

こんな会議を、、、

やらせるんじゃないよ! と、激しく言いたい。

 

さて、重たい雰囲気はここまでとして、

約40分遅れて、地元の方々との交流会となる。  

 

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(写真提供:浅見彰宏さん)

 

暗い陰は陰として、農民はその本能に従って田を守り、作物を実らせよう。

それしかない。

今年も滔々と堰に水が流れ、豊作になりますように。 乾杯! 

 

久しぶりにチャルジョウ農場の 小川光さん や息子の未明 (みはる) さんら

の元気な姿も確認できた。

「山都の農場は  " どうしようもないバカ息子 "  に託して、私は西会津に住んでます

 (注:光さんは西会津で遊休地の耕作を引き受け再生させている)」 と、

西会津の名刺を頂戴する。

バカ息子は、" どうしようもない頑固親父 "  がいなくなって清々している様子。

面白いね。

 

振る舞ってくれた山の幸とともに、とっぷりと楽しい時間を過ごさせていただく。

こういうときはだいたい飲みすぎてしまう。

 

「本木・早稲谷 堰と里山を守る会」事務局長の大友さんによると、

水利組合のメンバーが、この一年で3戸退会されたとのこと。

昨年は4戸。 この2年間で20戸が13戸に減ってしまった。

浅見さんがこの地に入って15年のうちに、半分以下になったことになる。

 

農村の高齢化はもはや口で騒ぐだけではすまない、切迫した状態になっている。

食と環境を支える土台が崩れていっている。

それは、超ド級の震災と同じレベルで、この間進んでいるものだ。

ただ、今このときに恐怖が凝縮されてないだけで。

 

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来たれ!若者たちよ。 この美しい水源を、一緒に守らないか。

 

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2011年5月 8日

里山で原発の勉強会 -福島行脚その②

 

7日(土) の夕方に福島から戻り、今日は会社で溜まりまくったメールを処理。

これをやっとかないと明日からの仕事にスムーズに入れないので。

それにしても・・・ とても濃密な五日間だった。

 

畜産・水産グループの 吉田和生のツイッター を覗けば、

3日に我々が常磐道に迂回した頃、

彼らは神奈川・三浦の岩崎さん (シラスの生産者) から譲り受けた船を積んで、

宮城に向かってすでに渋滞の中にいたことを知る。

気になっていたのだが、首尾よく届けられたようだ。

三浦半島で漁船を調達して、船を失った三陸の漁業者まで届ける。

いつものことながら、吉田隊 (社内用語) の行動は豪快である。

 

福島行脚最後の夜 (6日) は、

二本松市 (旧東和町) の 「ウッディハウスとうわ」 という宿泊施設に泊まったのだけど、

二人部屋で一緒になった放送大学の先生 (NHKのOBさん) と寝ながらした会話が、

「菅さん (実話では呼び捨て) も浜岡 (原発) を止めるくらいの英断がほしいですねぇ」(エビ)

「あいつはできないね」 (先生) だった。

それが翌日の朝刊を見てびっくりした。

『浜岡原発、全面停止へ -首相要請、中電受け入れ』

(5月7日付 「福島民友」 1面)

 

一日経てば裏事情も含めいろんな情報が耳や目にに入ってくるのだが、

いずれであろうが胸に迫ってくるのは、

歴史という時の中にある  " 今 "  をしっかりと捉えたい、という強い思いである。

どんなふうに社会が進むか、そして自分はどう行動するか、、、

後になって 「一生の不覚」 とならないように進まなければならない。

「思想とは覚悟である」 なんていう物騒な言葉も頭をよぎったりして。

若い頃に読んだ、あまり好きじゃない三島由紀夫の 『葉隠入門』 だったか。。。

 

長い余談はさておき、福島行脚レポートを続けたい。

5月4日、堰さらい (地元では 「総人足」 と呼ぶ) の夜は、

地元の方々との楽しい交流会になるのだが、

今年は全体の空気を読んで、

" その前に震災の現状を知り、原発の問題を考えよう " という時間が用意された。

 

『東日本大震災と放射能汚染に関するミニ講演会と里山交流会』

第一部 -「私たちは放射能汚染とどう向き合うべきか」

講師は、東北農業研究センター研究員・長谷川浩さん。

日本有機農業学会の理事もされている。

 

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(写真提供:浅見彰宏さん)

 

有機農業技術についての会議等で話は何度か聞いてきたが、

原発と放射能についても講義されるとは、さすがである。

 


