産地情報: 2014年4月アーカイブ

2014年4月29日

福島の魚を食べる

 

今夜は広島に来ています。

広島駅新幹線口近くのホテルにチェックインして、

近所にあった地酒と地魚の居酒屋でテキトーな気分になって、

部屋に戻ってパソコンに向かっています。

明日は、中国山地の真ん中で食をテーマに地域起こしを進める

島根県邑南町に向かいます。

 

さて、4月26日(土) の会合ハシゴの締め。

御徒町の寿司処 「しゅん」 で行なわれた 「福島の魚を食べる会」。

この「食べる会」は 2回目で、1回目は所用があって出られなかった。

なんとしても 今度は出なきゃね、ということで

案内をもらってすぐに申し込んでいた。

昨今、土日は平日より忙しい。

 

ゲストで来られたのは、

いわき市漁業協同組合久之浜支所 「熊野丸」 の漁師、

新妻竹彦さん。 

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震災とフクイチ事故から 3年の時間と今の思いを、

淡々と語ってくれた。

今もまだ漁は限定的なもので、週2回の試験操業、

なおかつ魚種もミズダコやコウナゴなど、放射性物質のモニタリング検査で

安全性レベルが確認されたものに限定されている。

東電の賠償は続いているが、

漁師の生きがいが補償されることはない。

このままでは漁師は減り続けることだろう。

 

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農業以上に高齢化が進む日本の沿岸漁業にあって、

福島・浜通りの漁業は優等生だった。

ただ獲って売ればいいというようなやり方ではなく、

資源管理に基づいた 「いい魚をちゃんとした値段で売る」

経営感覚が育っていた。

だから仲買や小売店からも支持され、まっとうな値段で取引された。

それは福島ブランドのひとつだったと言ってもいい。

我々のような団体との産直も必要としないくらいに、

浜通りの魚は高級割烹とかに回っていたのである。

 

それが2011年3月11日を境に崩壊した。

ブランド力と誇りは、お金では補償できない。

しかも彼らを支えたいと心を砕くのは、原発推進派ではない。

ゲンパツは、いざとなったら 「地域を使い捨てる(切り捨てる)」

発想に基づいている。

 

新鮮で美味しい魚をいただきながら話し合っても、

特効薬が見つかるわけではない。

しかし語り合うことこそが大切な一歩であり、

消費者とつながっている実感こそ、いま彼らが願っているものである。

彼らは被害者でありながら、

加害者になってはならないという思いで慎重に操業を続け、

情報を公開しながら出口を探しているのだ。

 

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届いたキチジをベースにした刺し盛をいただく。

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美味い。

いま福島沖は、究極の資源管理状態にあって、

どんどん魚が増えているらしい。

しかし指定魚種以外は、網にかかっても捨てざるを得ない。

漁師のため息は深く、まだ長いトンネルの中を進んでいる。

 

新妻さんは別に我々との取引を求めているわけではない。

ただ消費者の気持ちを知りたいとの思いでこの企画に乗ってくれた。

僕らはもっともっと、ちゃんと話し合い理解し合うことが必要だ。

理論も戦略も、現場を救えなければ意味がない。

でなかったら消費者も未来も守れないのだから。

 



2014年4月28日

谷川さん、詩をひとつ・・・

 

  万有引力とは

  引き合う孤独の力である

 

  宇宙はひずんでいる

  それ故みんなはもとめ合う ・・・

    -谷川俊太郎 「二十億光年の孤独」 の一節-

 

1950年、19歳の若さで鮮烈の詩壇デビューを果たし、

80歳を過ぎてなお  " 言葉の力 "  を探し続ける詩人、谷川俊太郎。

幸か不幸か、不登校の青年のまま

「詩人の道」 に進んでしまったがゆえに、

谷川さんは社会で働いたことがない (詩人・作家としての仕事は別として)。

そんな谷川さんが、働く人々の姿を見つめ、詩を編む。

あるいは震災後の福島でふるさとを記録し続ける高校生たちに、

詩のエールを送る。

その両者の姿をカメラで追いかけながら、一本の映画にまとめる。

2年近くかけて完成した映画のタイトルは、

『谷川さん詩をひとつ作ってください』

そのまんまですねえ。

いいんだか悪いんだかよく分からないので、コメントは避けておこう。

で、中身は、、、どんな作品に仕上がったか。

 

