食・農・環境: 2011年6月アーカイブ

2011年6月22日

特効薬はない、でも始めるのだ。

 

2022年まで生きてみたい。

そう書いたはいいけど、ドイツと違って僕らにとってこの10年余は、

けっして楽しい道のりではない。

明るい未来を信じたいと願いながら、目に見えない不安とたたかう。

この時間を、希望を失うことなく、かつ

ある種の覚悟を持って歩み続けなければならない。

 

前回、二つの会議から- 

と書き出したところで寝ちゃったのだけど、もうひとつ。 

先週の金曜日(17日) に、つくばにある国立環境研究所を訪問して、

セシウムを濃縮(吸収) する微生物の実証実験をやった実績をお持ちの

富岡典子さんからもレクチャーとアドバイスを頂戴してきたので、

そこでうかがった話も含めて、いくつか参考情報として整理してみたい。

 


まず、当初問題になっていたヨウ素131は、短期間で減衰していくので、

新たな放出がない限り、大きな問題にはならない、と考えてよい。

これからの問題はセシウム134 と 137 である。

プルトニウムは水に溶けない(=植物は吸わない) し、問題にする量ではない。

ストロンチウムも量的に問題ないとのこと。

 

土壌に降ったセシウムは、数十年以上、地表に留まっている。

それはアメリカや中国が核実験をやった影響を調べた過去のデータからも読み取れる。

(この半世紀で蓄積されてきたものがある・・・ってこと。)

 

いま表層 5cm くらいまでに留まっていると言われたりするが、

深度分布を調べたところ、実は表層 0~2cm にほぼ集中している。

特に表層 5mm に。 したがって 1cm 剥ぐだけでも充分に有効である。

処分する土の容積も格段に減らせることができる。

また一般的な測定では 0~15cm の表土をとって測るケースが多いようだが、

測定方法は統一させないと情報により混乱が生ずる (これは大気測定でも言える) 。

 

残留は土の性質によって異なることも頭に入れておかなければならない。

粘土はつかむが、砂地では流れやすい。

雨で除去されるということは、時間経過とともにあるだろうが、

土への吸着性が強いので、粘土質だと地下水への移行はかなり低い。

アスファルトの道路や家屋の屋根等に降ったものは、雨によって側溝に集り、

結果として下水処理場で高い濃度が出ることになる。

逆にみれば、浄水場で捕捉されやすいので、上水は心配ないと言える。

(これも新たな放出がなければ、の前提で。)

その意味で、下水汚泥は放射能を集めてきているとも言えるものなので、

焼却処分してしまうと、せっかく集めたアブナイものをまた拡散させてしまうことになる。

これは、はぎ取った土同様、埋めるしかないのではないか。

 

埋める場合は、30cm より地下に埋め、土をかぶせること。

校庭の土をはぎ取って、隅に積んでブルーシートをかけるなど、論外である。

 

また森林では、腐植層に捕捉されて留まるので、水への移行は少ないが、

長く林産物に影響する可能性がある。

きのこで高く出るのは、菌根菌のセシウム吸収能が高いことと、

菌糸を張り巡らせて表面積が増えることによって、

結果的により高い濃度となると考えられる。

重量に対して表面積が大きい葉菜類が高く出るのも、同じ原理であろう。

 

これまで農作物で検出されている放射性核種は

直接経路 (大気中から直接葉面に付着) によるものなので、

皮をむく、よく洗う、等である程度の減少は期待できる。

しかし今後はだんだんと経根吸収 (土壌から根による吸収) が問題となってくる。

経根吸収された農作物は、当然のことながら除染は難しくなる。

 

稲では、土壌が5,000ベクレル以下の田んぼでは作付が許容されたが、

それは、土壌から米への移行は最大でも10分の1 (500ベクレル=食用の基準値)

以下になるという計算による。 

過去のデータによれば、実際はもっと低く、100分の1~1000分の1 程度。

かなりの安全係数をかけているとは言える。

なお米では、放射性核種は胚芽と白米表面に多く残るため、

玄米のほうが濃度が高くなる。 白米では玄米の約半分になる。

 

