食・農・環境: 2013年10月アーカイブ

2013年10月20日

雨中の 「土と平和の祭典」

 

ヤバイよ、そうとうヤバイ。。。

好きでもないのに長年連れ添ってきた椎間板ヘルニアが悪化して、

とうとう歩くのも困難な状態に陥ってしまった。

坐骨神経痛の症状も出て(思えば予兆はあった)、とにかく痛いよ、痛い。

医者の判定は 「脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)」。

なんやねん、それ。

説明だけでは物足らずネットで調べたところ、原因はともかく治療法は諸説紛々。

「医者の言うことを信じるな」 なんて本まである。

〇 に近い △ を選択するのは、なかなかに難しい。

冷静に読み解く前に、とにかく◎(特効薬) が欲しい今の心境。

これまで東西を問わず様々な治療に挑戦するも、

いずれも中途半端で終わらせてきた。

そのツケがついに回ってきたということか。 サル以下の人生・・・トホホ。

 

そんなワケで昨日(19日)は、

楽しみにしていた 「稲作体験田」 での収穫祭をパスさせていただき、

今日は遠方から出てきてくれた生産者との約束があったので、

頑張って日比谷公園まで出かけた。

薬でだましだまし・・・。

 

早いもので7年目となる 『土と平和の祭典』

今年は今までにない、どしゃ降りのなかでの開催となる。

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雨の中、ヨタヨタと到着したのはお昼を過ぎて、

小ぶりになってきた頃だが、売り子たちはすでに諦めムード。 

青空イベントにつきもののリスクとは言え、

出展者には厳しい一日になった。

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今年、大地を守る会のブースに協力してくれたのは、

佃煮の遠忠食品さん、さんぶ野菜ネットワークさん、

福島の果樹生産グループの新萌会さんと羽山園芸組合さん、

山形から戸沢村パプリカ栽培研究会さんに舟形マッシュルームさん、

長野・佐久ゆうきの会さん。

ご協力ありがとうございました。

だいぶ野菜や果物が残ってしまったけど、お許しを。 

 

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逆に夕方来られた方は、

きっと持ち切れないくらいの戦利品をゲットしたのではないだろうか。 

 

種まき食堂も、多分に関係者たちで食べっこし合ってる感じ。

お金の地域内循環みたいに。 

僕も協力する。

寺田本家さんからは純米酒 「香取」 を一本。

足腰は痛くても、好きな酒の備蓄は欠かせない。

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広場の中では、小さなトークセッション。

映画監督の鎌仲ひとみさん(ハンチング帽の方) 相手に語っているのは、

半農半教師を実践されている小口広太さんだ(長野・おぐち自給農園)。

テーマはきっと、福島の有機農業者の苦闘、といったところか。

生産者との約束があって、じっくりと聞けなくてすみません。

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ステージでは、加藤登紀子さんが仕切ってる。

「今、若者たちが農業に挑む! ~新規就農・農業後継者リレートーク~」

の一コマ。

右は有機農業界のカリスマ、埼玉県小川町の金子美登さん。

左は山形・米沢郷牧場の伊藤幸蔵さん。

さんぶ野菜ネットワークの富谷亜喜博さんや、

愛媛・無茶々園の宇都宮俊文さんの顔も壇上にあり、

新規就農した仲間を紹介していた。

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ブースで元気だったのが、

茨城筑西市、「百笑米」 の大島康司さんと仲間たち。 

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雑穀入り焼餅をいただく。

販売には厳しい状況が続いているけど、若者たちの未来のためにも、

頑張らないといけないですね、お互いに。

 

今年のテーマは、「未来(たね) を守る」。

すべては未来の子どもたちのために-

仲間の輪を確かめて、明日からも歩み続けましょう。

 -なんて、お前に言われたくない、か。 トホホだ、悔しい。

 



2013年10月 8日

街から山へ、山から街へ、風が吹いている

 

「 市に合併して、喜多方市熱塩加納町 となったけど、

 いつまでも美しい 「村」 であり続けたい」

 

" 小林芳正節(ぶし)、健在 "  をたしかめて、

我々 「地域の力フォーラム」 一行は市内に戻り、

様々な仕掛けを演出する 「NPO法人 まちづくり喜多方」 を訪ねる。

お話を伺ったのは代表理事の蛭川靖弘さん。

 

