エビ版「おコメ大百科」: 2008年11月アーカイブ

2008年11月29日

お正月飾りと、減反裁判

 

今年も間もなくせわしない師走に突入しようかという、11月29日。

ひと足お先に、新年を新しい気持ちで迎える準備に入ります。 

しめ縄に、思い思いのお正月飾り付けをしましょう。

そんな 『 新しい一年を迎えるために ~お正月飾りを作ろう~ 』

という楽しい会が開かれました。

 

主催は、大地を守る会の消費者会員さんたちが自主的に運営する 「だいちサークル」

のひとつである 「手作りサークル・くりくり」 と 「割烹着の会」 の共催。

なんでそんな会にむさくるしい男が・・・・と思うでしょうか。

ポイントはこれ。 提携米研究会で販売するしめ縄、です。

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今日は、このしめ縄を土台にして飾り付けします。

加えて、このしめ縄には物語がある!のです。 というわけで呼ばれたのでした。

 

場所は、墨田区立花、旧中川 (今は荒川の支流になった古い川) 沿いの

 「立花大正民家園 」-旧小山家住宅 。

大正時代に建てられ、震災や戦争にも耐えて当時の住居構造や風情を残してくれた

貴重な都心の民家 (小山家) を区が買い取って、一般公開している。

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その奥座敷を借りて、和気藹々とお正月飾りを楽しむ一席が設けられたのです。 

 


こんな風情です。 

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住居はけっして豪奢にはせず、

庭にその  " 粋 "  を感じさせる。

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調度品も余計なものは置かず、シンプルさの中に暮らしの堅牢さを求める

古きよき時代の美学が、そこはかとなく漂っている。

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僕の四国の実家も未だに古い家 (昭和初期ですが) で、こんな間取りだなぁ。

屋根裏で青大将と鼠が争っていたりする環境がイヤで、

若い頃はモダンな住宅や都会に憧れていたものだ。

でも、なんだろう、このゆったりとした懐かしさは・・・・・

 

正月飾りの指導をしてくれた遠藤さん (下の写真、左端) は、

私の記憶が確かならば、大地の共同購入発祥の時代からの人のように思う。

(恥ずかしくて聞けなかった・・・)

 

その遠藤さんが、みんなが静かに飾り付けにいそしんでいる時、

ガラス戸が風に揺れてカタカタと音を立てたのに視線をやって、呟いた。

「ああ、懐かしいわねぇ。 昔はこんなふうに、風で戸が揺れたのよね」

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............で、僕も気恥ずかしさを忘れて、正月飾りに参加する。

 

これは割烹着の会代表のYさんの作品。 優しさというか、気品を感じさせます。

大地を守る会総会でもこんな感じでお願いしたいものだけど・・・

スミマセン! 「甘ったれるんじゃないわよ」 ですね。

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私も不器用な指を駆使してやってみましたが・・・まあまあ、かしら。

エビ家の注連飾りの完成です! ★ ○つ!

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さて、注連飾りの完成後に、

このしめ縄の物語というか、背景を少し話をさせていただいたのです。

 

品種は 「みとらず」 と言います。 しめ飾り専用の古代米(赤米) です。

実を取らない、つまり青刈りして、ていねいに天日で干して、

きれいな緑色の乾燥ワラに仕上げます。

今でも関東の神社では、このイネを育てているところが残ってます。

生産者は、筑波山の麓・茨城県八郷町の高倉弘文さん。 元宮司さんです。

僕ら ( 当時の「提携米ネットワーク」 ) が、1994年、

あの米の大冷害と米パニックと呼ばれた騒動 (1993年) のあと、

減反政策は国民の生存権を奪う憲法違反の政策だと、

1000人を超す原告団を結成して農水省を訴えて裁判闘争に打って出た時、

その資金集めに協力してくれたのが、このしめ縄だったのです。

「これで裁判費用をつくりなさい」 -そんな宮司さんがいたのです。

編む人の手が荒れてはいけないと、無農薬で育ててくれています。

一個々々、手で編まれたしめ縄です・・・・・

 