4月26日(土) 午後 3時、

日比谷から京橋まで移動。

分かりにくいビルの地下に 「京橋テアトル」 という試写室がある。

ここか? と覗いていたら、

中のエレベーター前から川里賢太郎さんが声をかけてくれた。

「いよいよ銀幕デビューですね。 おめでとうございます」

「どんなふうに編集されたんですかねぇ。 けっこうドキドキしますよ」

とか話しながら地下に降りる。

 

定員 40人ばかりの小さな試写室だった。

(株)モンタージュの小松原時夫さん、監督の杉本信昭さんに挨拶し、

賢太郎君と並んで座る。

いつもTシャツだという谷川さんの姿もあった。

 


封切り前に、ストーリーを紹介するのはやめておきたい。

登場するのはこんな人たちだ。

震災後のふるさとの光景を記録し続ける

福島県相馬高校放送部の女子高校生たちと顧問の先生。

大阪・釜ヶ崎で日雇いの暮らしを続ける元文学青年のおっちゃん。

青森・津軽のイタコさん。

長崎・諫早湾で漁を続ける夫婦。

そして東京都小平で代々農業を営んできた川里家の後継ぎ、賢太郎くん。

 

飾りのない日々の暮らしや営みの中にも歴史があり、

人とのつながりがあり、固有の思いや隠された苦悩がある。

最後に、そんな 「私」 のために用意された谷川さんの詩を、

それぞれが朗読する。

哀しみを慰め、人を優しくつなげ、あるいは気を昂ぶらせる

詩の力と意味が浮かび上がってくる。

とても良い作品に仕上がったと思った。

 

試写が終わって、監督が礼を述べる。

谷川さんも高い評価だ。

「どっかの賞に出品してもいいんじゃない」 と褒める。

感想を求められた賢太郎くん。

「いや、改めて、俺ってイイ男だと思いました」

いいね。

 

早くみんなに観てもらいたいところなのだが、

劇場公開は 9月から、とのこと。

どうも監督がイタコ婆さんから父の霊を呼び出してもらった際に、

秋から運気が巡ってくる(それまで我慢しろ) と言われたんだそうだ。

ならしょうがないか- と納得する優しい我々。

 

試写会終了後、賢太郎くんとのツーショットをお願いしたところ、

谷川さんは気さくに応じてくれた。

「ブログにアップしてもいいですか?」

「ああ、いいですよ。 どうぞどうぞ」

谷川俊太郎は、いい人だった。

センシティブなところは、おそらく我々の想像を超えているのだろうが。

 

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詩集とサインペンも持ってくるんだったと、

欲張るミーハーな自分を発見して、ちょっと恥ずかしくなったりして。

 

僕が詩人・谷川俊太郎の名前を知ったのは、10代のいつだったか。

それは詩集ではなくて、フォーク歌手・高石ともやが歌った一曲だった。

武満徹が曲をつけた 「死んだ男の残したものは」。

以来、冒頭で引用したデビュー作だけでなく、

たくさんの詩に出会ったはずなのだが、

この詩だけは、今でも全部そらんじることができる。

 

  死んだ男の残したものは

  ひとりの妻とひとりの子ども

  他には何も残さなかった

  墓石ひとつ残さなかった

  ・・・・・・・・・・

  死んだ兵士の残したものは

  こわれた銃とゆがんだ地球

  他には何も残せなかった

  平和ひとつ残せなかった

  ・・・・・・・・・・

 

賢太郎くんが親父さんから受け継いだ手を抜かない仕事ぶりと、

土へのこだわり、家族との時間。

その姿に詩人・谷川俊太郎が見たものは、

つながっていく家族の愛、のようだった。

もう一度ちゃんと聞いて覚えたいのだが、

監督の運気が訪れる秋までおあずけ。

 