汚染 (吸収) されにくい作物というのは、あるようだ。

ナス科 (トマト、ナス、ピーマンなど) は最も少ないと言われる。

続いて、ウリ科 (きゅうり・カボチャ・スイカ・メロンなど) 、ユリ科 (ネギ類)。

逆に吸収しやすいのは、アブラナ科、アカザ科、豆類。

じゃが芋はナス科だが、食する部位は茎なので、実よりは高くなる。

河田昌東さんおススメは、トマト、だって。

また、酢漬けにすると、セシウムは6~7割減るんだとか。

抗酸化作用物質 (ビタミンA、C、E、β-カロチン、カテキン、ペクチンなど)

もイイらしい。 この辺はもっと根拠を聞きたかったところだ。

「 まあ、少しでも避けたいという人は、産地を選ぶしかない。

 子どもや若い女性には、産地を選ぶ権利がある。

 しかし・・・・50歳以上は、ここは責任をもって、しっかり食べましょう。」

それが河田さんの答えである。

 

セシウムを吸着する効果の高い鉱物としては、

ゼオライト、ベントナイト、バーミキュライトがあるが、これに活性炭を併用すると、

逆に植物の吸収を促進させるというデータがある。

原因は分からない。

また窒素肥料も、粘土や鉱物が掴んだ放射性物質を剥離させ、

吸収を促進させるので要注意、とのこと。

 

チェルノブイリでは、牛乳対策として、

牛の餌にプルシアンブルー (シアン化鉄) を混ぜ、

効果があったことが確かめられている。

シアン化鉄とは人工の色素で、セシウムをくっつける力があり、

かつ水に溶けないので分離させることができるようだ。

 

ナタネやヒマワリによる除染 (ファイトレメディエーション) は、

メカニズムは同じだが、ヒマワリはバイオマスのかさが大きく、

またリグニン (木質) が多いので、残さの扱いが厄介になる。

チェルノブイリでのナタネ実験では、

種はバイオ燃料 (油) にし、残さはメタン発酵させてバイオガスに利用している。

セシウムは種に集まるが、油には入らず、

最終的に移行した廃水にゼオライトを施用する、という行程のようだ。

 

なお、国立環境研究所の富永先生が立証した微生物-ロドコッカス・エリスロポリスは、

能力を発揮するにはその条件を整えてやる必要があり、

実用化には至っていない、とのこと。 自然界にも存在しているものだが、

それを抽出して開放系で比較試験するのは無理なようだ。

 

いずれにしても植物や微生物がセシウムを吸収してしまうのは、

必須の栄養素であるカリウムとイオンのサイズが類似していることによる。

したがって、食用である植物にセシウムを貯めさせないことを優先するなら、

カリウムを多めに土壌に施用し、セシウムまで取りにいかせない、

という手もあるが、カリウム過剰となると、生育上の別な問題も発生させる。

 

結局、いろんな手があるにはあるが、

これでよし、と言えるカンペキな除染技術はないということだ。

各種の効果や技術を組み合わせ、自然の力を借りながら、

時間をかけて浄化させて行くしかない。

何という恐ろしいものと共存(?) しなければならなくなってしまったことか。

 

それでも、そのスピード (=効果) を高めるために人智を尽くしたい、

と思うのである。

福島・須賀川のジェイラップ (稲田稲作研究会) の伊藤俊彦さんに、

国立環境研究所に出向くことを伝えたら、つくばまで飛んできた。

環境や安全に配慮した米づくりをひたすら追求してきた者として、

「一日も早く、どこよりもきれいな田んぼを取り戻してみせる!」

 - それが彼の、必死の決意なのである。 

   僕はその意思に付き合う約束をしてしまった。

 

ジェイラップでは、試験ほ場をこしらえて、

いろんなパターンでの除染方法での実験が進み始めている。

ありがたいことに、河田昌東さんもバックアップしてくれることになった。

ひとつのプロジェクトの絵が、描かれつつある。

特効薬はなくても、始めることで、前に進むことで、気持ちが変わってくる。

「美しい福島」 を、みんなの手で取り戻す10年に、したいと思う。

 



2011年6月10日

までいの力 -福島行脚レポート(補)

 

5月6日(金)、視察・交流団一行が福島から相馬~南相馬~と回っていた頃、

東京・八重洲にある福島県八重洲観光交流館では、

飯館村産の米で仕込んだ日本酒の販売会が催されていた。

飯舘村は、原発事故にも  負けねど!