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10年前に人口5万人以下の町で初めて、

コミュニティ放送局 「喜多方シティFM 株式会社」 を設立し、

軌道に乗せた実績を持つ(現在は非常勤の取締役)。 

8年前に 「NPO法人まちづくり喜多方」 の設立に参画し、

3年前より代表理事に就任した。

理事には大和川酒造代表・佐藤弥右衛門氏も名を連ねる。

しかも蛭川さんは、弥右衛門さんたちが立ち上げた

「一般社団法人 会津自然エネルギー機構」 の社員でもある。

 


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現在その NPO で準備を進めているのが、太陽光発電の建設。

名前は 「うつくしま太陽光発電所」 という。

「積雪地における融雪システム付き太陽光発電事業の実証」

のためのモデル事業として福島県からも助成を受け、建設に入った。

積雪地域で普及が進まない住宅用のパネルに、

融雪システムを導入することで普及を加速させよう、という狙いである。

建設地は、以前にも紹介 したことのある雄国山麓。

破綻した国のパイロット事業の跡地に、

4年後までに 2 メガ級の発電量を達成する構想。

12月にはいよいよ売電を開始する。

しかも発電で得た収益で、森林も含めた除染事業を推進するのだという。

 

反原発を唱えるだけでなく、自らの手で

福島県を自然エネルギーの先進地に転換させる。

地域住民主導で、なおかつ自力財源による

「地域循環型除染システム」 も創り上げる。

構想は大きく、未来に広がっている。

 

蛭川さんの活動は多岐にわたる。

喜多方の町並み保存や蔵の活用、文化の発信などを託された

「喜多方まちづくりセンター」 の運営、

さらには漆職人の担い手を育てるための仕掛けまでやってる。

蛭川さんの周りには相当な数の人たちが動き、風を吹かせているようだ。

こういう街は面白い。

 

さて、市内から今度は西北に上る。

V 字を逆に書くような移動となって、飯豊山麓・山都町に入る。

今回聞き取らせていただくのは、浅見彰宏さんではなく、

浅見さんの先輩入植者、大友治さんだ。

「元木・早稲谷 堰と里山を守る会」 の事務局長である。

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大友さんがこの山間地・山都に移住したのは1995年。

全共闘世代で、御多分に洩れず学生運動にも参加し、

「左翼の仕事もやりました」 とサラっと言う (仕事の内容は不明)。

その後、半導体関係の仕事を得るが、

宮沢賢治が好きで、農業をやりたいという思いを捨てきれず、

写真と山が好きで、新潟の棚田地帯に憧れたりもして、

あちこちと移転先を求めて回ったが、独身者は相手にしてくれなかった。

あの頃はオウム事件なんかもあったし。。。

 

そんな悶々としていた時に、小川光さん(チャルジョウ農場) の名前を聞き

電話をしたところ、「熱意さえあればいいです」 と

いとも簡単に受け入れてくれた。

小川さんは村の空き家情報にも精通していて、移住はすぐに出来たのだが、

しかし畑は半年見つからなかった。

 

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ようやく区長の紹介で、荒れた畑を 1反(≒10a) 1万円で借りることができた。

でもその年に大水害が発生してダメになり、

翌年は雹(ヒョウ) が降って、きゅうりの出荷が始まった3日目で全滅した。

しかしそこでやめなかったことで、ようやく本気だと思ってくれた。

再び挑戦して、きゅうり作りを通して村の人との信頼関係を築けたと思う。

それからは田んぼも 「借りてくれ」 と言われるようになった。

現在耕作している面積は 3反 3畝(せ)。

他に 1反 6畝を他の人と共同でやっている。

 

獲れた初モノは、必ず集落の人に配って回りました。

回ることで会話も生まれます。

とにかく日常の行動が大事で、公民館活動も積極的に引き受けました。

さなぶり祭りの復活や、笹団子づくりをみんなでやったり。。。

家を回ってはお茶飲みながら昔の暮らしなどを聞いたりして、

各家庭にあった古い写真を600枚お借りして写真展を開いた時には、

村の人たちの忘れかけていた記憶が呼び戻されたみたいで、

たいそう喜ばれました。

 

