産地情報: 2011年6月アーカイブ

2011年6月 8日

地域の再生を誓う人々 -福島行脚その⑦

 

5月3日から5日間にわたる福島行脚のレポートも、

ようやく最終日に辿りついた。

重かったな、今年のゴールデンウィーク。

このツケが家庭のメルトダウンにつながらなければよいのだが・・・

いや、私的な話は慎んで、レポートを続けよう。

 

「二本松ウッディハウスとうわ」 という宿泊交流施設で一泊した我々視察団一行は、

5月7日(土)、まずは地元の堆肥センターを見学する。

 

循環型有機農業を目指す有志19名の出資で、

「ゆうきの里」 づくりの土台を形成すべく建設された施設である。

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案内してくれたのは、

協議会初代理事長を務めた菅野正寿(すげの・せいじゅ) さん。

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地元の牧場から出る牛フンに稲ワラや籾殻、食品加工で発生する食品残さなど、

地域資源を最大限に活用して、一次発酵、二次発酵・・・ と

半年かけて四次発酵まで行ない完熟堆肥を完成させる。

それを 「げんき堆肥」 と銘打って、直売所で販売する。

 

農家は畑の土壌診断を行ない、それに基づいた施肥設計を整え、

「げんき堆肥」を適正に使用し、農薬は極力使わず、

栽培履歴を自ら開示する。

それが 「東和げんき野菜」 のブランドとなり、直売所を潤す。

 

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しかし、彼らの精一杯の取り組みにも、原発事故は容赦なかった。

この 「げんき野菜」 も、事故直後から

県内の生協やスーパーから拒否される事態となった。

消費者の買い控え(防衛行為) と、流通者の脅えた自主規制は、意味が違う、

と僕は思っている。

" 売れるか、売れないか、どう売るか、何を伝えるか "  の悩みを経ずに、

早々とつながりを断ち切るのは、流通者のやる仕事ではない。

 

しかしながら、地域資源の循環を支える静脈である自慢の堆肥にさえも、

不安は緩やかな津波のように浸潤してきているのである。

この罪は大きい。

 

見学の後、「道の駅東和 あぶくま館」 に戻り、

現地農家からの報告と意見交換会が再び持たれた。

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菅野正寿さんが今の状況を語る。

露地野菜がほとんど出荷できなくなった。

しいたけは出荷できているが、周辺地域では制限されたところもある。

測定器を購入して観測しているが、場所によってかなり差があるようだ。

ヒマワリの資料を集めタネも買ったが、はたして植えていいものか・・・

「耕すな」 という人から、「深く耕せ」 という人までいて、

私たちは何を基準に判断していいのか、不安は増すばかりである。

それでも桑の生産の準備には入ろうと思っている。

 

全戸避難の指示が出された飯館村から来ていただいた

高橋日出夫さん。 

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今は松川(福島市) に避難されているが、時々は見回りに帰っている。

ブロッコリィを6~7月に収穫する予定で、4月に1町歩(≒1ha) 作付けした。

花のグラジオラスを7月からお盆にかけて、

トルコギキョウをお盆から11月の婚礼期に出荷、、、そんな計画だった。

やませによる冷害のある地域なので、複合経営に取り組んできて、

何とか食べていける、ようやく暮らしの見通しが立ってきたところだった。

 

「原発事故の後、子供がいる若い夫婦はみんな外に出ました。

 残っているのは年寄りだけ。

 私は、できれば村に残って来年に備えたいと思っていたんですが、

 全戸避難となってしまって。

 それでも地区のみんなとは、いつか飯館に戻ろう、そう誓い合って移りました。

 私の住む松塚地区は45戸あって、以前から機関紙を出していまして、

 この機関紙を何とか続けて、みんなに配りながら、

 つながりを持ってやっていこうと思ってます。

 

 私は本当は野菜が好きで、

 農業高校でカリフラワーを見たときの感激が今でも忘れられないんです。

 家は当時、葉タバコと水稲だけだったんですが、野菜作りに魅力を感じて、

 20代半ばに菅野正寿さんと知り合って、安全でおいしい野菜を作って食べてもらおうと

 「福島有機農業産直研究会」 を結成しました。

 末娘はその頃作っていたレタスの味を今でも忘れられないと言ってくれます。 

 