という意気込みを首都圏の人たちにアピールしようと企画されたものだが、

午前10時の開館と同時に長蛇の列ができて、

大変な売れ行きだったらしい。

報告してくれたのは、大和川酒造代表社員、佐藤弥右衛門さんである。

 

飯舘村酒販組合では、25年前より村内産の米で造られた酒 「おこし酒」 を

村内限定で販売してきた。

その醸造を委託されていたのが大和川酒造さんというワケで、

弥右衛門社長もこの日は勇んで応援に行ったようだ。

会場で振る舞われたのは、その 「おこし酒」 と大吟醸 「飯舘」 の2種類。

「飛ぶように売れた」 らしいが、

それはそれで 「極めて複雑な心境」 にもさせられたことと思う。

 

原発事故により全村避難となって、

飯舘村では今年の米の作付も制限されてしまった。

26年間続いた酒の製造が今年は途絶えることになる。

来年以降も酒を造れる保証はないが、

「味を舌に記憶してもらって、再び販売できた時に、また応援してもらえれば」

と飯舘村酒販組合の会長さんが希望を語っている。

翌日の帰り、二本松駅で買った 「福島民友」 に、そんなコメントが報じられていた。

 

記事を読みながら、振り返る。。

5月3日、山都に入る前に大和川酒造店に立ち寄り、

現地への差し入れ用の 「種蒔人」 を車に積み込んだ際、

弥右衛門社長から 「6日か7日、東京で会えないか」 と声をかけられたのだ。

飯舘村を応援したい、何か考えたいんだよ、と言われた。

「考えたい」 に 「だよ」 が付くときは危険信号である。

それはイコール 「一緒に行動しろ」 という意味であることを、

20年近いお付き合いの中で、僕は骨身に染みている。

今回ばかりは、さすがに手が回らない、というのが正直なところだった。

 

それでも社長の気持ちは、びんびんと伝わってきた。

彼は、飯舘村から任命された 「までい大使」 の一人なのだ。

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までいの力 』 (SEEDS出版刊、2500円(税込))

 


「までい」 とは、東北地方の方言で、

" 手間ひま惜しまず、丁寧に心を込めて、つつましく "  という意味らしい。

それは、「もったいない」 や 「思いやり・支え合い」 といった精神にも通じている。

 

飯館村は、各地で市町村の合併が相次ぐ時代にあって、

「自主自立の村づくり」 という、真逆の道を選択した。

しかしそれは、すべて自分たちの力で切り開かなければならない道でもあった。

菅野典雄村長は、村の振興計画を模索する中で

「スローライフ」 という言葉に出会う。

「それだ!」 とひらめいたものの、村民の反応は冷たかった。

その言葉は、村の人の心には響かなかったのだ。

村の精神を表現する言葉が見つからない。

そんなとき、 「それって 『までい』 ってごどじゃねーべか」

という一人の呟きによって、エンジンがかかった。

 

飯舘村の挑戦は、独創的というより、

現代社会を生きる者たちへの本質的な問いかけ、と言ったほうがふさわしい。

村長と村民たちの徹底的な対話から生まれた様々な取り組みがある。

嫁たちのヨーロッパ研修旅行 -「若妻の翼」。

それをきっかけに女性の起業家が生まれ、

男には育児休暇が義務づけられ (それは研修と位置づけられる)、

 " 座り読みOK "  の村営本屋さんが誕生し、全国から1万冊の絵本が届けられる。

村内産100%の学校給食への挑戦。

小学6年生を対象にした 「沖縄までいの旅」。

ラオスに学校をつくるプランを発案する子供たち。

自宅で家族と過ごしているような介護施設。

村人がもてなす  " ど田舎体験 " ・・・・・などなどなどなど。

 

