提携米・減反問題の最近のブログ記事

2009年9月 9日

減反問題を考える

 

" 1週間の夏休みを頂戴し- " というと、まあ日本のサラリーマンとしては、

いちおうはちゃんと取れた、ということになるのだろうか。

しかしその間も業務自体は動いているわけで、中間管理者にとっては、

会社に戻ればいきなり " 地獄が待っていた " 状態に突入ってことになる。

溜まった書類に宿題の数々、そして果てしなく続く未処理メール・・・・・

これが嫌だから、休み中もこまめに会社に電話したり、

携帯やパソコンでメールをチェックしたりするわけなんだけど、

これって、はたして休暇をもらったことになるんだろうか。

と、そんな疑問を抱くこと自体、せんないというか、中間管理職には禁物である。

働き蜂は立ち止まってはならない。

 

9月に入って、がむしゃらに遅れ (??) を取り戻しておりました。

それでも1週間も間隔が開くと、「元気?」 といったメールも入ってきたりして、

そろそろ何か書かなきゃ・・・・・

 

というわけで、気を取り直して-

話は前後するが、ひと足遅れの夏休みに入った8月22日(土)、

ひとつの勉強会を開いたので報告しておきたい。 -という感じで本題に。

 

テーマは、米の減反政策について。 

講師は提携米研究会事務局長、牧下圭貴さん。 参加者28名。

残暑の陽射し厳しい中、それにも増して暑苦しいテーマにもかかわらず

お集まりいただいた方々には、深く感謝申し上げます。

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農水大臣が減反政策の見直しを語って農業界 (?) に議論が巻き起こり、

政党がこぞって農業政策をマニュフェストで競っている時も時。

牧下さんも、今回の講演依頼は、このタイミングでこのテーマを整理する

いい機会になったと言ってくれる。

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おかげで話は、単なる政策の解説にとどまらず、いわゆる全面展開。

合いの手入れる暇もなく、1時間半の予定が2時間半におよんだ。

「すっかり時間をオーバーしちゃいましたが、僕は満足です」

ときたもんだ。

 

話は世界の食料事情から説き起こされた。

世界では今、69億人のうち10億人が栄養不足に苦しんでいる。

2007年秋の穀物の不作の時、輸出国はこぞって輸出を規制した。

当たり前のことながら、いざという時にはどこも自国内の供給を優先させる。

特に米は自給的性格が強い作物で (生産量の割には貿易に流れる割合が少ない)、

輸出国の不作は、一気に国際価格の高騰を招く。

そこで金にあかせて確保すれば、さらに貧しい国には行き渡らなくなってしまう。

自らは生産量を調整しながら " 食料を奪う " -それでいいのか。

 

一方で、日本の自給率は40% (カロリーベース) である。

歴史的推移をみると、米の消費量が減って、肉と油の摂取量が増加するとともに、

自給率は減少してきた。

これは食生活のスタイルの変化とともに自給率が落ちてきた、ということでもある。

戦後の米の増産運動から、1970年を境に一転して米の生産調整 (減反政策) が

始まり、それが40年にわたって今なお継続してきた背景が、ここにある。

 

生産調整は、作付面積の調整 (米を作る田んぼの面積を減らす=減反)

によって行なわれてきた。

しかも法律的根拠を持たないものであったにもかかわらず、

地域におりる補助金などと絡めて強制力を持たせて実施されてきた。

協力しない農家は村八分的な扱いを受け、また一方で農家は、

農薬と化学肥料によって単位面積当たりの収穫量を上げることに汗を流した。

「米の過剰で価格が暴落するのを防ぎ、農家経営を維持させる」

という目的は達せられず、米価は下がり続け、後継者は育たず、若者たちは離れていった。

耕作を放棄された田んぼが増え、今や農家の平均年齢は65歳に至っている。

あと10年すればどうなるか・・・・・。

 

そんな状況下にあって、

昨年より生産調整は面積でなく生産量でカウントされるようになり、

また法的根拠まで作られてしまった。。。なんでやねん! -政治である。

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世界の食料需給は、人口増加と耕地面積の減少、異常気象の激化

などなどと相まって、かなり危険な様相を見せてきている中で、

未来を失いかねない政策に、いつまでも税金を使っていてよいのか。

「農家を守るため」 と言いながら税金が投入され続けてきたが、

米価は維持されず、農家はいなくなっているではないか。

 

とはいっても、でもって本当に減反政策をやめたら・・・・

みんなこぞって米を作り、米価は一気に下がり、結果的に農家は壊滅するのではないか。

そういう前提で政策維持の必要性を訴える農民団体もあるが、

農水省がはじき出したシミュレーションは、実は少し様相が異なっている。

一気に下がった後に、徐々に戻る、である。

逆に生産調整を強化すれば・・・・米価は高めに維持されるが、

生産量は年々減ってゆく、というものだ。

つまり米の生産力 (自給力) は落ちてゆき、米は高値で推移する。

これは誰のためになる政策なのか。

 

ここで牧下氏のトーンが上がる。

「本当は、米や農業を守るのは  " 消費者のため "  のはずなんですよ。

 消費者こそ、食料を守ってもらわないと困るんです。

 そのために税金をどう使うか、を考えなければならないんです。」

 