長谷川さんの話は、まずは今進んできる事実確認から始められた。

放射能漏れ事故で最も深刻な打撃を被ったのは福島県だが、

汚染は北半球全体に広がっていっている。

福島県は東京電力の電力を1ワットも使っていないのに、

福島の農民、漁民が最大の犠牲者になってしまった。

浜通りでは第1原発を中心に南北60km がゴーストタウンになった。

 

続いて放射能の基礎知識をおさらいする。

放射性物質というものについて、放射能と放射線の違い、生物に与える影響、等々。

放射能の出ない原子力発電所は理論的にあり得ないことを知っておくこと。

その上で、100%安全な技術というのは存在しないことも。

日本列島は火山、地震、津波、台風の常習地帯であることも。

 

原子力や放射能の専門家ではないので、と断った上で、

長谷川さんの私見が語られた。

放射能も放射性物質も五感では分からないため、数値に頼ることになる。

しかしながら、人間の健康に影響が出ると分かっている最低値=100ミリシーベルト

以下の放射線量についての健康被害は、長期的な影響まで含めると、

実はまだ科学的に証明されていないのである。

疫学調査は、年齢・性別・喫煙・生活習慣などに左右されて、必ずしも明確な結論が出ない。

そこで、「危険であることを証明し切れていない」 を元に、

「大丈夫」 から 「少なければ少ないほど」 という予防原則の観点の間で、

幅広い解釈が成り立ってしまう。

数値に対する判断が、専門家の間でも正反対になることがある、

それが放射能という問題である。

 

いま進んでいる事態は、

低線量を長期間被爆した場合の人体実験にさらされているようなものだが、

しかし開放系空間に放出された放射能の影響を 長期的に見ようとすればするほど、

因果関係の証明は困難なものとなるだろう。

 

長谷川さんの  " 私見 "  はさらに続く。

これまで数多くの大気圏核実験やチェルノブィリ事故、そして今回の事故等によって、

もはや北半球にゼロ・リスクの場所はない。

どの説を採用するか、どこまで許容するかはあなた次第です。

より低いところを望むならば、疎開してください (どこがいいのかは言えないけど)。

でも200万の福島県民が疎開することはほとんど不可能。

そうなったらそれは難民である。

 

水田は kg の土壌あたり 5,000ベクレルまでなら耕作できることになった。

しかしできるだけ土壌中セシウムを吸わない (+減らす) ために、

農民こそが知識を持つ必要がある。 

 

いかに汚染されようが、人はそれでも種を播いて、たべものを収穫し、食べ、

水を飲まなければ生きてゆけない。

 

電気や資源を湯水のように使う「文明病」は、もう終わりにしよう。

不便な生活が正常で、いまほど便利な生活は異常である (それには裏があるが)。

東京は、電気はもちろん、水、食べ物の自給率はほぼ 0% である。

地方を収奪して肥大化してきた。

首都圏の皆さん。 福島県を買い支えてください。

 

配布資料は、電気を使いまくる都市に対する挑発的な文言で締めくくられているのだが、

彼に対する誤解を避けるために紹介は控えておきたい。

研究者の前に、彼も人間なのだ。

 

では、長谷川さんの講義を受ける形で、大地を守る会の戎谷さんからコメントを。

ヤな役回りだな、いつも ・・・・

 

僕の結論はいわば、ご覧の通り、である。

原発というのは低コストなものではなく、温暖化防止につながるものでもなく、

永久的に廃棄物を管理し続けなければならず、

決して人をシアワセにするエネルギーではない。 止めるしかないですよね。

 

消費者の間では確かに福島産の野菜に対する買い控えが起きているけど、

それを風評被害と言って責めてはいけません。

風評被害とは、小さなお子さんを持つ母親の防衛行動とは別にある。

今ここで生産者と消費者が対立してはならないです、ゼッタイに。

ともに暮らしの基盤である食と環境を守るために

支え合いの精神をこそ発揮して前に進みたいものです。

そのために、大地を守る会では 「福島&北関東の農家がんばろうセット」 などを企画し、

消費者と生産者のつながりを維持していこうと頑張ってます。

・・・と上手に言えたかどうかは不明だけど。

 

 

なんだか今回のレポートは長くなりそうだ。

一杯やりたくなったので、この項続く、で。

 



2011年5月 5日

GWは堰さらいから -福島行脚その①

 

福島行脚中です。

 