「自立する」 とは、とても厳しいことだが、かくも楽しいかと思わせる力がある。

みんな頭を柔らかくし、年寄りが生涯現役を誇る村。

資源は 「までい」 にあり、その気づきによって、

何もないと思っていた里山からも、資源は無尽蔵に生れ出てくる。

これこそまさに地元学のいう 「 ないものねだり から あるものさがし へ 」 である。

 

高橋日出夫さんが語った 「理想郷に向かっている村」 が、

たしかにあったのだ、2011年3月11日までは。

 

翻ってみるに、

福島第一原発のある双葉町は、全国トップクラスの債務超過の町に陥っている。

東電から落ちていた莫大なお金は、町や住民に何を与えたのだろうか。

いや、奪ったんだ、実は。

原発の論点は、安全性やエネルギー問題だけではない。

地域の自立や資源を奪いつくすものとして、いま目の前に現れている。

 

本当の豊かさとは-

使い古された言葉だけど、よくよく考えなければならないことだと思う。

 

震災後、飯館村へ、あるいは相馬へと、

大和川酒造店の方々は、一升瓶に水を詰めては届けて回った。

それでも、までい大使・佐藤弥右衛門は悩んでいる。

いただいたメールから-

 応援し、支援するということは、物資を送ることだけではなく、

 私たちの生活のなかに、その痛みを共有し受け入れていくことなのだと思う次第です。

 いま、すべての人が試されている時とも感じています。

 



2011年6月 8日

地域の再生を誓う人々 -福島行脚その⑦

 

5月3日から5日間にわたる福島行脚のレポートも、

ようやく最終日に辿りついた。

重かったな、今年のゴールデンウィーク。

このツケが家庭のメルトダウンにつながらなければよいのだが・・・

いや、私的な話は慎んで、レポートを続けよう。

 

「二本松ウッディハウスとうわ」 という宿泊交流施設で一泊した我々視察団一行は、

5月7日(土)、まずは地元の堆肥センターを見学する。

 

循環型有機農業を目指す有志19名の出資で、

「ゆうきの里」 づくりの土台を形成すべく建設された施設である。

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案内してくれたのは、

協議会初代理事長を務めた菅野正寿(すげの・せいじゅ) さん。

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地元の牧場から出る牛フンに稲ワラや籾殻、食品加工で発生する食品残さなど、

地域資源を最大限に活用して、一次発酵、二次発酵・・・ と

半年かけて四次発酵まで行ない完熟堆肥を完成させる。

それを 「げんき堆肥」 と銘打って、直売所で販売する。

 

農家は畑の土壌診断を行ない、それに基づいた施肥設計を整え、

「げんき堆肥」を適正に使用し、農薬は極力使わず、

栽培履歴を自ら開示する。

それが 「東和げんき野菜」 のブランドとなり、直売所を潤す。

 

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しかし、彼らの精一杯の取り組みにも、原発事故は容赦なかった。

この 「げんき野菜」 も、事故直後から

県内の生協やスーパーから拒否される事態となった。

消費者の買い控え(防衛行為) と、流通者の脅えた自主規制は、意味が違う、

と僕は思っている。

" 売れるか、売れないか、どう売るか、何を伝えるか "  の悩みを経ずに、

早々とつながりを断ち切るのは、流通者のやる仕事ではない。

 

しかしながら、地域資源の循環を支える静脈である自慢の堆肥にさえも、

不安は緩やかな津波のように浸潤してきているのである。

この罪は大きい。

 

見学の後、「道の駅東和 あぶくま館」 に戻り、

現地農家からの報告と意見交換会が再び持たれた。

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菅野正寿さんが今の状況を語る。

露地野菜がほとんど出荷できなくなった。

しいたけは出荷できているが、周辺地域では制限されたところもある。

測定器を購入して観測しているが、場所によってかなり差があるようだ。

ヒマワリの資料を集めタネも買ったが、はたして植えていいものか・・・

「耕すな」 という人から、「深く耕せ」 という人までいて、

私たちは何を基準に判断していいのか、不安は増すばかりである。

それでも桑の生産の準備には入ろうと思っている。

 