私たちは今すぐにでも、生産者も消費者も一緒になって、

米なる食料をこれからどうするのか、本気こいて築き直さなければならない。

 

参加者からは選挙前らしい質問も飛び出したが、

牧下氏の答えは、「どっちにしろ、問われるのは私たちの意識です。」

 

ちなみに今回の講演は、決して独断や私見ではない、ということを伝えるべく、

すべて国 (農水省) から出されている資料やデータをもとに展開された。

参加者からは、「ますます分からなくなった」 という声も上がったけど、

それはおそらく、減反政策の本当の意図とか意味とか政治的背景とかを

もっと深く知りたくなった、からだと思う。

そのへんは生産者も交えて、本音で語る場が必要かもね。 考えましょう。

 

それから、「消費者がもっと米を食べなきゃいけない、っていうことでしょうか」

という素朴な疑問に対しては、いま出せる答えはこのようである。

 - ご飯中心の食生活を楽しみましょう。

 

僕はもう一つの答えを持っている。

 - 全国の田んぼを有機農業に転換させよう。

   1反歩 (10アール)-10俵 (600kg/玄米) 獲るために農薬を撒くのでなく、

   有機栽培にして7~8俵で安定させる。

       もう少しの消費の拡大と、しっかりした備蓄体制と、

   水田稲作の多面的な活用による自給力の強化

   (田んぼは家畜の餌だってエネルギーだって生み出せる社会資本である) と、

   そして有機農業への転換、それだけで生産調整はいらなくなるはずだ。

   水系を含めた自然環境や生物多様性の保全にもつながる。

   減反と増産意欲で帳尻の合わない世界を、安定と調和の世界へ。

もちろん理屈はもっと精緻に組み立てなければならないけれど、

大きくは間違ってないはずだ。

 

危険を恐れてじりじりと後退するか、未来像を描き直して前に進むか。

答えは、 前に! しかないだろう。

 



2009年4月 7日

「減反」 の呪縛

 

大地を守る会で発行している機関誌 『NEWS 大地を守る』 。

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その5月号の原稿を頼まれていたのだが、

締め切りを過ぎてもなかなか書けず、今日ようやく編集担当に送った次第。

自分でも意外なくらい、苦しんでしまった。

 

与えられた課題は、米。

大地を守る会で取り組んできた米や田んぼを守る活動を振り返りながら、

減反問題に対する見解を、1,500字で述べよ。

 

オレの20年を、1,500字でか! ざけんじゃねぇよ!

 

まあ最初は、今まであちこちで喋ったり書いてきたことをちょこっと整理すればいいくらいに

思っていたのだが、やはりブログで喋るのと、会の機関誌で語るのとでは、

意味合いが違ってくるよね。 しかも1面だというし。

主張のトーンをどうまとめるか、このあたりの塩梅というか、

判断に迷いが生じて、締め切りを過ぎたあたりから眠れなくなったりしたのだった。 

これが 「減反政策」 の呪縛ってやつか、なんて思ったりしながら。


思い返せば、1986年の秋、

藤田会長から 「ちょっと寄ってきてほしいところがある」 と言われて、

共同購入の配達の帰り道、当時、中目黒にあった日本消費者連盟という団体の

事務所に、汚い2トン・トラックで乗り入れたのが始まりだった。

いくつかの団体のお歴々が集まっていて、

これからアメリカの米の輸入圧力に対抗して、

生産者と消費者が一緒になって日本の米を守る運動を始めるのだ、という。

「当然、大地も参加するよね」-「え? あ、ハイ」。

その夜の会議からまもなく発足した団体の名が、「米の輸入に反対する連絡会議」。

以来、米にのめりこんでいく羽目になった。

 

僕らの運動の基本スタンスは、「反対」 より 「提案」 である。

農薬散布をただ批判するんじゃなくて、 「無農薬の野菜をつくり・運び・食べる」。

有機農業を提案し、その野菜を運ぶこと自体が 「運動」 だった。

米の輸入反対運動は、必然的に生産と消費を直接つなぐ 「提携米」 運動を生んで、

大地を守る会もその一翼を担うようになる。

しかしそれは同時に食管制度と 「減反政策」 という問題に否応なく関与することでもあった。

 

「提携米運動」 は減反問題との関わりなしに語れない。

減反問題を語るなら、ただ批判するだけでなく、やっぱり、

その政策を下支えしている理屈について、触れないわけにはいかないだろう。

このブログでは、やれ 「マーケティングのない政策」 だの、

「裸の王様のような理屈だ」 とか、言いたい放題言ってきたが、

そんな調子で会の機関誌の一面を汚していいわけでもないし、

現実には、多くの生産者が、地域や農業経営との関係で、

そう好き勝手できない状態であることも承知しているつもりだ。

結局、こんな2行を挿ませていただいた。

 

「減反をやめれば米が過剰になり、価格が暴落して生産者がやってゆけなくなる」

と言われますが、これは 「無策」 を表現しているに過ぎません。

 

本音を言えば、今の僕の腹の中は、モーレツに農協批判をしたい欲求に駆られている。

農民のためでなく、組織を守るために、彼らは 「減反維持」 に固執していないか。

しかも創意工夫できそうなコスト削減まで、つまり農民の創造性を阻んでいる。

いろいろ考えても、そうとしか思えないのだ。

 