 いま村民が一番知りたいことは、畑や田や山の、土の実態です。

 いろんな取り組みがありますが、どうなんでしょう。

 来年は作付できるんでしょうか。 それが知りたいです。

 飯館はどことも合併せず、  「自主自立のむらづくり」 の道を歩んできました。

 私は理想郷に向かっていると信じていました。

 あの美しい自慢の村が、こんなことになろうとは・・・・・ 」

 

東和に新規就農して5年目の春を迎えた関元弘さん。 

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元農水省の官僚である。

出向先として勤務した東和町に魅せられ、

8年前に霞ヶ関を捨て、夫婦で東和に移り住んだ。

農業の現場で有機農業を実践するのは、以前からの夢だったという。

3年前には有機JASを取得している。

公とも組み、農協や既成の流通ルートを活用した新しい仕組みをつくろうと

4月に 「オーガニックふくしま安達」 という組織を結成したばかり。

実は3月14日が、その設立総会の予定だった。

心昂ぶる絶頂直前での原発事故となったわけだ。

 

事故で一時心が折れそうになったが、

農業をしたくてもできない人がいるのだと思うと、

「ここで負けてられっか」 という気持ちになった。

「立ち上がって、前に進もうと決心しました。」

 

会のシンボルマークは、ヒマワリ。

「土壌浄化とかではなく、復興のシンボルとして」 みんなでヒマワリを植えている。

いずれ二本松全体を有機の里にしたい、と抱負を語る。

 

手元に、菅野正寿さんが書かれた文章がある。

そのなかの一節を紹介したい。

 

  原発の安全神話は崩れた。

  有機農業生産者は、農民は、命の大地を守るため、声をあげなければならない。

  戦後、都市生活者のため労働力も食糧もそして電力も提供し、

  支えてきた東北の農民の声なき声を受け止めなければならない。

  消費文明と人間のエゴの帰結が今回の事故をうみ出したのならば、

  エネルギー政策の抜本的転換、

  つまり持続可能な自然エネルギーへの転換が求められる。

  そしてわたしたちは力をあわせて、希望の種を蒔かなければならない。

 

  「山の畑の桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか」 と唄われた、

  赤とんぼと桑畑と棚田のふるさと ~ 

  今年、黄金色の稲穂に赤とんぼは舞うのだろうか。

 

現地視察と生産者との交流から、早や1ヶ月が経った。

「皆さんのところで育ててほしい」 と、

飯館村の高橋日出夫さんから託されたグラジオラスの球根が、

僕のちっこいプランターで芽を出してしまった。

高橋さんの願いが乗り移ったかのように、逞しく伸びてくる。 

 

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こんなところでゴメンね、だよね、まったく。

最後まで付き合うから、許してくれ。

 



2011年6月 5日

美しい村々に降った放射能 -福島行脚その⑥

 

改めて振り返るまでもなく、

原子力発電という技術は、実に事故やトラブルとのたたかいの歴史だった。

" 一歩間違えば大惨事 "  という事態を繰り返しながら、

世界に誇るニッポンの技術者たちは、

" 未来の国産エネルギー "  に途方もない夢を賭けて未知の領域に挑んできた。

 

しかしこの技術は、放射能を発散するという宿命により、

不幸な足かせも必要とした。

" 事故は起きない "  という神話を前提にしなければ、

一歩も前に進めなかったのだ。

技術革新にとって失敗とは、物語に感動を加える絶妙なダシのようなものなのに。

 

安全神話は、国を挙げて、極めて強固に築かれていった。

放射能漏れや隠蔽・改ざんをさんざん繰り返しながら。。。

「こんな危険なモノとは共存できない」 「事故が起きてからでは手遅れになる」

という反対論は、その神話の壁と政治力、そしてマネーの力を崩すことは出来なかった。 

地震との関連でも、その危うさはつとに指摘されてきたにも拘らず、

「明日起きても不思議ではない」 という主張は、

危険人物の煽動的発言であるかのようにシカトされた。

そうして虚しくモロかったはずの  " 安全神話 "  は、いつしか

リスクを最も理解し警戒していたはずの科学者や技術者の頭をも支配してしまった。

それこそが最強のリスク因子であることに気づくことなく。

 

まあ、しかし、、、そう批判したところで、我々だけが逃げられるワケではない。

この責任は、賛成論者・反対論者を問わず、

現代社会を生きるすべての大人が背負わなければならない。

 