全戸避難の指示が出された飯館村から来ていただいた

高橋日出夫さん。 

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今は松川(福島市) に避難されているが、時々は見回りに帰っている。

ブロッコリィを6~7月に収穫する予定で、4月に1町歩(≒1ha) 作付けした。

花のグラジオラスを7月からお盆にかけて、

トルコギキョウをお盆から11月の婚礼期に出荷、、、そんな計画だった。

やませによる冷害のある地域なので、複合経営に取り組んできて、

何とか食べていける、ようやく暮らしの見通しが立ってきたところだった。

 

「原発事故の後、子供がいる若い夫婦はみんな外に出ました。

 残っているのは年寄りだけ。

 私は、できれば村に残って来年に備えたいと思っていたんですが、

 全戸避難となってしまって。

 それでも地区のみんなとは、いつか飯館に戻ろう、そう誓い合って移りました。

 私の住む松塚地区は45戸あって、以前から機関紙を出していまして、

 この機関紙を何とか続けて、みんなに配りながら、

 つながりを持ってやっていこうと思ってます。

 

 私は本当は野菜が好きで、

 農業高校でカリフラワーを見たときの感激が今でも忘れられないんです。

 家は当時、葉タバコと水稲だけだったんですが、野菜作りに魅力を感じて、

 20代半ばに菅野正寿さんと知り合って、安全でおいしい野菜を作って食べてもらおうと

 「福島有機農業産直研究会」 を結成しました。

 末娘はその頃作っていたレタスの味を今でも忘れられないと言ってくれます。 

 

 いま村民が一番知りたいことは、畑や田や山の、土の実態です。

 いろんな取り組みがありますが、どうなんでしょう。

 来年は作付できるんでしょうか。 それが知りたいです。

 飯館はどことも合併せず、  「自主自立のむらづくり」 の道を歩んできました。

 私は理想郷に向かっていると信じていました。

 あの美しい自慢の村が、こんなことになろうとは・・・・・ 」

 

東和に新規就農して5年目の春を迎えた関元弘さん。 

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元農水省の官僚である。

出向先として勤務した東和町に魅せられ、

8年前に霞ヶ関を捨て、夫婦で東和に移り住んだ。

農業の現場で有機農業を実践するのは、以前からの夢だったという。

3年前には有機JASを取得している。

公とも組み、農協や既成の流通ルートを活用した新しい仕組みをつくろうと

4月に 「オーガニックふくしま安達」 という組織を結成したばかり。

実は3月14日が、その設立総会の予定だった。

心昂ぶる絶頂直前での原発事故となったわけだ。

 

事故で一時心が折れそうになったが、

農業をしたくてもできない人がいるのだと思うと、

「ここで負けてられっか」 という気持ちになった。

「立ち上がって、前に進もうと決心しました。」

 

会のシンボルマークは、ヒマワリ。

「土壌浄化とかではなく、復興のシンボルとして」 みんなでヒマワリを植えている。

いずれ二本松全体を有機の里にしたい、と抱負を語る。

 

手元に、菅野正寿さんが書かれた文章がある。

そのなかの一節を紹介したい。

 

  原発の安全神話は崩れた。

  有機農業生産者は、農民は、命の大地を守るため、声をあげなければならない。

  戦後、都市生活者のため労働力も食糧もそして電力も提供し、

  支えてきた東北の農民の声なき声を受け止めなければならない。

  消費文明と人間のエゴの帰結が今回の事故をうみ出したのならば、

  エネルギー政策の抜本的転換、

  つまり持続可能な自然エネルギーへの転換が求められる。

  そしてわたしたちは力をあわせて、希望の種を蒔かなければならない。

 