結局は、まったく中途半端な文章になってしまったのだが、

問題は字数ではなく、「ではどうするか」 について、

僕の中で、まだ整理し切れてなかった部分が残っていたことなのだ。

「提案型運動」を標榜してきたくせに。

 

本当に全面展開できるようになるために、もうひとつ思考が必要だ。

大きな一枚岩が立ちはだかっているようでいて、

靄 (もや) の先は目の前にあるような・・・・・

これこそが減反問題の嫌らしさのような気がしている。

 



2009年3月13日

減反は、やっぱり哀しい

 

昨日(3/12) の夜、千葉・幕張の本社で、

秋田・大潟村の米生産者、黒瀬正さん (ライスロッヂ大潟代表) を招いての

社内勉強会を開催した。

前日の提携米研究会の会議のために上京した機会に、

大地の若手社員向けにお話し願えないかと打診して、実現したものだ。

テーマは、お米の減反問題。

 

じつは昨年の12月に同じテーマで勉強会を開いていて、

僕が減反政策の歴史や問題点などを解説したのだが、

やはりこの問題はひと筋縄ではいかない。 

薄っぺらな説明だけでは若者たちの疑問はさらに膨らんだようで、

もっと理解を深めたい、との希望が出されていた。

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例によって勤務終了後の勉強会だが、40名近くの職員が集まってくれた。

黒瀬さんからも、「大地にはこの文化がまだ残っとる。 ええことや」 と褒めていただく。

日本第二の湖だった八郎潟を干拓して出来た大潟村に入植して30数年。

滋賀県出身の黒瀬さんは今も変わらず関西弁である。

 

減反政策の問題点を、生産者の立場から分かりやすく、とお願いしてあったのだが、

黒瀬さんにはやはり、これは自身の  " たたかいの歴史 "  であって、

評論家の解説のようにはいかないのだった。


戦後、日本は食料難を乗り越えるために必死で増産に励んだ。

米の自給率100%を達成したのは、1966(昭和41) 年のことである。

しかし折りしも続いた数年連続の豊作で、米の在庫はあっという間に増大した。

戦時中につくられたままの 「食糧管理法」 の下で、

米は国が全量買い取るかたちになっていたから、

その在庫管理のために国庫負担が1兆円にも膨らんだ。

1969年、一時的な処置と称して、生産調整が始まる。

本格的に始まったのは1971年から。

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それまで、ひと粒でも多く作ることを誇りにしていた農民にとっては、

突然の 「つくるな」 という指示は、とても耐えられないものだったようだ。

それでも黒瀬さんは、いきなり反対したわけではない。

お国は一時的な措置だと言っているわけだ。

「余ってしゃあないゆうから、我慢しようか、て思ってたのよ。」 

しかし、問題はさらなる矛盾へと進んでしまった。

「地域の指導者たちは言うのよ。 一割減反した分、二割増産しましょう、て。」

減反は実行されても、生産調整の目標は新たな歪みを生んだわけだ。

単位面積あたりの収穫量を上げたのは、農薬と化学肥料である。

 

減反政策、国の言う 「生産調整」 は、うまくいかなかった。

黒瀬さんを、減反反対の闘士にしたのは、1977年である。

それまで 「一時的な避難措置」 と説明されていた生産調整が、

いよいよ恒常的な政策になり、

しかも実効性を上げるために、「ブロックごとの達成」 という論理、

つまり地域で達成できなければ、その地域に補助金が下りない、

という手法が持ち込まれたのだ。

「まるで江戸時代の五人組制度の復活でした。

 昔の五人組制度も地域を維持するためによくはたらいた面もあったかと思いますが、

 それがこういう、百姓同士が手を縛り合い、いがみ合い、個人の自主性を押える力として

 復活したんです。」

 

それからの黒瀬さんのたたかいの様は生々し過ぎて、ここでは再現できない。

それはけっして、こっそりと 「闇米」 とかで逃げることではなく、

法律の解釈からたたかいの手法まで、したたかに組み立てながら、真っ向から挑んだのだ。

黒瀬さんが主張した本意は、農民の自立と主体性を守ることであった。

 

1987年、米の輸入自由化反対運動の中で僕らは出会い、

提携米運動へと発展した。

 

裏では、黒瀬さんに対する揶揄を、ずいぶんと聞かされることになった。

減反を拒否して米を作付したことを  " 抜け駆け "  と言い、

俺たちが減反を守っているからアイツは米が売れるんだとか、

はては出身地にかこつけて 「アイツは近江商人だから」 -と。

こういう農民からの陰口を聞くたびに、この制度の陰湿さを僕は感じた。

これはゼッタイに健全な政策ではない。

 

じつは、先日レポートした2月28日の 「だいち交流会」調布会場での

米をめぐるセッションのテーブルごとでの交流の席で、

ある生産者が消費者に、このように説明したという話を、後日聞かされた。

「減反があるから、米の値段が維持されてきたんです。」

それを聞いた会員からの感想文が届いて、

「どう考えたらいいのか、さらに分からなくなりました」 とあった。

 

