「有機農業」あれこれ: 2010年6月アーカイブ

2010年6月27日

有機農業が中山間地活性化の鍵となる、か?

 

ジェイラップさんのお荷物になって、新潟から福島県猪苗代に。

昨日の (株)大地を守る会の株主総会も、

今日の 「大地を守る会の稲作体験」 の草取りもパスして、

こちらでの集会に参加させていただく。

「日本有機農業学会」 公開フォーラム

 - 『有機農業を基軸とした中山間地活性化 -福島県会津地域の事例- 』 。

 

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中山間地は農業者の高齢化、後継者不足、耕作放棄地増大など、

多くの課題を抱えている。 

福島県会津地方において、有機農業を基軸として活性化を図っている事例から学ぶとともに、

今後の方向性について検討するフォーラム。

 

6/26(土)、一日目は2つの基調講演と5つの実践報告が行なわれた。

基調講演1-「農山村活性化のためにどのような視点が必要なのか」

演者は、宇都宮大学農学部の守友裕一さん。

中山間地対策に係わる施策の変化と課題について概括するとともに、

" 豊かさ "  という概念の捉え直しと、

地域が内発的に発展していくためのいくつかの視点が提出された。

 

基調講演2-「中山間地域と有機農業」

演者は、日本大学生物資源学部の高橋巌さん。

これまで調査に歩いてきたいくつかの事例から、有機農業が高齢者の生きがいを刺激し、

あるいは新規就農の動機となり、山間地の活性化に結びつく効果がある一方、

販路確保の問題、加工も含めた6次産業化の方向、都市に対する情報発信の大切さ

などが課題として語られた。

 

分析や課題抽出が中心なので、致し方ないことなのだけれども、

いまひとつ、ピリピリするような刺激がほしいところだ。

自分の意識が分析より新しい  " 仕掛け "  を志向しているからかもしれない。

 

次に実践報告。 ここから僕は、応援団だ。

トップバッターは、本ブログでも常連になった感のある浅見彰宏さん。

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千葉県出身。

東京の大学を出た後、4年間、鉄鋼メーカーに勤務。

95年に退職し、埼玉県小川町の金子美登さんのところで1年、有機農業の研修を受け、 

96年から山都町に移住した。

耕作できなくなった田んぼや畑を頼まれたりしながら増やしてきて、

現在は田んぼ1.5町歩 (150 a)、畑5反 (50 a) を耕すほか、

採卵鶏150羽を飼い、鶏肉ソーセージや味噌、醤油などの加工もやっている。

 

山間部の堰の清掃(堰さらい) に都会のボランティア受け入れを始めたのが2000年。

この活動によって集落全体による都市との交流が始まり、

11年目の今年は41名のボランティアが集まった。

僕は地元の人から、「浅見君には感謝している」 という言葉を何度も聞かされている。

 

浅見さんは冬になると、喜多方・大和川酒造で蔵人となる。

僕らは、大和川酒造での 「種蒔人」 の新酒完成を祝う交流会で出会い、

4年前から堰さらいに参加するようになり、

山都に足を踏み入れたことで、このあとに登場する小川光さんとの交流が生まれ、

山の中で働く研修生たちともつながったのだった。

 

2008年、浅見さんと研修生たちとで 「あいづ耕人会たべらんしょ」 が結成され、

彼らの野菜セットが大地を守る会に届けられるようになった。

この野菜セットは、山都に定住した人だけでなく、この地で学ぶ

就農意欲のある若者たちも含めて応援するというコンセプトであるゆえに、

人が変わっても継続される。 

いわば  " 就農へのプロセスを含めて支援する "  という特殊なアイテムであり、

僕らの山間地有機農業との付き合い方の姿勢も表現するものだ。

まだわずかな数だけど、限界集落とまで言われる山間地の維持を、

これから長く担うことになる彼らの  " 夢 "  をつなぐものだと思っている。

 

山間部は、少数の大規模専業農家で維持できるものではない。

自給的・小規模農家がたくさん存在してこそ、地域の環境や農地そして文化が守られる、

と浅見さんは考えている。 まったくそのとおりである。

そういう意味で有機農業は、中山間地の価値をよく表現できる思想であり技術である。

 

続いては、熱塩加納村(現在は町) のカリスマ、小林芳正さん。

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農協の営農指導者だった時代、1980年から村全体での有機米作りに取り組んだ。

僕らは、反農協の農協マンと呼んで注目した。

熱塩加納村は 「有機の里」 と呼ばれるようになり、地元より先に首都圏で評価を獲得した。

そして1998年から村内の学校給食に導入され、無農薬野菜の供給へと続く。

給食関係者や消費者団体の間で 「熱塩加納方式」 と注目を浴び、全国区の村となった。

 