  「山の畑の桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか」 と唄われた、

  赤とんぼと桑畑と棚田のふるさと ~ 

  今年、黄金色の稲穂に赤とんぼは舞うのだろうか。

 

現地視察と生産者との交流から、早や1ヶ月が経った。

「皆さんのところで育ててほしい」 と、

飯館村の高橋日出夫さんから託されたグラジオラスの球根が、

僕のちっこいプランターで芽を出してしまった。

高橋さんの願いが乗り移ったかのように、逞しく伸びてくる。 

 

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こんなところでゴメンね、だよね、まったく。

最後まで付き合うから、許してくれ。

 



2011年6月 5日

美しい村々に降った放射能 -福島行脚その⑥

 

改めて振り返るまでもなく、

原子力発電という技術は、実に事故やトラブルとのたたかいの歴史だった。

" 一歩間違えば大惨事 "  という事態を繰り返しながら、

世界に誇るニッポンの技術者たちは、

" 未来の国産エネルギー "  に途方もない夢を賭けて未知の領域に挑んできた。

 

しかしこの技術は、放射能を発散するという宿命により、

不幸な足かせも必要とした。

" 事故は起きない "  という神話を前提にしなければ、

一歩も前に進めなかったのだ。

技術革新にとって失敗とは、物語に感動を加える絶妙なダシのようなものなのに。

 

安全神話は、国を挙げて、極めて強固に築かれていった。

放射能漏れや隠蔽・改ざんをさんざん繰り返しながら。。。

「こんな危険なモノとは共存できない」 「事故が起きてからでは手遅れになる」

という反対論は、その神話の壁と政治力、そしてマネーの力を崩すことは出来なかった。 

地震との関連でも、その危うさはつとに指摘されてきたにも拘らず、

「明日起きても不思議ではない」 という主張は、

危険人物の煽動的発言であるかのようにシカトされた。

そうして虚しくモロかったはずの  " 安全神話 "  は、いつしか

リスクを最も理解し警戒していたはずの科学者や技術者の頭をも支配してしまった。

それこそが最強のリスク因子であることに気づくことなく。

 

まあ、しかし、、、そう批判したところで、我々だけが逃げられるワケではない。

この責任は、賛成論者・反対論者を問わず、

現代社会を生きるすべての大人が背負わなければならない。

 

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・・・ そんなことをボンヤリと思いながら、景色を眺め続ける。

 

遺留品の保管所を示す墨で書かれた張り紙が静かに立っている街を後にして、

視察団一行は、浜通りの南相馬から再び内陸へと踵を返した。

何台もの自衛隊の災害救助車両とすれ違いながら、

20km も南に下れば、原発事故によって

行方不明の家族を捜すことすら許されなくなった町があることを考えようとするが、

僕の想像力はとてもついてゆけない。

 

二本松市・旧東和町に向かう途中、飯館村を通過する。

 

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「日本でもっとも美しい村」 のひとつ -福島県南相馬郡飯館村。

原発から約40km離れた地で、全村民が避難を余儀なくされてしまった。

放射能の影はどこにも見えないけど。 

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この田畑も、間もなく放置される。 酷い話だ。

 

夕方、二本松市・旧東和町にある 「道の駅 あぶくま館」 に到着。

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 ここで、有機農業をベースに、

地域の自立と自然循環のふるさとづくりに取り組んできた

生産者たちとの意見交換会を持つ。

 


東和の町づくりを担ってきたのは、

NPO法人 「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」。

 

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二本松市に合併された2005年、

それまで築いてきた 「ゆうきの里づくり」 を継承しようと設立された。

かつて県内屈指の養蚕地帯といわれた山村に広がる耕作放棄地を再生させ、

桑を使った特産品を開発し、新規就農者を受け入れ、

「里山の恵みと、人の輝くふるさとづくり」 に邁進してきた。

その実績が評価され、一昨年、過疎地域自立活性化優良事例として、

総務大臣賞を受賞した。

大地を守る会の生産者団体でもあるが、彼らの基本はあくまでも 「地域」 である。

僕はその精神を気高いと思う。

 