減反は連綿と実施されてきたが、米価は下がり続けてきた -と僕は説明する。

おそらくその生産者は、こう応えるのだろう。

「それでもみんなが勝手に作っていたら、もっと下がっている。」

これこそ、みんなで乗り越えなければならない理屈なのだが、

生産者には深く刷り込まれた原理となっていて、

僕らはまだこれを越えられていないのである。

この理屈を突破したい。

強制的な減反で価格が維持できるという考え方は、すでに時代錯誤だし、

そもそも民主的手続きになってない。

他に選択肢が思い浮かばないからという消極的支持で、

自身の、そして仲間の手を縛る政策からは、何ら未来は見えてこない。

そもそも、この政策にしがみついているのは、上記の生産者も含めて

農民の本音ではない、と僕は信じている。

後継者不足や耕作放棄地の増大を目の当たりにしているわけだし。

 

学生時代に (一部で)流行った言葉に、「コペルニクス的転回」 ってのがあった。

為政者も宗教家も、すべての人を敵に回した真実

  - 回っているのは太陽ではない、地球である。

 

リセットしてみないか、このカビの生えた論理を。

そして農業政策というものを一から再構築してみないか、みんなの手で。

キーワードは、持続可能性と生物多様性、そして自給だろう。

もちろん食の安全と環境との調和、資源の循環といった視点も

この中に包摂されているし、未来の世代の暮らしの安定につながっている。

しかも、すぐれて地球環境と経済への貢献策にもなるはずである。

ベースになるのは、有機農業であろう。

 

勉強会を終えて、若手社員の声は、

「もっといろんな生産者の話を聞いてみたい」 と、欲求はさらに強くなってしまった。

それはそれで受けてやらないといけないけど、 思うに、

ことほど左様に、生産と消費は分断されていたのである。

減反政策が長く続いたのは、その不幸の上にある。

 

消費者と本当につながろうとせず、

地域の協同性を喪わせた元凶に対して、「地域の存続」という名目でもって、

減反政策の維持を要求する、補助金の受け皿としての農民団体がある。

「農協」 という組織を、僕はどうしてもそのように見てしまうのである。

 しかも 「お上」 は、今もその上に立っている。

 



2008年11月29日

お正月飾りと、減反裁判

 

今年も間もなくせわしない師走に突入しようかという、11月29日。

ひと足お先に、新年を新しい気持ちで迎える準備に入ります。 

しめ縄に、思い思いのお正月飾り付けをしましょう。

そんな 『 新しい一年を迎えるために ~お正月飾りを作ろう~ 』

という楽しい会が開かれました。

 

主催は、大地を守る会の消費者会員さんたちが自主的に運営する 「だいちサークル」

のひとつである 「手作りサークル・くりくり」 と 「割烹着の会」 の共催。

なんでそんな会にむさくるしい男が・・・・と思うでしょうか。

ポイントはこれ。 提携米研究会で販売するしめ縄、です。

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今日は、このしめ縄を土台にして飾り付けします。

加えて、このしめ縄には物語がある!のです。 というわけで呼ばれたのでした。

 

場所は、墨田区立花、旧中川 (今は荒川の支流になった古い川) 沿いの

 「立花大正民家園 」-旧小山家住宅 。

大正時代に建てられ、震災や戦争にも耐えて当時の住居構造や風情を残してくれた

貴重な都心の民家 (小山家) を区が買い取って、一般公開している。

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その奥座敷を借りて、和気藹々とお正月飾りを楽しむ一席が設けられたのです。 

 


こんな風情です。 

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住居はけっして豪奢にはせず、

庭にその  " 粋 "  を感じさせる。

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調度品も余計なものは置かず、シンプルさの中に暮らしの堅牢さを求める

古きよき時代の美学が、そこはかとなく漂っている。

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僕の四国の実家も未だに古い家 (昭和初期ですが) で、こんな間取りだなぁ。

屋根裏で青大将と鼠が争っていたりする環境がイヤで、

若い頃はモダンな住宅や都会に憧れていたものだ。

でも、なんだろう、このゆったりとした懐かしさは・・・・・

 

正月飾りの指導をしてくれた遠藤さん (下の写真、左端) は、

私の記憶が確かならば、大地の共同購入発祥の時代からの人のように思う。

(恥ずかしくて聞けなかった・・・)

 

その遠藤さんが、みんなが静かに飾り付けにいそしんでいる時、

ガラス戸が風に揺れてカタカタと音を立てたのに視線をやって、呟いた。

「ああ、懐かしいわねぇ。 昔はこんなふうに、風で戸が揺れたのよね」

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............で、僕も気恥ずかしさを忘れて、正月飾りに参加する。

 

これは割烹着の会代表のYさんの作品。 優しさというか、気品を感じさせます。

大地を守る会総会でもこんな感じでお願いしたいものだけど・・・

スミマセン! 「甘ったれるんじゃないわよ」 ですね。

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私も不器用な指を駆使してやってみましたが・・・まあまあ、かしら。

エビ家の注連飾りの完成です! ★ ○つ!