年寄りの頭の中と手だけにしか残ってない文化がある。

お漬け物の味が一軒々々違うんです。

そこでコンテストもやりましたね。

みんな自分ちのを一番につけるんで、コンテストにはなりませんでしたが、ハハ。

 

堰管理の役員を頼まれた年に、浅見くんからボランティアの話が持ち上がって、

都会から人が来ることに対する抵抗感は強いものがあったけれど、

だんだんと信頼されるようになりましたね。

信頼されると、今度は何から何まで (役職が) 回ってくるんですよ。

今では総会の議長まで任されるようになって。

え~と、こんな話、ダラダラとしてよかったんでしたっけ・・・

 

新規就農心得のようなお話だったが、

これはこれでとても参考になる。 みんな聞き入っていた。

地域で受け継がれてきた文化の豊かさは、地元の人には分からなかったりする。

余所者の再発見によって気づきが生まれることがあるのだ。

大友さんや浅見さんやその後の就農者たち、そして先達の小川さん。

警戒され、怪しまれながら、やがて待たれる存在になって、

今や彼らはミツバチのような媒介者だ。

彼らが飛びまわることで、花が咲き、実が成り、命が継承される。

 

そんなワケで、大友さんの田んぼは、

不便な山の中にある。

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棚田を耕すことは、麓の暮らしを守ることにつながっている。

水が涵養され、大地が削られることなく維持され、糧(かて) が届けられる。

この景観が懐かしく人を安心させるのは、

たゆまぬ人の営みがあるからだ。

 

このお米を、僕らは高い・安いと議論する。

しかし、大友さんがここで汗を流すことで守られているものがあることは、

顧みられない。

値段に含まれていない外部経済の価値を、

僕らはもっと伝えなければならない。

大友さんは、エライ!

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田んぼをバックに記念撮影。

大友さん(前列右から二人目) は故郷の恩師みたいだ。

 

視察の最後に、浅見さんが堰を案内してくれる。

 

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お彼岸だというのに日本の街はひどく暑いままだけど、

ここにはさやかな風が吹いている。

新しい時代に向かって、地域パワーを蘇らせる若者たちが、

風に吹かれて一人また一人とやってくる。

 

浅見さんは本当に好きなんだと思う、此処が。 

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民俗学者・柳田國男の言葉が、また蘇る。

 - 美しい村などはじめからあったわけではない。

   美しく生きようとする村人がいて、村は美しくなったのである。 (『都市と農村』)

 



2013年10月 6日

『地域の力フォーラム』 in 喜多方

 

10月4日(金)、「放射能連続講座Ⅱ」 シリーズを終了させた。

最終回の講師は、鎌田實さん

(諏訪中央病院名誉院長、日本チェルノブイリ連帯基金理事長)。

『鎌田實さんが語る希望 -子供たちの未来のために-』。

このテーマに、さすが鎌田さん。 しんがりを感動的に締めてくれた。

 

「 大地を守る会から、未来への希望を語れという注文。

 でも希望を語るには、私たちも変わらなければならない」 

 

鎌田さんが語った  " 希望 "  とは何だったのか・・・

この講座をまとめるには、暫くの時間を頂きたい。

その前に、9月の出張報告を終わらせなければ。

 

奈良から帰ってきて、21日は溜まった仕事をやっつけて、

9月22日(日)~23日(月)、 

6月に結成した 「地域の力フォーラム」 のセミナーと現地視察会が

福島・会津で行なわれたので参加する。

皆さん連休返上で集まる。

 

まずは磐梯熱海温泉の旅館 「一鳳館」 に集合し、勉強会。

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皮切りの問題提起者は、

茨城大学農学部の名誉教授となられた中島紀一さん。

農の再生と地域づくりの視点をどう再構築するか、

二本松市東和地区での震災 (原発事故) 後の軌跡を見つめ直しながら、

今の  " 復興 "  の進み方に対する相当ないら立ちも含め、 

中島さんの思いが語られた。 

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中島さんが学ぼうとしているのは、

土地に根ざした自給的小農と、それを基礎とした地域社会づくりの精神が

巌に存在すること。

しかもそこ (東和) は、原発災害を受けた後でさえ、その伝統を守り通そうとする

高齢者たちがいて、暮らしが維持されていること。

 現地の状況に合った適切なプログラムが作られ、

資金運営も自らの手で行なう  " 住民主体 "  がしっかりと形成されていること。

 

現在、各地で  " 復興 "  の名のもとに様々なプロジェクトが進んでいるが、

復興論のほとんどが、零細小農の否定であり、世代交代論であり、

企業型農業への期待であり、住民意思が反映されない開発投資である。

「地域」 という暮らしの土台を忘れることなく、今も活き活きと農を営み続けている

高齢者たちから学ばない  " 若者就農礼讃 "  には、意味がない!