画期的だったのは、2001年、それまで特例として認められていた自村産米の使用が

特例期間終了をもって廃止されようとした時の父兄の行動である。

県への請願や村の成人90%におよぶ署名活動も認められなかったのだが、

そこでPTAは臨時総会を開き、

「父兄負担がかさんでも、かけがいのない子どもたちに、

 村産の安心できる米を食べさせたい。 米飯給食の補助金がなくとも継続する 」

と満場一致で決議した。 

食においては自立した村であろう、という宣言である。

戦後日本の食の歴史に残しておいていいくらいの事件だと思うのだが。

 

2007年には構造改革特区の認可を受け、

喜多方市内3小学校に 「農業科」 が設置された。

熱塩小学校では、学校の周りの農家から、13a の畑と 6a の水田を借り受け、

小林さんの指導で野菜や米作りを学んでいる。

できた野菜はもちろん給食の食材として利用される。

食農教育の成果が見えてくるのはこれからである、とまとめたいところだが、違う。

鈴木卓校長によれば、「他の教科の学力も上がっています」 - のである。

 

余談ながら小林さんは、村が喜多方市と合併した際に、

喜多方市熱塩加納町という住所になったのが気に食わない。 

村を 「村」 として愛するがゆえにたたかってきた反骨の士としては、

いきなり 「町」 に変わってしまったことで、

自分の誇りが軽いものなってしまったような悔しさを覚えているようだった。

 

3番めの実践報告は、「会津学を通じた地域の再発見」 と題して、

「会津学研究会」 代表、昭和村の菅家博昭さんの報告があった。

子どもたちが、家に残る古い写真を題材に、

お爺ちゃんやお婆ちゃんから昔の暮らしを聞き取りして、残している。

地元の文化や自然・環境との関わりあいを再発見する地元学の取り組みである。

それにしてもご自身の住所に、「福島県  " 奥会津 "  大沼郡~」 と書くあたりに、

会津人の心奥が覗いている。

司馬遼太郎さんの 『街道をゆく -奥州白河・会津のみち- 』 にも、こんな一節があるね。

 

   「福島県人ですか」

   というと、

   「会津です」

   と答えた。 その誇りと屈折は、どこか大ドイツ統一以前のプロイセン王国に似ている。

   

さて、4番バッターは、小川光さんだ。 

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福島県の園芸試験場などの研究職員を辞して、山都に入り、

灌水設備も整えられない山間部で、ハウスを使った有機栽培技術を確立させた。

それを惜しげもなく若者たちに伝えることで、

環境保全と耕作放棄地の解消、そして山間地の活性化をはかろうとしている。

研修生には経営能力も身につけさせたいと、

一人13a 程度の農地を割り当てて、そこで収穫・販売したものは自身の収入になる、

という方式をとっている。 もちろん畑づくりやハウスづくり、苗作りなど

共同で行う作業をベースにしながらであり、これを小川さんは 「桜の結」 と名づけている。

 

しかし人の育成というのは生易しいものではない。

毎週木曜日には 「ゼミナール」 を開講し、農業の基礎を学んだり、

農家や鍛冶屋などの技術者を訪問して話を聞くといった機会をつくっている。

悩みも多々あるようで、

「作物を粗末に扱う者を見ると腹が立つ」

「道具や部品がしばしば紛失したり壊れたりする。 それはすべて私が買ったもので、

 無償援助の資材が粗末に扱われるのはODAと同じだ。 できれば本人に買わせたい」

「この方式は儲からない、という人に限って、その人のハウスには

 熟しすぎて割れたトマトが大量に成っていたりする」

などなどなどなど・・・・・

いやいや、額に♯を浮かばせた小川さんと呑気な研修生たちのやり取り風景が、

微笑ましく (失礼) 浮かんでくる。

そんな愚痴をこぼしつつも、小川さんが育てた研修生はすでに100人に達する。

小川さんの世話で山都に定住した数40世帯90人、地元で生まれた子供が22人!!