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さて、注連飾りの完成後に、

このしめ縄の物語というか、背景を少し話をさせていただいたのです。

 

品種は 「みとらず」 と言います。 しめ飾り専用の古代米(赤米) です。

実を取らない、つまり青刈りして、ていねいに天日で干して、

きれいな緑色の乾燥ワラに仕上げます。

今でも関東の神社では、このイネを育てているところが残ってます。

生産者は、筑波山の麓・茨城県八郷町の高倉弘文さん。 元宮司さんです。

僕ら ( 当時の「提携米ネットワーク」 ) が、1994年、

あの米の大冷害と米パニックと呼ばれた騒動 (1993年) のあと、

減反政策は国民の生存権を奪う憲法違反の政策だと、

1000人を超す原告団を結成して農水省を訴えて裁判闘争に打って出た時、

その資金集めに協力してくれたのが、このしめ縄だったのです。

「これで裁判費用をつくりなさい」 -そんな宮司さんがいたのです。

編む人の手が荒れてはいけないと、無農薬で育ててくれています。

一個々々、手で編まれたしめ縄です・・・・・

 

あの裁判闘争を思い出して、一瞬、泣きそうになってしまった。

原告団は、毎回の裁判で色んな視点から減反政策の誤りや愚かさを訴える

意見陳述を展開する手法をとった。

僕は95年4月の第2回公判で、環境の側面から訴えた。

僕の人生で裁判所で喋ったのはあの時だけだ。

緊張ではなく、自制できない昂ぶりを覚えて、声も体も震えが止まらなくなった。

「未来の子どもたちの生存権がかかっているのだ!」 と叫んだことを覚えている。

原告団長の石附鉄太郎さんは、もういない・・・・・

 

懐かしい・・・なんて言ってはいけない。

減反政策は、今も続いている。 

それどころか、今の農水省の文書には、はっきりと

 「生産調整(減反) に協力しないと補助金が下りない (ことがあり得る)

と明記されているのである。

あの裁判の時は、

「生産調整は農家の自主的な判断によっている (強制はしていない) 」

と強弁していたのを僕は忘れてはいない。

食糧危機の時代に、こんな政策が今もまかり通っているのである。

 

久しぶりに対面したしめ縄は、まだその力を失っていなかった。

正月に、いい加減に飾り付けてしまったしめ縄を眺め、

僕は 、「たたかいは終わってないぞ」 と叱られるのだ。 きっと。

 

これは罠だ、今日の出来事は・・・・・とか思いながら、

自分の作品を抱えて古民家をあとにしたのだった。

 



2008年7月 5日

減反への怒り収まらず...

 

7月4日 (金) 。

米の生産者会議を終えて、残ってくれた生産者ら20数名と一緒に

佐原から高速バスに乗り込み、我々一行は霞ヶ関・参議院議員会館へと向かった。

用意されていたのは、減反政策についての意見交換会。

 

世界的に食糧が高騰し、米の国際需給も逼迫する中で、

日本では減反政策がさらに強化されている。

地域も、農民も、田んぼの生き物たちも、息苦しい圧力に押さえつけられている。

みんなの本音を国会議員にぶつけてみようじゃないか、という集まりだ。

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議員会館を用意してくれたのは、民主党のツルネン・マルティさん。

有機農業推進法の成立に尽力された超党派の議員連盟の事務局長でもある。


冒頭で挨拶するツルネン議員。

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「民主党も減反政策には反対しています。 しかし米の政策をどう進めるかは、

 まだまだ意見の分かれるところもあり、皆さんの意見も充分にうかがって、

 今後の政策づくりに活かしていきたいです」

ツルネンさんは最後まで残って、みんなの声を聞いてくれた。

 

まずは、秋田県大潟村 「ライスロッヂ大潟」 代表の黒瀬正さんが、

減反政策 (生産調整) の歴史や問題点を整理して語る。

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1969年、当初は米余り対策のための緊急措置として始まった 「生産調整」 という名の

減反政策が、恒常化する中で農民団体の態度も変化し、

絶対反対!を唱えていた人々が、いつの間にか周囲を監視し、減反を守らない農民を

糾弾する組織へと変わっていった。 お前が作るから米価が下がるのだ、と。

その生産調整を達成するために、莫大な補助金 (税金) が投入された。

しかもそのお金は自治体や地域単位に落とされたために、

集落の中に反目が起こり、相互監視、相互不信の状況が生まれていった。

地域共同体を崩壊させ、米を作ることを誇りとして生きてきた農民の主体性が否定された。

これこそが減反政策の最大の罪である。

 

さらに今日、原油や国際穀物相場の高騰に加え、穀物在庫率が減少するなかで、

米の (価格維持のための) 「緊急対策」 と称して、

生産調整未達成農家へのペナルティが堂々と政策として打ち出されてきている。

 

黒瀬さんの口調は段々と熱を帯び、司会者に 「時間がきたら止めてくれ」 と頼みながら、

喋るほどに怒りが増してくるようであった。

 

続いて戎谷から、米緊急対策の問題点を、いわゆる 「ペナルティ条項」 を中心に

解説・補足するとともに、流通および消費の観点から問題提起させていただいた。

 

こんな時代になってもなお、地域の共同性を利用して、みんなで手を縛りあう制度が

まかり通っている。 しかも地域によっては4割減反とかいう数字である。

経営に対する主体性が発揮できない。

水田の持っていた多面的機能が減退する。

共同体機能を使っているようで、実は破壊している。 人心を貧しくさせている。

民主主義の政策とは到底言えない。 これは変異の恐怖政治 (ファシズム) ではないか。

私の怒りも収まらなくなってきた。

 

そもそも40年にならんとする減反政策で、米価が守れたのか?