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・・・ そんなことをボンヤリと思いながら、景色を眺め続ける。

 

遺留品の保管所を示す墨で書かれた張り紙が静かに立っている街を後にして、

視察団一行は、浜通りの南相馬から再び内陸へと踵を返した。

何台もの自衛隊の災害救助車両とすれ違いながら、

20km も南に下れば、原発事故によって

行方不明の家族を捜すことすら許されなくなった町があることを考えようとするが、

僕の想像力はとてもついてゆけない。

 

二本松市・旧東和町に向かう途中、飯館村を通過する。

 

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「日本でもっとも美しい村」 のひとつ -福島県南相馬郡飯館村。

原発から約40km離れた地で、全村民が避難を余儀なくされてしまった。

放射能の影はどこにも見えないけど。 

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この田畑も、間もなく放置される。 酷い話だ。

 

夕方、二本松市・旧東和町にある 「道の駅 あぶくま館」 に到着。

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 ここで、有機農業をベースに、

地域の自立と自然循環のふるさとづくりに取り組んできた

生産者たちとの意見交換会を持つ。

 


東和の町づくりを担ってきたのは、

NPO法人 「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」。

 

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二本松市に合併された2005年、

それまで築いてきた 「ゆうきの里づくり」 を継承しようと設立された。

かつて県内屈指の養蚕地帯といわれた山村に広がる耕作放棄地を再生させ、

桑を使った特産品を開発し、新規就農者を受け入れ、

「里山の恵みと、人の輝くふるさとづくり」 に邁進してきた。

その実績が評価され、一昨年、過疎地域自立活性化優良事例として、

総務大臣賞を受賞した。

大地を守る会の生産者団体でもあるが、彼らの基本はあくまでも 「地域」 である。

僕はその精神を気高いと思う。

 

95%が東和町の産品で並べられているという直売所。

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壁側の棚には、生産者たちの栽培履歴のファイルが並べられている。

それがトレーサビリティの証明である。

 

協議会理事長の大野達弘さん。

以前は 「福島わかば会」 のメンバーで、前日の福島での会議でも一緒だった。

今は地元・東和の、有機農業の指導者として若者たちを育てている。 

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里山再生を掲げ、復活させた桑園は60ヘクタール。

仲間と一緒に 「桑の葉パウダー」 や 「桑茶」 、そしてジャムから焼酎まで、

次々とヒット商品を開発してきた。

育てた新規就農者は16組20人を数える。

新しいふるさとづくりに手ごたえを感じ取ってきた。

そこに起きたのが、原発事故である。 

「山がどうなるのか、心配で途方にくれている状態」 だと語る。

「でも、みんなで頑張って乗り切ってゆくしかない。 この地で踏ん張っていきたい。」

 

副理事長の佐藤佐市さん。

こちらも元 「わかば会」 のメンバー。

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家庭菜園用の苗も作っていて、園芸福祉も取り入れたいと抱負を語る。

しかし・・・地域資源を循環させることが 「有機」 だと信じてやってきたが、

今は落葉の汚染を心配しなければならなくなった。

悩みは尽きないが、有機農業の 「ゆうき」 は 「勇気」 でもあると思って、

頑張っていきたい。

 

山の落葉、しいたけの原木・・・ 山は資源の宝庫なのに、

今はそれを心配しなければならなくなってしまった。

「使っても大丈夫でしょうか」

実態が正確に分からない以上、明解に答えられる専門家はいない。

 

県は野菜の分析で手一杯なのだという。

「民間の検査機関に出せ」 と言われて問い合わせたら、

バカにならない検査費用だった。

ガイガーカウンターも買ったが、どうやって再生につなげたらいいのか・・・

 

意見交換会を終え、夜には懇親会が持たれたのだが、

山都での堰浚いから福島での生産者との厳しい会議を経て、今日の体験・・・

正直言って、ひどく疲れた感が襲ってきて、

自分でも信じられない。 得意の 「飲み」 に付き合えない。

 

愛媛大学の日鷹一雅さんと溜池や水系の除染についてしばし話し合って、

みんなより早く休ませてもらった。

東和の若者たちと語り合おうと思っていたのに。

 

・・・ああ、終われないね。 続く。

 



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