あの裁判闘争を思い出して、一瞬、泣きそうになってしまった。

原告団は、毎回の裁判で色んな視点から減反政策の誤りや愚かさを訴える

意見陳述を展開する手法をとった。

僕は95年4月の第2回公判で、環境の側面から訴えた。

僕の人生で裁判所で喋ったのはあの時だけだ。

緊張ではなく、自制できない昂ぶりを覚えて、声も体も震えが止まらなくなった。

「未来の子どもたちの生存権がかかっているのだ!」 と叫んだことを覚えている。

原告団長の石附鉄太郎さんは、もういない・・・・・

 

懐かしい・・・なんて言ってはいけない。

減反政策は、今も続いている。 

それどころか、今の農水省の文書には、はっきりと

 「生産調整(減反) に協力しないと補助金が下りない (ことがあり得る)

と明記されているのである。

あの裁判の時は、

「生産調整は農家の自主的な判断によっている (強制はしていない) 」

と強弁していたのを僕は忘れてはいない。

食糧危機の時代に、こんな政策が今もまかり通っているのである。

 

久しぶりに対面したしめ縄は、まだその力を失っていなかった。

正月に、いい加減に飾り付けてしまったしめ縄を眺め、

僕は 、「たたかいは終わってないぞ」 と叱られるのだ。 きっと。

 

これは罠だ、今日の出来事は・・・・・とか思いながら、

自分の作品を抱えて古民家をあとにしたのだった。

 



2008年11月19日

トキの舞う田んぼ

 

佐渡から柿 (平核無柿) を頂いている生産者会員、井川浩一さんは米も作っている。

不耕起栽培に挑戦するなど、生き物の豊かな田んぼづくりを目指してきた。

仲間と一緒につくったグループの名は 「佐渡トキの田んぼを守る会」 という。

 

今年の9月25日、トキの野生復帰を願って10羽のトキが放鳥されたことは、

多くの新聞報道などでご存知の方も多いかと思う。

遡れば2003年10月10日、日本生まれの最後のトキ-「キン」が亡くなって、

国の特別天然記念物 「Nipponia nippon」 の日本トキは絶滅したのだったが、

その後は中国から贈られた同種のトキを人工繁殖させ、増やしてきた。

そしていよいよ自然に放す段階へと至ったのだけれど、

それはトキをトレーニングすればすむことではなく、とても厄介な問題があった。

トキの生活を支えるだけの餌 (場) 、フィールドと生態系の再生が必要だったのだ。

トキと一緒に暮らしていた世界を取り戻す作業が-

 

井川さんたちは、それに挑んだのだ。

耕作が放棄されて荒れた棚田を復元し、平場では冬季湛水 (冬にも水を張る)

によって生物相を豊かにさせる。 そして何よりも、農薬を減らす。

「佐渡トキの田んぼを守る会」 の結成は2001年。

新穂村 (現・佐渡市) の呼びかけに応えた7名の農民によって始まった。

村が呼びかけるまでには、環境保護団体やNPO、そして環境省の

地道な活動と働きかけがあったことを、僕も多少は知っている。

 

守る会会長の斉藤真一郎さんからお借りした写真をいくつか掲載したい。

まずは会のメンバーの笑顔から。

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真ん中が井川浩一さん。 その右隣、爽やか系の方が斉藤真一郎さん。

佐渡の産地担当・小島潤子の報告書には、

会長曰く-「8000人の中から7人の侍が手を上げた」 とある。

 


9月25日のトキ放鳥記念式典の、記念すべき一瞬の様子もお借りした。

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秋篠宮殿下ですね。

 

田んぼの畦塗り作業。

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- というより、江をつくっている作業か。 今ふうに言うと 「ビオトープ」?