-答えはノーである。

 

流通の立場から言えば、すでに国内の米の在庫も極めてタイトになってきているのを、

どうも国は正確に把握できてないフシがある。

 

今年も各地で気候変動の影響が垣間見える。

今この国は、93年の米パニック前夜の兆候すら見せている。

そんな中で、農民の手をさらにきつく縛っているのだ。 

 

思いっきり、言ってみる。

-減反政策には、マーケティングがない!

  にも拘らず莫大な税金が使われている。

  流通・消費の立場からみても、断固として許しがたい愚策である。

 

政府は米の消費拡大キャンペーンにも力を注いでいると言っている。

曰く- 「食育の一環として、朝食欠食の改善を目指した 『めざましごはんキャンペーン』 を

      はじめ、米の消費拡大のための国民運動を効果的に進める」

下の写真が、それである。

6月18日、仕事中の移動で乗ったJRの電車で、中吊り広告を発見した。

見渡せば、車両まるごと買い取っている。

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しかも幾種類ものバージョンで制作されている。

  朝食を抜くと集中力が低下!

  ニッポンの朝に元気をとりもどそう。

  お父さん、家族そろって夕ごはんを食べましょう。 ・・・・・

 

広告主は農林水産省。 これが国民運動の実態なのか... 

この制作費は税金である。

特に最後のコピー。

夕食時に帰れたことのないオイラとしては、喧嘩売られた! の心境となる。

 

そこでこの場を借りて、もうひとつ、言い放ってしまう。

油や食品がどんどん上がり、一方で格差社会が拡がっている。

消費拡大というなら、広告代理店やJRに税金を落とすのではなくて、

まさに 「消費 (者) 」 支援に回すべきなのだ。

「食べましょう」 ではなくて、「食べることを応援」 することではないか。

そこで、国民への食料供給の安定のために、また生産力の維持と環境を守るために、

私は、国産米には消費税をかけない! というのを提案したい。

政治の仕事は、金持ちであろうが貧しかろうが、国民に等しく食べものを供給することだ。

しかも食べれば食べるほど、農業と環境が守られるのだ。

お笑いの提案かもしれないが、根幹を突いているとは言えないだろうか。

少なくとも、それくらいの想像力をもって政策づくりを進めてもらいたいものだ。

私は笑われてもいい。 しばらくは言い続けてみたいと思っている。

 

参加した生産者も、めいめいに怒りを語る。 あるいは苦しみを。

-認定農家を取り消すと脅されている。 取り消されたら借りた資金は繰り上げ償還だと。

-減反に協力しなかったことで、自治体からの有機への補助金が打ち切られた。

 

これはもう、おいそれとは引き下がれない。

私の腹の中は、斉藤健ちゃんへの弔い合戦のような火がついている。

 

最後に、おまけの2枚を-

10日ほど前に、5月に水路の掃除を手伝った福島県喜多方市山都を訪ねた。

棚田も健在で、稲が気持ちよさそうに風にそよいでいた。  e08070505.JPG

 

汗まみれになって泥を浚った水路には、しっかりと水が流れてくれていた。

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減反政策は、この風景にも、これを支えてきた人々の歴史にも、価値を認めていない。

 



2008年6月27日

「雪の大地」 の遺言

 

メンテナンス中だった先週の話を続けて恐縮ですが、

報告しないわけにはいかないことが続いたので、お許し願いたい。

 

訃報はいつも突然やってきて......

また一人、農の美学を信じた男が逝ってしまったのです。

 

山形・庄内協同ファーム元代表理事、斉藤健一さん、58歳。

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  (遺伝子組み換え作物拒否のシンボルマークを持って、田んぼに立つ斉藤健一さん)

 

健一さんの葬儀が行なわれたのは、6月21日(土)。

港区芝公園で行なわれたキャンドルナイトのキャンペーン・イベント

 『東京八百夜灯』 の日。

警備担当の役割を人に頼んで、列車を乗り継いで鶴岡に向かうことになった。


新幹線で新潟まで行き、羽越本線で日本海を北上する。

本を読んだりする気にもならず、ただ海を眺める。

今年の 「大地を守る東京集会」 のリレートークで、

庄内での取り組みの歴史を語ってくれたのは、たった3ヵ月前のことだったのに、

とか思い返しながら。

 

健一さんとの付き合いは1987年、

「日本の水田を守ろう! 提携米アクションネットワーク」 の立ち上げからだった。

米の市場開放と国の減反政策に反対して、

生産者と消費者の提携の力でこの国の田んぼを守っていこう、という運動だ。

その頃、「無農薬を要求するのは消費者のエゴだ」 と突っぱねていた健一さんが、

この運動の中で、「自らの意思」 で有機栽培に挑み始めた。

消費者に言われたからじゃない。俺がやりたいからやってんだ、とか言いながら。

いつだったか、収穫期に訪れた僕をコンバインに乗せて、

子どもに教えるように操作の手ほどきをしてくれたのを覚えている。

 