95%が東和町の産品で並べられているという直売所。

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壁側の棚には、生産者たちの栽培履歴のファイルが並べられている。

それがトレーサビリティの証明である。

 

協議会理事長の大野達弘さん。

以前は 「福島わかば会」 のメンバーで、前日の福島での会議でも一緒だった。

今は地元・東和の、有機農業の指導者として若者たちを育てている。 

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里山再生を掲げ、復活させた桑園は60ヘクタール。

仲間と一緒に 「桑の葉パウダー」 や 「桑茶」 、そしてジャムから焼酎まで、

次々とヒット商品を開発してきた。

育てた新規就農者は16組20人を数える。

新しいふるさとづくりに手ごたえを感じ取ってきた。

そこに起きたのが、原発事故である。 

「山がどうなるのか、心配で途方にくれている状態」 だと語る。

「でも、みんなで頑張って乗り切ってゆくしかない。 この地で踏ん張っていきたい。」

 

副理事長の佐藤佐市さん。

こちらも元 「わかば会」 のメンバー。

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家庭菜園用の苗も作っていて、園芸福祉も取り入れたいと抱負を語る。

しかし・・・地域資源を循環させることが 「有機」 だと信じてやってきたが、

今は落葉の汚染を心配しなければならなくなった。

悩みは尽きないが、有機農業の 「ゆうき」 は 「勇気」 でもあると思って、

頑張っていきたい。

 

山の落葉、しいたけの原木・・・ 山は資源の宝庫なのに、

今はそれを心配しなければならなくなってしまった。

「使っても大丈夫でしょうか」

実態が正確に分からない以上、明解に答えられる専門家はいない。

 

県は野菜の分析で手一杯なのだという。

「民間の検査機関に出せ」 と言われて問い合わせたら、

バカにならない検査費用だった。

ガイガーカウンターも買ったが、どうやって再生につなげたらいいのか・・・

 

意見交換会を終え、夜には懇親会が持たれたのだが、

山都での堰浚いから福島での生産者との厳しい会議を経て、今日の体験・・・

正直言って、ひどく疲れた感が襲ってきて、

自分でも信じられない。 得意の 「飲み」 に付き合えない。

 

愛媛大学の日鷹一雅さんと溜池や水系の除染についてしばし話し合って、

みんなより早く休ませてもらった。

東和の若者たちと語り合おうと思っていたのに。

 

・・・ああ、終われないね。 続く。

 



2011年6月 3日

福島・浜通りの苦悩 -福島行脚その⑤

 

さてと・・・・・ 忘れてはいません。

福島行脚レポートが、実はまだ終わっていないのです。

 

でもこれが、ななかな気が重くて、書けないでいました。

でも、書かなければならない。

ワタシはこの体験を記憶しておかなければならない、とも思うのであって。。。

 

どうも、いつまで経ってもまとめられそうな気がしないので、

どんな形で終了するのか判然としないまま、書き綴ってみます。

言葉が浮かばないところは、写真だけで、

しかも細切れで続くことになるかもしれないけど、お許し願いたい。

 

5月5日、福島の生産者たちとの会合を終えて (福島行脚④ 参照)、

僕は福島駅前のビジネスホテルに一人宿泊して、

翌6日、日本有機農業学会の有志で企画された

「被災地視察と生産者との交流会」 に参加した。

 

朝、福島駅集合。 

ホテルの玄関に掲げてあるスローガンに一礼する。

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参加者は、日本有機農業学会会長代行の澤登早苗さん(恵泉女学園大学) に、

このところ会うことが多い茨城大学の中島紀一さんやコモンズの大江正章さん他、

総勢21名。

 

一行はワゴンのレンタカーを調達して、まずは被災の現地・相馬市に向かう。

例年なら観光客も多いだろうと思われる新緑の山間地を過ぎ、 

海から2~3km という相馬市柏崎地区に入る。

 

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いきなり、圧倒される。

防風林の松がきれいさっぱりと倒され、ここまで流されてきている。

 