 

米ヌカを撒いている。 代かき後、田植え前に撒くのか・・・今度教えてもらおう。 

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そして田植え。

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大勢でやってますね。

支援団体は、NPO法人 「メダカの学校」 だと聞いている。

 

「田んぼの生き物調査」 風景もある。

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無農薬の田んぼの力を実感できる、これは 「科学的手法」 なのだ。

虫がいない田んぼは、害虫が増えやすい田んぼであることを知ることにもなる。

 

そして、ここでこんな報告をしているのもワケがあって、

実は今年産から、彼らのつくった米を販売する形で応援できる運びになったのである。

この話は僕自身にとっても、けっこう感慨深いものがあって、

僕は6年前 (2002年)、佐渡での生産者の集まりに呼ばれたことがあったんだよね。

 

場所は長安寺というお寺。 車座の座談会だった。

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これから本格的にトキの棲める田んぼを広げていこうかという状況の中で、

「そんな (無農薬とか) 危険なことして、それで米は売れるんかい?」

 という村人たちの疑問が噴出していたようで、

仕掛け人の一人でもある 「里地ネットワーク」 という団体から呼ばれて

呑気に出向いたのだった。

 

島の中で不耕起栽培とか合鴨農法とか減農薬とかに取り組んでいる生産者を集めて、

それは可能であること、そして売れるんだということを伝えたかったんだろう。

僕はその 「売れる」 というメッセージの発信を託されたわけだ。

しかし何故か、どうも腑に落ちない感じがしていて、つい生意気なことを喋ったのだった。

あの当時、葛飾柴又にフーテンの寅さんの銅像が建つという話題があって、

それがシャクに障っていたこともあって、こんな話をしてしまったのだ。

 東京では、柴又駅に寅さんの銅像が建つと騒いでいます。

 しかし、俳優の渥美清さんは亡くなったけど、寅さんはいつ死んだんでしょう。

 柴又の人たちが寅さんを愛しているのなら、寅さんを死なせてはいけない。

 寅さんをいつでも迎えられるよう、街並みや人情を残すことではないでしょうか。

 墓標なんかつくらないで、帰りを待つことが寅さんと一緒に生きることだと思う。

 皆さんが、トキを観光や商売の道具に使いたいのなら、私は関心ありません。

 皆さんは、かつて害鳥とも言われたトキと、本当に共存したいんですか?

 

あの時、

「俺は本当にトキが飛んでいた佐渡を取り戻したいと思っている」 と語った一人が

斉藤真一郎さんだったように記憶している。

 

里地ネットワークの事務局長、竹田純一さんに案内されて回った棚田。

こんな感じだった。

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棚田を復元するのは手間のかかる仕事だ。

これでいくらになるのか、と誰だって思うことだろう。 本気でないとできないよ。

 

放鳥を待つトキたちがいた。

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あの当時は、なんでこうまでして.........と感じたものだが、

トキという存在が島を動かしたのなら、この鳥は現代の 「青い鳥」 かも知れない。

 

美しい棚田、そこで人の脇に佇む、あるいは里山の空を舞うトキの姿が、

彼らの心からの誇りになれば、嬉しい。

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そういえば、渥美清さんは俳人でもあった。

俳号は 「風天」(フーテン) である。

 

  案山子(かかし) ふるえて風吹きぬける

  赤とんぼじっとしたまま明日どうする

 

風天の句では、こんなのも残されている。

 

  夢で会うふるさとの人みな若く

  蛍消え髪の匂いのなかに居る

  切干とあぶらげ煮て母じょうぶ

 

  名月に雨戸とざして凶作の村

  ポトリと言ったような気する毛虫かな

 

  お遍路が一列に行く虹の中

 

                    ( 『風天 -渥美清のうた』/森英介著・大空出版刊  より )

 



2008年11月16日

全国 「たんぼの学校」フォーラム in ちば

千葉県は南房総の内房側の下の方、

館山の北に位置する富浦という町 (現・南房総市) に行ってきた。

そこに館山湾と富浦湾を分ける岬 -大房 (たいぶさ) 岬がある。

 

江戸時代末期、黒船の来航に備えて要塞が築かれ、

その後は陸軍が首都・東京を防御するための基地として占拠した。

終戦まで一般人は立ち入り禁止とされ、それがかえって自然を残す結果ともなったようで、

現在は自然公園になっている。

軍事施設の跡地もいろいろと残っていて、貴重な歴史遺産の地でもある。

 