93年の大冷害がもたらした米パニックと、それに端を発して進められた市場開放は、

この運動に新たな展開をもたらした。

一年の冷害でかくももろく自給が崩れ、市場と消費者を混乱に陥れた

この国の農業政策の愚かさに挑んでみたい。

国を相手取っての裁判に打って出たのである。 

僕らの主張をひと言でいえば、

減反政策は国民の生存権を脅かす憲法違反である、というものだった。

農民の  " つくる自由 " を奪い、農村を疲弊させ、

消費者には  " 米が手に入らない "  という混乱と精神的不安を招いた。

国民の税金を "米を作らせないため" に使い、

結果として主食の自給力を衰えさせた。

 

全国から集まった原告は、生産者・消費者合わせて1294名。

裁判は、1994年10月の訴状提出から始まり、2001年8月まで続いた。

その間、27回の口頭弁論があり、

我々はその度に様々な論点で意見陳述を行なった。

 

僕は第2回の口頭弁論で、

水田の貴重な環境保全機能や役割が衰えてきたことを訴えた。

健一さんは6回目に登場して、

生産調整という名の減反が、補助金が出ないなどの集団的制裁を伴って

進められたことを、切々と訴えた。

 

    減反政策が始まってからの日本の農業は、転落の一途を辿ってきた。

    青年を農業の外に追い出し、村に20代の農民はいなくなった。

    田んぼに人影がなくなった。

    上流部では耕作放棄の田が広がり、二度と水田に戻らない状態になった。

    減反政策は、日本の農村景観の破壊であり、

    日本の農民の歴史に対する冒とくである。

    自由と平等そして生存という基本的人権を保障した日本国憲法のもとで、

    国家の政策によって集団的制裁を手段とする減反政策が強行されていることに、

    強い怒りを抑えることができない。

 

彼自身、減反に応じなかったために、地域での役職をすべて奪われ、

村の仲間から 「国賊」 とまで罵られたという。

減反政策は、地域の共同体までもカネでズタズタにしたのだ。

農民は、その地を離れることはできない。 どんなに辛かったことだろうかと思う。

 

減反政策は一時緩んではきたが、ここにきて再度強化されている。

しかも補助金を絡めての締めつけは、以前よりさらに厳しくなってきている。

世界の食料が逼迫している時代に、今でも真綿で首を絞めながら、

「米を作るな」 の脅しが農村を跋扈 (ばっこ) しているのである。

健一さんは、どんな思いをもっていったんだろうか。

 

葬儀で、若い頃の健一さんの写真が写された。 

まるでグループ・サウンズのボーカルみたいにカッコいい姿があった。

 

葬儀後、付き合いのあった生産者に流通関係者などもたくさん残って、

健一さんを偲ぶ席が設けられた。

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それぞれに悔しい思いや、楽しかった思い出などを語り合う。

 

斉藤健一さんは、大地を守る会にとって、もうひとつの顔がある。

大地オリジナル純米酒 『雪の大地』 の原料米、美山錦の生産者である。

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今年の製造は、彼のこだわりでもって木桶での仕込みである。

カートンの中には、彼が魂こめたという詩が添えられている。

 

    朝靄 (もや) の中に 大地をうなうトラクターの響き

    芽吹いたばかりの若苗が柔らかに輝く

    やがて 水が張られ 代かきされた水鏡は

    かげろうの中に田植えの時を待つ ............

 

今年も健一さんは、しっかりと美山錦の苗を植えつけてくれている。

今年の田んぼは、協同ファームの仲間が手分けして支えてくれることになっている。

 

協同ファームの生産者たちと別れ、飛行機でとんぼ返りとなったが、

そのまま大人しく帰ることができず、仲間の顔を見たくなって、

浜松町で降りて、芝公園に向かう。 何人分もの香典返しを抱えたまま。 

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消灯された東京タワー。

『東京八百夜灯』 に参加した人たちが帰り道についている。

 

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美しく輝く田園風景と、たくましく誇りを持った農民たちの姿を思い描きながら、

魂の農民、斉藤健ちゃんが、逝っちゃった。

 

健ちゃんが握りしめて走った、そのタスキの一片。 もらったからね。

何としても、つないでみせるから。

 



2008年1月26日

「提携米ネットワーク」 解散総会

 

昨日(1/25)、六本木でひとつの会議が開かれた。

提携米ネットワーク」総会。

 

そこで組織の発展的解消が提起され、承認された。

 

80年代末から90年代の10年くらい事務局を担当した私にとっては、かなり思い入れ深い組織である。

私はここで鍛えられたと言っても過言ではない。

敗北しつつも歴史はついてくる、ということがある。

これは新しいたたかいを引き受けた当事者でしか感受できない、

孤独な幸福感のようなものだ。

 

その最後の解散総会となった。


昨日(1/25)、六本木でひとつの会議が開かれた。

 

「提携米ネットワーク」総会

 

そこで組織の発展的解消が提起され、承認された。

 

80年代末から90年代の10年くらい事務局を担当した私にとっては、

かなり思い入れ深い組織である。

 

私はここで鍛えられたと言っても過言ではない。

敗北しつつも歴史はついてくる、ということがある。

これは新しいたたかいを引き受けた当事者でしか感受できない、孤独な幸福感のようなものだ。

 

その最後の解散総会となった。

 

思い起こせば1986年、米の輸入自由化の圧力が高まる中、

米を通じての生産者と消費者の提携によって日本の水田を守ろう、

という趣旨でスタートしたのが

「日本の水田を守ろう! 提携米アクションネットワーク」だった。

 

米を通じての提携?