帰りがけ、小松原さんが

「一杯いかがですか、谷川さんも囲んで」

と誘ってくれた。

なんと言うことか・・・

美味しい飲み会が、今日は三つも-。

 

丁重にお断りしながら、

後ろ髪を引かれる思いで、今度は京橋から御徒町へ。

「しゅん」 というお寿司屋さんで 「福島のさかなを食べる会」。

福島・いわきの漁師さんがやってくるのだ。

行かねばならない。

続きは明日。

 



2014年4月22日

原点を思い出させてくれた丹那交流会

 

4月19日(土)、箱根の南に位置する静岡県田方郡函南町。

大地を守る会の低温殺菌牛乳(通称 「大地牛乳」) のふるさと

丹那盆地のこの日は、

とても風が強くて、時折小雨も降る肌寒い一日だった。 

満開で出迎えてくれた菜の花も、少々寒そうに震えている。

 

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伊豆・丹那盆地は 130年に及ぶ酪農の歴史を誇る里である。

360度山に囲まれ、町とか村とかではなく、里と呼ぶほうが似合っている。

ここで 函南東部農協 主催による 「丹那・生産者交流会」 が催された。

会場は、18年前に建設された 「酪農王国 オラッチェ」。

 

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この交流会の歴史も古い。

国内では当時ほとんどなかった低温殺菌牛乳(65℃・30分殺菌、最初は62℃だった)

を開発したのが82年 8月のことだから、もうかれこれ 32年になる。

今でも超高温殺菌(130℃-2秒) が主流という悲しい乳文化のこの国で、

それは画期的な取り組みだった。

 

相当な覚悟で導入してくれた低温殺菌の製造ラインを維持すべく、

まだ組織の小さかった大地を守る会は、

他の流通組織や静岡県下の消費者団体にも働きかけて、

共同でこのホンモノの牛乳を育てようと呼びかけた。

そこで結成されたのが 「丹那の低温殺菌牛乳を育てる団体連絡会」(略称 「丹低団」) だ。

当然のごとく生産者との交流も活発になる。

 

僕が入社したのもちょうどその頃で、

生まれたばかりの大地牛乳の生産と消費を安定させるべく、

にわか仕込みの知識で宣伝しては、

消費者の方々を事あるごとにお連れしたものだった。

東名高速道路から小田原厚木道路-箱根ターンパイクと自ら運転して。

丹那交流会は低温殺菌牛乳の歴史そのものと言ってもいい。

と偉そうに言いながら、僕がこの交流会に参加するのは

15年ぶりくらいなんだけど。

 


今回首都圏から集まってくれた会員さんは 80名ほど。

ちょっと寒い開会式となったが、

リピーターの方は 「去年もこんなだったし、慣れてます」 と笑ってくれる。

ま、バーベキューが始まれば体もあったまるか、ってなもんで。

 

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挨拶しているのは農協の組合長で、

オラッチェの代表も務められている片野敏和さん。

その後ろ(写真左)に控えているのが、

低温殺菌部会長の酪農家・川口さん。

 

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低温殺菌部会の酪農家は、現在10名。

そのなかで最も若手である大塚さん夫妻が紹介される。

 

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大塚さんは酪農家の次男として育ち、元教師だったのだが、

お父さんが体をこわしたのを機に酪農を継ぐことを決心した。

「やっぱり俺らの代で牛飼いを終わらせるわけにいかないと思って・・・」。

継いでから結婚もできて、子どもも生まれて、

子どものためにも良質な牛乳を生産し続けたいと思って、頑張ってます。 

 