と中島さんは言い放った。

 

目下論争の的となっている TPP 参加の是非においても、

反対派の急先鋒である JA ですら、掲げる政策は

政府の 「攻めの農業」 とほぼ同じである。

農産物輸出の推進、担い手への農地集積、6次産業化の推進、新規就農の促進・・・

そこには自然共生型の地域社会づくりという戦略は描かれてはいない。

高齢者が元気に営み続けられる  " 農 " 、

地域を支え文化を育む農の道を、中島さんは模索し続けている。

 

続いての問題提起者は、

福島県有機農業ネットワーク理事の長谷川浩さん。

農業研究センター勤務という国家公務員の職を辞し、

喜多方市山都という山間地に移って、有機農業の実践者となった。

彼が此の頃とみに主張を強めているのが、

「市民皆農」(みんなで耕そう)、「自産自消」 である。

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ピークオイルや気候変動など、迫りくる大変動時代に備え、

私たちの進むべき道は、食べものとエネルギーの自給である。

大都会を捨て、地方で耕し、エネルギーも自給し、

地域自給圏を創造しよう!

「するしかないでしょう~ ねえっ!!!!!」

 

彼もまた、3.11によって生き方を変えた一人である。 

呼応するかどうかは己れの人生設計も鑑みながら考えるとして、

みんなして暮らし方を見直し、変えるべきものがあるだろう、

という主張は受け止めなければならない。

 

二日目は喜多方市での、3名の実践者を訪ねる。

一人目は、旧熱塩加納村でJAの営農指導を務め上げた小林芳正さん。

この人も「美しい村」 づくりに賭けた人である。

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この村に初めて訪れたのは20年前のことだった。

「戎谷くん。 あっちの山の麓からこっちの山の麓まで、

 この里の田んぼで農薬をふる(散布する) 光景が消えたんだ」

小林さんはそう語って、僕の目を見据えた。

今でも覚えている。

 

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大地を守る会のオリジナル純米酒「種蒔人」(当時の名は「夢醸(むじょう)」)

の開発を後押ししてくれた大恩人。

一時期大病を患って心配していたのだが、今は元気に米も作っている。 

 

小林さんから聞きとる、30有余年にわたるたたかいの歴史。

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農協マンが 「農薬の空中散布を止めよう」 と訴えた時から、

彼の地域との格闘が始まった。 1979年のことである。

有機農業に取り組み、「さゆり米」 というブランドに仕立て上げ、 

" 自分たちの食をこそ豊かにしよう "  と自給運動を展開した。

 若手老人(!) たちを集めて勉強会を開き、

広報誌づくりは夜、自宅に持ち帰って一人で続けた。

県に何度も談判に行って、村の小学校の給食に 「さゆり米」 の導入を認めさせた。

「まごころ野菜の会」 を結成して、今でも120人の農家が

子どもたちのために給食用の野菜を作ってくれている。

地域社会は 「農」 と不可分の関係にあることを、

小林さんは示したのだった。

 

しかし合併後は、小林さんには納得の行かないことが続いているようだ。

「こんなはずじゃなかった。」

「まだまだ、やらなきゃいけないことがある。」

もうひと頑張りしなくては・・・ と笑って立ち上がる小林さん。

改めて頂戴した今の名刺には

「共生塾々長 百姓 小林芳正」 とあった。

枯れてないぞ。

手を握りしめ、深く頭を下げて、「どうかお元気で」 が精いっぱい。

 

小林さんの哲学は地域への愛情とともにあった。

いや、地域の力が彼の哲学を育んだのかもしれない。

彼が歩んだ村づくりの歴史は、書き残しておかなければならない。

カリスマ・小林芳正を陰で支えたたくさんの登場人物とともに。

 

ああ・・・ 感慨に浸って、本日ここまで。

 



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