 

-要するに、生産者と消費者を直接結びつけることで、

具体的に田んぼを守る。

ありていに言えば'お米の産直運動'である。

(あえて'提携'という言葉を使うのは、

'同じ思いで手をつなぐ仲間' のような意味をこめている。)

 

今では何てことないように思われるかもしれないが、

当時はまだ食糧管理(食管)制度というのがあって、

米は野菜のようにおおっぴらに直接取引することは困難な時代だった。

 

実際には、すでに制度外の流通(いわゆる自由米)は

当たり前のように存在していたのだが、

一方で法律もまだ残っていて、

国は自由米の存在など「承知していない」世界であり、

米は法的には統制された枠組みの中にあった。

 

生産量の調整も強権的に発動され、減反政策は常態化し、

田園は静かに荒れつつあった。

このままではダメなんじゃないか、

という不安は多くの人の心に淀んでいたはずだ。

そこに自由化の圧力である。

 

米が重大な局面にきている。

その共通認識が「提携米」運動を生んだ。

日本の米と田んぼを、生産者と消費者の力で守ろう!

 

-この呼びかけに応えてくれた生産者(団体)と消費者(団体)を

具体的につないでいく作業が始まったのだが、

この運動に対する圧力や締め付けもかなり強烈なものだった。

 

呼びかけ人に名を連ねたばかりに、地域の役職を剥奪された生産者が出た。

'ヤミ米産直'などと時代がかった報道で指弾された消費者団体もあった。

 

しかし生産や流通を統制するだけの食管制度と減反政策の継続からは、

日本の水田が守れる展望は、とても見出せなかった。

農協などには「食管があるから自給が維持できる」

という強固な主張があったが、

僕には'裸の王様'にしか見えなかった。

実際に国は食管制度の有無にかかわらず自給を放棄しつつあったのだから。

 

生産者と消費者の力で食と農業を守る。

 

これぞ民主主義である、という自負をもって取り組んだもんだった。

不思議なことに、農家には様々な嫌がらせがあるのに、

大地(私)には抗議の電話一本入らなかった。

密かに待ってたんだけどね。

 

このネットワークでつながった'作る人'と'食べる人'の輪は、

生産者約50名、消費者団体20-約10万人(当時)。

わずか、と言われればそれまでだが、

当時の僕らの力では'確信'を持つに充分な数字だった。

大地に提携してくれた生産者は、

今でも大地のなかで存在感を示してくれている。

 

秋田・大潟村の「ライスロッヂ大潟」

-上流にブナの森を育てている。

 

山形・庄内地方の生産者で組織されている「庄内協同ファーム」

-冬みず田んぼや生き物調査で活躍中だ。

 

高知の「高知県生産者連合(高生連)」

-先陣を切ってくれたのは窪川町の島岡幹夫さんだった。

原発計画を白紙撤回させ、原発推進派も仲間に引きずり込んで

'有機農業で町おこしや!'とやってくれた。

今ではたくさんの生産者から、いろんな農産物をいただいている。

 

新潟・加茂の「加茂有機米生産組合」

-「減反政策は憲法違反である!」と、国を相手に生存権をかけて

裁判で争ったときの団長・石附鉄太郎さんは亡くなられたが、

後継者たちが元気で仲間を増やしている。

 

そして提携米の呼びかけ人になったがために散々な苦労に遭った

山形・白鷹の加藤秀一さんは、新たに結成した「しらたかノラの会」で、

美味しい農産加工品を供給してくれている。

 

礼儀正しくて頼もしい若者たちが、加藤さんを慕って一緒に働いている。

 

 

この写真は、

 

昨年3月に滋賀で開催された「農を変えたい!全国集会」でのひとコマ。

左から大地・長谷川満、ライスロッヂ大潟・黒瀬正さん、

提携米事務局・牧下圭貴さん、

庄内協同ファーム・志藤正一さんと菅原孝明さんの面々。

 

結成から20余年。

国の政策も色合いを変えてきてはいるが、減反政策は今でも続いている。

いやむしろ強化されてしまった。

 

そして、耕作放棄地は増える一方だ。

 

課題は今も深く横たわっているけど、'人の輪'という財産もいっぱいできた。

ここいらでスッキリと次のステージに向かって衣替えしよう。

 

そんなわけで、「提携米ネットワーク」はこの春から、

「提携米研究会」と名を変えて新たな体制に引き継がれることになった。

 

でも、僕にお暇がいただけるわけではない。

6年前、僕は鉄太郎さんの遺影に向かって、約束をしてしまったのだ。

 

 ― あなたが持って走った、そのタスキの一片、頂くことをお許しください。

 

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壮健だった頃の石附鉄太郎さん(右前)。左は息子の健一さん夫妻。

 

癌で亡くなる直前まで、食べものが喉を通らなくなっても、

アジアの農民への技術指導に出かけた日本人がいた。

 

穏やかな笑顔の奥に、鉄の意志を秘めた原告団長のタスキからは......

 

「まだ終わってないですよ、エビちゃん」

 

「走らなくていいから。ただ、たゆまず歩きましょ」

 

― そんな声が聞こえてくるのだ。

 



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