3日から会津・山都に入り、堰さらいに参加して、

今日は福島市で4つの生産者団体とつらい会議を行なって、

いま福島駅前のホテルに潜り込んで、シャワーして飯を食って

ひと息ついているところ。 

明日6日~7日は日本有機農業学会の方たちと一緒に、

相馬~南相馬の被災地を回り、現地の生産者と交流する予定です。 

以下、順次振り返りながら報告を。

 

5月3日(火)、我々「大地を守る会堰さらい隊」 は、

東北道の渋滞情報をチェックしながら、常磐道に迂回して、

いわきから郡山へ、そして磐越道を走って会津若松で降り、喜多方市に入る。

大和川酒造に立ち寄り、差し入れ用の酒 (種蒔人+α ) を積んで、山都に向かう。

 

5年連続となった堰さらいボランティアも一人二人と仲間が増えてきて、

今年の参加者は6名となった。

 

変わらぬ里の風景が出迎えてくれる。

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ちょうど桜の満開に当たるのも嬉しい。

 

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今年のボランティアは総勢30名弱といったところか。

大地を守る会からは6名だが、

他のグループや単独参加者にも会員さんがいらっしゃって、ちょっと誇らしく思ったりして。 

 

3日の夜は公民館で、前夜祭と称して地元のリーダーやボランティアの方々と懇親会。

そして4日、朝飯をみんなで作って食べ、昼のおにぎりも用意して、

例によって上流から下る組 (早稲谷チーム) と

下流から上る組 (本木チーム) に分かれて、出発。

我々は上流組に編成される。

 

一番上の取水口に到着。

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この 「本木上堰」 の長さが6kmというから、それぞれ約3kmの行程を、

落葉や土砂をさらいながら、ムカデのように進んでいく。

こんな感じで。 

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江戸時代に掘られたという 「本木上堰」。

どれだけの年月がかかったのだろうか。 全貌を示す記録は残ってないようなのだが、

この疏水のお陰で麓の田んぼに水が行き渡るようになった

(いや、これによってたくさんの新田が開かれたのだろう) ことを思えば、

米にかけた執念が偲ばれる。

毎年々々雪や災害で潰されながらも、

連綿と水循環の血脈となって会津山間部の暮らしを下支えしてきた。

5月4日は、田植え前の、集落総出での堰の清掃日というわけだ。

水は地域共同体の絆もつないできたに違いない。

 

コンクリ等で修復された箇所も随所にあって、

人と水路の長い長い付き合いの歴史が想像される。 

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今年の冬は尋常じゃなく雪が多かった。

まだ雪に埋まっている場所もある。

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大雪の影響か地震によるものか聞きそびれたが、

壁が壊れた箇所もある。 

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大人が四つんばいになってようやく入れるかという洞穴がある。

これもいつ掘られたのか、定かな記録はない。 

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山の随所から湧き出る水が一本の水流となって、それを堰が受け止める。

緩やかに下りながら、水は温められ、水田を潤す。 

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堆積した落葉や土砂を浚いながら進む我々にまるで寄り添うように、

水もついてくる。 水量を少しずつ増しながら。 

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途中、スギの大木が倒れて水路を塞いでいたりする。

これはチェーンソーでも持ってこないと始末できない。

何とか枝だけでも落とし片づけ、水を通すようにする。

花粉を10年分くらい浴びただろうか。 スギ花粉症の方には無理な仕事だ。

 

作業の合い間は、風景で癒される。

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こういう生命と自然が一体となった姿を眺めながら汗を拭くときが、

「ああ、今年も来てよかったな」 と思い、感謝するひと時である。

 

下から上ってきた班と合流したのは午後3時前くらいだったか。

終了後は、公民館前で恒例の打ち上げ。

お酒や豚汁が振る舞われ、これまたいつものように豆腐一丁にサバの水煮缶。

豆腐とサバ缶を出すようになった由来は地元の人もよく分からない。

たぶん手軽に用意ができ、その場で食べてもよし、そのまま持ち帰ってもよし、

蛋白源として誰にとっても 「ほど良くありがたい」 ものとして定着したのではなかろうか。

勝手な想像だけど。

 

堰に水が通り、いよいよ田の仕事が始まる。

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この棚田にも、間もなく水が入る。 

 

こうしていつもなら元気が涌いてくるところなのだが、

人々の気持ちに陰鬱な陰を落としているものがある。

原発事故と放射能汚染という問題だ。

夜に開かれた交流会は、そんな今を反映して、

地元住民に広く呼びかけての原発勉強会からスタートした。

 

続きは、スミマセン。 帰ってから。

 



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