その一角にある 「大房岬少年自然の家」 。

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ここで15日から一泊二日で

『全国 「たんぼの学校」 フォーラム in ちば』 なる催しが開かれた。 

 


主催は、社団法人 農村環境整備センター。

10年前に 「田んぼの学校」支援センターというのを設置して、

各地で実践される稲作体験や関連しての環境教育活動を支援している。

現在センターには100を超えるグループが登録されている。

そこで7年前より、グループ同士で交流し情報交換を行なうフォーラムが

開催されるようになった。

発案者の山口県からスタートして、茨城、宮城、広島、栃木、福岡と続いて、

今年は千葉県での開催となったものだ。

ついては、県内で活動しているグループのひとつとして、

大地を守る会の稲作体験の活動報告をしろ、とのお声が掛かったのである。

 

実は我が「稲作体験」を実施してきた母体である専門委員会 「米プロジェクト21」 も、

支援センター開設当初から登録はしてあったのだけれど、

地域をベースに学校や自治体と組んで活動するグループが主体という印象があって、

フォーラム等のイベントにはあまり積極的には参加していなかった。

どちらかというと有益な情報収集を期待しての登録だった。

 

俺たちが呼ばれていいのかな、という戸惑いも正直あったのだが、

こちらの活動も、田んぼの生き物調査や夜の自然観察会(蛍見会) など

年々深まってきてはいるし、今年は特に 「有機農業推進法」 のモデル地区となって、

体験田も生産者と消費者の交流モデル事業として、また有機稲作の実証ほ場として

指定を受けたりもしてきているので、少しは報告させてもらってもいいかな、

という気分で参加させていただいた次第である。

 

参加者は全国各地から40名ほど。

発表者は、千葉県内から4グループ。

そして青森から山口まで、10年以上の歴史を重ねてきた団体が8グループ。

地元で様々な環境活動を展開するNPOあり、あるいは大学や小学校あり、

山村の集落全体で取り組んでいる活動あり、なかなか多彩な顔ぶれだった。

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県の機関と学校・NPOが連携して農業体験学習やホタル保全活動に取り組む事例、

地域の自然と文化を守る活動から都市住民に体験学習をプログラムしている事例、

元小学校の校長先生が始めた「農業小学校」、

大学の先生と学生が中心になって地域の学校や住民と交流を深めている事例、などなど。

県全域を対象にメダカ保全活動に取り組んでいたら、今ではドジョウがメインになってきた、

なんて楽しい報告もあった。

子供たちがたくさんの 「いのち」 に触れ、何かを学びとる。

そんな貴重なフィールドとして田んぼを愛し、活かそうとする人たちのネットワークが、

こんなふうに広がり、つくられてきている。

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「地域の人や子供らが楽しんだり喜んでくれるのが嬉しい」 と語る人たち。

みんなボランティアである。 

初めての参加で、「メジャーな団体」 なんて紹介されて、とても恥ずかしかった。

 

朝、公園内を散歩する。

展望台から浦賀水道を眺望。

霞んで水平線に見えるあたりに三浦半島がある。

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首都防衛という重大な任務を背負わされた歴史の残影を静かに残す岬。

この展望台に、その昔、でっかい大砲が鎮座していたのだ。

 

こんな地下壕も残っている。

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奥に進むと、天井がなく、ぽっかりと空が見える空間にぶつかる。

エレベーターまで装備された地下要塞だったことが窺える。

コンクリも当時の最高品質のものだと解説があった。

岬内には発電所まであったそうで、海岸には魚雷艇の発射場も残っている。

一見自然のままに見える岬が、

ひと皮剥けば国家の最高機密に属する砦だったわけだ。

想像力が刺激される。

 

今は健全な青少年が利用する自然公園。 バナナ発見。

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全国の 「田んぼの学校」 指導者たちと、互いの経験を語り合い、情報交換し、

刺激を与え合った二日間。。。

「大地を守る会の稲作体験」 は来年、20周年を迎える。

最近 「しんどい」 をキャッチフレーズとする誰かさんは、

今回同行してイメージをさらに膨らませてしまった若いスタッフから、

だいぶ煽られることになるような、そんな予感に早くも震えたのだった。 

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