田んぼがひび割れしている。

でもこれはただの乾いた田んぼではなくて、表面を覆っているのはヘドロである。

めくればその下に、津波で運ばれた  " 異物 "  が見える。

干からびた鮭とゴルフボールが、同居していたりして。

この田の再生は、、、想像するだけでため息が出てくる。

 

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ここに来る前に、相馬市で有機農業を営む生産者を訪ねたのだが、

集まってこられた生産者たちから聞かされた経験譚は

まるでSF映画のような話だった。

 

「海岸から200mくらいの交差点の赤信号で止まったら、前から津波が来るのが見えて、

 慌ててUターンして逃げた。 何も知らずに海に向かう車が通り過ぎていったが、

 助けることができなかった。」

「地震の時はトラクターに乗っていたが、まるで遊園地の回転木馬のようだった。

 降りたら立ってられなかった。」

「津波に遭って、姉は流木につかまって間一髪助かった。

 あちこちに悲鳴が聞こえて、家が壊れる音やらで凄い音とスピードだった。

 堤防が決壊して、地盤沈下もあるので、大潮になると今も水が入ってくる。」

「地震の時は浪江町を車で移動中だった。 津波が来たとは知らなくて、

 次の日に浜に行ったら海だった。 親戚を探そうとしたが、避難所も分からず、

 とにかく足で稼ぐしかなかった。 親戚夫婦が4km流されたところで発見された。

 供養できただけでも良かったと思う。

 (こっちも大変だったんだけれども) 原発で避難してきた方を受け入れて、

 しばらく3世帯10数人で生活した。」

そんな話を淡々と聞かされる。

 

相馬市は、今年も米の作付を行なうことを決定したが、

まだ行方不明者がいるので、捜索に支障をきたさないよう、

5月8日までは田んぼに水を入れないことも、申し合わせたという。

「捜索と営農のギリギリの選択が、5月8日っつうことになったわけです。」

田に水を入れることがどういうことか・・・

こんな米づくりを経験することになろうとは、、、言葉が出ない。

 

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相馬市から南相馬市に移動する。 

地震からもう2ヵ月近いというのに、立ちつくすしかない風景が続く。

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東京電力福島第1原発から20km圏ギリギリで圏外にある杉内清繁さん宅で、

20km圏内の根本洸一さんも同席されて、話をうかがう。

 

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杉内さんは93年から有機農業に転換したが、

今回の震災の影響よって、有機JAS認証は外さざるを得ない、

と認証機関から言われたとのこと。

そのあたりの判断は認証機関で統一されているのだろうか、心配なところである。

 

「 3月11日から二日間は余震も激しくて、夜は車の中で過ごしました。

 13日に行政の指示が出て小学校に避難したが、ドーンという音を聞いて

 原発が爆発したのではないかと思って、翌日に家族4人で郡山に避難しました。

 その後、宮城県亘理町の叔父の家に移って、4月24日に帰宅したんですが、

 周りでは空き巣や窃盗もあったようです。」

 

南相馬市は、原発事故とその後の行政方針によって、

「警戒区域」 と 「計画的避難区域」 「緊急避難準備区域」、

そして制限のない区域に分かれることになった。

制限のない区域には米の作付は問題ないとされたのだが、

4月14日、市は全域での稲の作付禁止を決めた。

損害賠償を睨んでの措置だと思われるが、

しかし稲以外の作物はOKとなったため、農家の悩みは深くなるばかりである。

 

20km圏内で有機農業を営んできた根本洸一さんは、

福島県の有機農業ネットワークの代表も務めた方。 

家の蔵から有機米50袋 (25俵=1,500㎏) を何とか持ち出したが、

大豆23袋を残してきたことが心残りである、と語る。

とにかく田畑を一刻も早くきれいにしたいと、あれこれ今から考えている。

 

地域のみんなが原発の安全神話を信じていた。

" 二重三重のセーフティネットが整っている "  と聞かされてきたんだけれど・・・

お二人の抑揚を控えた口調が、

かえってその悔しさや苦悩を感じさせるのだった。

(続く)

 



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