有害な菌を死滅させて栄養価を残す、

そのための殺菌法としてパスツールがあみ出したのが 「パスチャライゼーション」

と言われる低温殺菌法(62~65℃・30分もしくは75℃15秒) である。

当然、超高温殺菌に比べると生産効率が落ちる。

しかも牛乳を低温で処理するということは、

もともとの原乳がきれい(衛生的) でなければならない。

雑菌数の少ない乳を生産するには、

牛舎の衛生管理から牛の健康管理まで細かく気を配る。

広大な牧野で育てる欧米では当たり前の殺菌法だが、

狭い面積で採算の合う乳量生産を余儀なくされている日本の酪農では、

なかなかに厳しい。

低温殺菌牛乳を維持させるためには、

少々高くても支援したいという消費者の存在が必須となる。

ホンモノの牛乳を理解してくれる消費者がいてくれる

と信じることで、生産者も頑張れる。

若い生産者が、誇りを持って牛を育てられる社会にしたいものだ。

 

酪農王国にはいろんな動物がいる。

小さい頃から生き物と触れ合うのは大切なことだ。 

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バターやアイスクリームの手づくりも体験できる。

ここのアイスクリームはメチャメチャ評判がいい。

それは原乳の質と新鮮さによる。

 

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大地を守る会が丹那牛乳(函南東部農協)さんに低温殺菌牛乳の開発を

持ちかけたのにはワケがある。

管内の牧場と工場の距離が極めて短いこと(新鮮なうちに処理できる)、

東京に近いこと(新鮮なうちに運べる)、

もともとの乳質がいいこと(牛を健康に育てている)。

 

1980年代に入り、原乳が余ってきたことも背景にあって、

大手乳業メーカーが無菌パックに詰めた LL(ロングライフ) ミルクを開発し、

それを常温で流通できるように法改正しようと厚労省に働きかけた。

それに対して中小メーカーや酪農団体が激しく反対し、

全国の消費者団体も呼応してLLミルクの反対運動がまき起こった。

大地を守る会も運動に賛同したのだが、

牛乳について学ぶなかで、低温殺菌という本来の牛乳を

生産者と一緒に開発しようという方針に至った。

そこで白羽の矢を立てたのが丹那牛乳だった。

 

生産者にとっては相当にリスクの高い、迷惑な話であったようだ。

それでも応じてくれたのは、酪農家としてのプライドがうずいたからだと思う。

どこよりも先んじてホンモノの牛乳を実現して見せようか、という

意気に火がついたというか。

 

LL牛乳反対から低温殺菌牛乳の開発へ。

反対に留まらず、あるべき提案をぶつける。

この運動論は、

以後の大地を守る会の生き方を決定づけたと言ってもいい。

 

バーベキューのお肉は岩手県山形村の日本短角牛。

やっぱ短角は美味い。

加えてオラッチェ自慢の 「風の谷のビール」。

どれも提案型運動の産物である。

交流もだんだんと打ち解けていく。

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空模様も怪しいので、急きょ農協の会議室に場所を移して

車座での懇親会となる。 

 

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生産者の思い、牛を育てる日々の苦労など聞いているうちに、

「そもそも何で低温殺菌をやろうと思ったんですか?」

の質問が飛び出した。

石川さんから 「そこは大地さんから・・・」 と目配せが。

喜んで、久しぶりでの低温殺菌牛乳開発秘話を披露させていただいた次第。

 

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駆け足で牛乳工場を見学して、

オラッチェ向かいにある、片野組合長の牛舎を見学。

昨今は伝染病の心配もあって、

道路からの説明となる。

 

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牛にストレスをかけないように配慮された、

仕切り壁なしのフリーバーン牛舎。

牛たちも僕らに興味を持って、じっとこちらを眺める。

もっと近づいて来てほしかったのかも。

飼い主の心が想像される。 

 

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久しぶりの丹那交流会で、自分の原点を蘇らせた一日。

今日は書けなかったけど、 僕は去年から、

オラッチェ内にあるジャム&ケーキ工房 「フルーツバスケット」 の

取締役を任免されている。

放射能対策やらローソンさん営業やら生産部長やら、

この間兼務が続いたので肩書きだけの状態だったのだけど、

  いよいよ本気でこの地に関わろうと思っているところである。

「地域」 とい うテーマとともに。

 



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