エビ版「おコメ大百科」: 2008年1月アーカイブ

2008年1月26日

「提携米ネットワーク」 解散総会

 

昨日(1/25)、六本木でひとつの会議が開かれた。

提携米ネットワーク」総会。

 

そこで組織の発展的解消が提起され、承認された。

 

80年代末から90年代の10年くらい事務局を担当した私にとっては、かなり思い入れ深い組織である。

私はここで鍛えられたと言っても過言ではない。

敗北しつつも歴史はついてくる、ということがある。

これは新しいたたかいを引き受けた当事者でしか感受できない、

孤独な幸福感のようなものだ。

 

その最後の解散総会となった。


昨日(1/25)、六本木でひとつの会議が開かれた。

 

「提携米ネットワーク」総会

 

そこで組織の発展的解消が提起され、承認された。

 

80年代末から90年代の10年くらい事務局を担当した私にとっては、

かなり思い入れ深い組織である。

 

私はここで鍛えられたと言っても過言ではない。

敗北しつつも歴史はついてくる、ということがある。

これは新しいたたかいを引き受けた当事者でしか感受できない、孤独な幸福感のようなものだ。

 

その最後の解散総会となった。

 

思い起こせば1986年、米の輸入自由化の圧力が高まる中、

米を通じての生産者と消費者の提携によって日本の水田を守ろう、

という趣旨でスタートしたのが

「日本の水田を守ろう! 提携米アクションネットワーク」だった。

 

米を通じての提携?

 

-要するに、生産者と消費者を直接結びつけることで、

具体的に田んぼを守る。

ありていに言えば'お米の産直運動'である。

(あえて'提携'という言葉を使うのは、

'同じ思いで手をつなぐ仲間' のような意味をこめている。)

 

今では何てことないように思われるかもしれないが、

当時はまだ食糧管理(食管)制度というのがあって、

米は野菜のようにおおっぴらに直接取引することは困難な時代だった。

 

実際には、すでに制度外の流通(いわゆる自由米)は

当たり前のように存在していたのだが、

一方で法律もまだ残っていて、

国は自由米の存在など「承知していない」世界であり、

米は法的には統制された枠組みの中にあった。

 

生産量の調整も強権的に発動され、減反政策は常態化し、

田園は静かに荒れつつあった。

このままではダメなんじゃないか、

という不安は多くの人の心に淀んでいたはずだ。

そこに自由化の圧力である。

 

米が重大な局面にきている。

その共通認識が「提携米」運動を生んだ。

日本の米と田んぼを、生産者と消費者の力で守ろう!

 

-この呼びかけに応えてくれた生産者(団体)と消費者(団体)を

具体的につないでいく作業が始まったのだが、

この運動に対する圧力や締め付けもかなり強烈なものだった。

 

呼びかけ人に名を連ねたばかりに、地域の役職を剥奪された生産者が出た。

'ヤミ米産直'などと時代がかった報道で指弾された消費者団体もあった。

 

しかし生産や流通を統制するだけの食管制度と減反政策の継続からは、

日本の水田が守れる展望は、とても見出せなかった。

農協などには「食管があるから自給が維持できる」

という強固な主張があったが、

僕には'裸の王様'にしか見えなかった。

実際に国は食管制度の有無にかかわらず自給を放棄しつつあったのだから。

 

生産者と消費者の力で食と農業を守る。

 

これぞ民主主義である、という自負をもって取り組んだもんだった。

不思議なことに、農家には様々な嫌がらせがあるのに、

大地(私)には抗議の電話一本入らなかった。

密かに待ってたんだけどね。

 

このネットワークでつながった'作る人'と'食べる人'の輪は、

生産者約50名、消費者団体20-約10万人(当時)。

わずか、と言われればそれまでだが、

当時の僕らの力では'確信'を持つに充分な数字だった。

大地に提携してくれた生産者は、

今でも大地のなかで存在感を示してくれている。

 

秋田・大潟村の「ライスロッヂ大潟」

-上流にブナの森を育てている。

 

山形・庄内地方の生産者で組織されている「庄内協同ファーム」

-冬みず田んぼや生き物調査で活躍中だ。

 

高知の「高知県生産者連合(高生連)」

-先陣を切ってくれたのは窪川町の島岡幹夫さんだった。

原発計画を白紙撤回させ、原発推進派も仲間に引きずり込んで

'有機農業で町おこしや!'とやってくれた。

今ではたくさんの生産者から、いろんな農産物をいただいている。

 

新潟・加茂の「加茂有機米生産組合」

-「減反政策は憲法違反である!」と、国を相手に生存権をかけて

裁判で争ったときの団長・石附鉄太郎さんは亡くなられたが、

後継者たちが元気で仲間を増やしている。

 

そして提携米の呼びかけ人になったがために散々な苦労に遭った

山形・白鷹の加藤秀一さんは、新たに結成した「しらたかノラの会」で、

美味しい農産加工品を供給してくれている。

 

礼儀正しくて頼もしい若者たちが、加藤さんを慕って一緒に働いている。

 

 

この写真は、

 

昨年3月に滋賀で開催された「農を変えたい!全国集会」でのひとコマ。

左から大地・長谷川満、ライスロッヂ大潟・黒瀬正さん、

提携米事務局・牧下圭貴さん、

庄内協同ファーム・志藤正一さんと菅原孝明さんの面々。

 

結成から20余年。

国の政策も色合いを変えてきてはいるが、減反政策は今でも続いている。

いやむしろ強化されてしまった。

 

そして、耕作放棄地は増える一方だ。

 

課題は今も深く横たわっているけど、'人の輪'という財産もいっぱいできた。

ここいらでスッキリと次のステージに向かって衣替えしよう。

 

そんなわけで、「提携米ネットワーク」はこの春から、

「提携米研究会」と名を変えて新たな体制に引き継がれることになった。

 

でも、僕にお暇がいただけるわけではない。

6年前、僕は鉄太郎さんの遺影に向かって、約束をしてしまったのだ。

 

 ― あなたが持って走った、そのタスキの一片、頂くことをお許しください。

 

e08012602.jpg

 

壮健だった頃の石附鉄太郎さん(右前)。左は息子の健一さん夫妻。

 

癌で亡くなる直前まで、食べものが喉を通らなくなっても、

アジアの農民への技術指導に出かけた日本人がいた。

 

穏やかな笑顔の奥に、鉄の意志を秘めた原告団長のタスキからは......

 

「まだ終わってないですよ、エビちゃん」

 

「走らなくていいから。ただ、たゆまず歩きましょ」

 

― そんな声が聞こえてくるのだ。

 



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