活性化の課題?  - この人を見よ、って感じか。 

 

こんな功績が認められ、小川さんは今年、歴史ある 「山崎農業研究所」 による

山崎記念農業賞」 を受賞された。

授賞理由-

「省力的で経費のかからない合理的な栽培技術の追求と中山間地への就農支援を

 結合させた小川さんの取り組みは、過疎化にあえぐ中山間地の農業・農村に

 希望を与えてくれるものといえる。 

 このことを高く評価し、第35回山崎記念農業賞の表彰対象に選定する。」

 

小川さんには晴天の霹靂のような連絡だったようだ。

何を隠そう、選考にあたっては、わたくしのブログも少し参考に供されたようで、

ちょっとプチ自慢したいところである。

山崎農業研究所の説明は、HPを見ていただくとして、

僕が研究所の存在を知り、関係者の方と知己を得たのは、

発行書籍 『自給再考 -グローバリゼーションの次は何か 』 を

偉そうに論評してしまってからである。

 

小川さんの授賞式は7月10日(土)にあり、

なんとお祝いのスピーチをしろ、という要請を受けてしまった。

オレなんかでいいのかと戸惑いつつ、

こちらにとってもありがたい栄誉なのだと思って、出かけることにしたい。

 

ちなみに、小川さんは第35回の受賞だが、

小林芳正さんは第8回 (1982年) の受賞者である。

他にも、敬愛する福岡の宇根豊さんが第11回(1985年)、

一昨年の第33回には野口種苗研究所の野口勲さんが、そしてなんと、

先だっての後継者会議レポートの最後に紹介した宮古島の地下水汚染対策で、

土着菌と地域資源を活用した有機質肥料を開発した宮古農林高校環境班が、

第28回(2003年) の受賞者に名を連ねている。

こういう団体の存在は、貴重だ。

 

 

ここんところ、ネタそれぞれに深みがあって、

どうも長くなりすぎてますね。 スミマセン。

今回も終われず、「有機農業を基軸とした中山間地~」 をもう一回、

続けさせていただきます。 

 



2010年6月12日

モデルタウンから収益力向上へ・・・

 

千葉・さんぶ野菜ネットワーク事務局の川島さんから、

「山武市有機農業推進協議会」 の緊急幹事会を開くという招集がかかっていて、

今日は夕方6時からの会議に出向く予定にしていたのだが、

やんごとない事情が発生して欠席させていただくことになった。

 

緊急幹事会とは、いったいどういう事態になっているのかというと、

2年間続いた有機農業推進法によるモデルタウン事業が

昨年の事業仕分けの対象になって、それが議論の末、どういうわけか

「産地収益力向上支援事業」 という

新しく設定された枠のなかに組み込まれたのだ。

 

有機農業ををどう地域に広め定着させてゆくか、だけでなく

有機農産物の産出額を増やし、収益力を高め、所得を向上させる、

その目標(額) の設定と事業計画が求められた。

 

そこで山武市有機農業推進協議会としては、

ここ2年で進んだモデルタウン事業を後退させるわけにはいかないと

改めて事業計画書をつくり申請したのだったが、

想定外の部分で修正を要求され、申請書を書き直さなければならなくなった。

ついては急だけど、というのが川島さんからの連絡なのだった。

 


農政局からいちゃもんつけられたのは、

主に新規就農者のための研修にかかる事業予算のところだったらしい。

研修生のための宿泊施設への助成は出せない。

研修生を指導する農家への謝礼は減額せよ、とか。 

 

山武では研修生用に空き家を一軒借りている。 もはや 「いた」 と言わなければならないか。

今年も3名の研修生がいて、2人が遠方のため利用しているのだが、

それも使えなくなるとのことで、1人は山武に就農した元研修生宅に居候することになり、

さてもう1人は・・・思案中だとか。

「受け入れ農家も増えなくなる可能性がありますねぇ・・・」

と川島さんは心配している。

 

一昨日の日記で紹介した栃木の 「民間稲作研究所」 の稲葉光圀さんも、

研修所は建てたが、これからは自力運営だと腹を決めている。

 

茨城県行方市で協議会をつくってやってきた卵の生産者、濱田幸生さんからは

先日、「新予算はとらない」 とのメールが入ってきた。

「ソフト予算に費用対効果を数字で求めるような非常識なものを取ってしまうと

 身動きがとれなくなります」 とある。

「旧予算の仕分け時にはたいへんにご尽力いただきましたが、残念な結果になりました。

 有機農業支援法をつくる段階から6年、

  ~~ もう国になにも期待するものはありません。 従来どおり勝手にやるだけです。」

 

一昨日も書いたとおり、自力運営はもとより僕の支持するところだが、

有機農業者の育成という、手間のかかる部分を加速させてくれたエンジンが

モデルタウンの側面でもあった。

 

それが一気に減速して、収益の向上計画に変えて申請せよ、とは。

たった2年で似て非なる支援事業に様変わって、

計画の修正、途中断念が相次いでいる。

 

有機農業推進法の歴史的評価はまだ早すぎるけど、

法の理念を体現するべき事業 (税金の使い方) の変質が

法で目指した目標にどんな影響を与えるか、の格好の事例を見せられているようだ。

 



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