あんしんはしんどい日記: 2010年2月アーカイブ

2010年2月19日

全国水産物生産者会議

 

昨日(2月18日) は、水産物の生産者会議が開催された。

年に1回各地で開催されてきて、19回目を数えるまでになった。

今回は幕張の会議室が使われたこともあって、途中から覗いてみる。

 

今回のテーマは二つ。

その1。 加工場内でのアレルギー事故対策について。

その2。 水産加工場における第三者監査の取り組み。

 

昨年秋に開催した 加工品製造者会議 と同じテーマ設定である。

要するにこの一年、食品加工場の進化をはかった共通テーマというわけだ。

違うのは参加者の顔ぶれ(=原料分野) と講師だけなので、

このねらいとかについては、加工品会議の報告をご参照いただけるとありがたい。

 

テーマその1の講師を務めたのは、(株)大地を守る会品質保証グループの南忠篤。

加工品会議の際は、NPO アトピッ子地球の子ネットワークの赤城智美さんにお願いしたが、

今回は身内で務めさせていただく。

 

アレルギー事故は、起きてからでは遅い。

場合によっては、加害者になるだけでなく、メーカー自身、命取りになる可能性がある。

大地を守る会では、アトピッ子さんと組んで、

工場でのアレルゲン管理からリスク・コミュニケーションまでの

トータルなマニュアルを整備してきた。

僕が安全審査グループにいた時から、実に4年越しの作業である。

大地を守る会の加工食品メーカーとして、ぜひ皆さんで使いこなして欲しい。

 

次は、もうひとつ当会が独自に取り組んできた監査の意義や仕組みについて。

講師は、監査を依頼している(有)リーファース代表の水野葉子さん。

日本での有機農産物の検査を切り拓いた草分けの方である。

ちょっと意固地な個性派が居並ぶ水産関係とあって、御大の登場となったか。

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冒頭の自己紹介で、水野さんは大地を守る会との縁から語ってくれた。

アメリカ・ミネソタ州在住時代、日本語教師をしながらオーガニック食材を探し求めていた。

日本に帰ってきて、日本の有機食品の表示のおかしさを感じて、

改めてアメリカに渡って、日本人として初めてオーガニック検査員の資格を取得した。

日本ではまだ有機の認証制度をつくるかどうかでもめていた頃だ。

そんな折に大地を守る会前会長の藤本敏夫さんと出会った。

すでに病床にあった藤本さんは、これからの有機農業にとっての消費者の役割を語り、

水野さんは監査認証制度の健全な発展を約束したのだと言う。

 

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「藤本さんが亡くなった翌年、私はリーファースという会社を立ち上げました。」

「今こうして、頑張っている生産者を応援するための監査の仕組みをつくろうとしている

 大地を守る会の取り組みに関われることを、嬉しく思います。」

 

オレたちの物語は、実に深い縁でつながりながら、まだまだ続くのだ。

どうぞよろしくお願いします。  

 

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トレーサビリティ(追跡可能性) の仕組みは面倒か。 面倒だ、間違いなく。

「求められていることは分かるが、すべてコストに反映していく」 という意見もあった。

しかし・・・今のフードシステムの中で食べ物を作ることの意味を考えれば、

これは 「食」 に対するモラルと責任感のたたかいのようなものなんだと思う。

そんなことまで考えなきゃいけないのか、という気持ちは分かるけど・・・

 

一回の表示ミスは、一回しか起きない、と言えるか。

想定外の原料が使われてしまった時に、起きるはずのない事故だと済ませられるか。

それではアレルギー事故と同じように命取りになる可能性がある。

そんなことは起きない、と思っている人こそ、監査を受けてみるべきだ。

地獄に落ちる可能性が在るやないや、分かってないことこそ危険である。

 

人がやっている以上、事故は起きる可能性が常にある、のである。

その際に、即座に原因が追及でき、対策の実施と消費者への対応も含めて

迅速に対処できる体制を作っておくことは、余計なコストだろうか。

付け加えれば、クレームやお褒めの言葉の違いと製造ロット番号がヒモついて

トレースできるとしたら、これはいずれメーカー自身の評価の差になってゆくだろう。

最終的にはコストダウンにもつながるはずだ、というのが僕の核心である。

 

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生産者たちの質問は、まだ牧歌的なものだ。

そんなうちにレベルアップは進めなければならない。

 この点に関しては、僕は自分がどんなに嫌われたってかまわないと思っている。

あんたを守っているのはオレだからね、という自負があるから。

 

水野さん、野卑な水産生産者たちに最後まで付き合っていただいて、

ありがとうございました。

 



2010年2月11日

立松和平さん

 

8日、作家の立松和平さんが、逝っちゃった。

立松さんと大地を守る会のお付き合いは古く、大地を守る会の国際局が運営する

「アジア農民元気大学」(通称:アホカレ) では設立時(92年) から総長をお願いしてきた。

大学といっても校舎があるわけではなく、" 畑が校舎、農民が教授 "  をコンセプトに、

定期的に講座を開いたり、海外の研修生受け入れなどを行なっている。

また 「総長」 といっても、ボランティアでお願いしているもので、

逆に肩書きを持つがゆえに、立松さんには毎年年末に 「総長講話」 という講義を

開いていただく決まりになっているという、まあなんと言うか、

実にほのぼのとした " お友だち " 関係なのである。

昨年の12月にも講話をお願いしたばかりだ。

 

訃報が届いた9日のこと。 機関誌 ( 「NEWS だいちをまもる」 ) に書いた

稲作体験の記事の校正紙をもって編集担当者の席に行った時、

その彼がパソコンに映し出されたニュース速報を見ていて、

「立松さんが亡くなった? ええッ? この情報、嘘じゃないですかね。」

僕も驚いて画面に釘づけになる。

手元の校正紙の別のページには、昨年12月に行なわれた総長講話の囲み記事があった。

 

僕らには突然の訃報だったのだが、長年の友人である藤田会長のもとには、

1月下旬から危篤の状態である旨の連絡が入っていたとのこと。

 

僕には、ここで立松さんのことを語れるほどの交友があったわけではない。

ただ、多少の思い出もないわけではないのだ。

 

初めて立松さんに会ったのは、1987年の春だった。

当時発行していた大地を守る会の機関誌 「大地」 が、100号を迎えるにあたって、

記念の対談というのを企画した。

お願いしたのは、立松和平  Vs  山本コータロー。

会の機関誌にビッグな名前を登場させるとあって、

編集委員として担当させていただいた僕は、内心ちょっと自慢げに、興奮していた。

若かったね。

都内のレストランで段取りし、お二人をお迎えした。

 

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2時間ほど好きなこと喋っていただいて、払った謝礼も1万とか2万とか、

そんな額だったが、お二人は 「楽しかったよ」 と言って帰って行かれた。

生き方とか価値観を見直さなければいけない、という共通認識で、お二人は語り合っていた。

そういう言葉は今もあちこちで耳にするが、しかし時代がまったく変わってないわけではない。

長い目で見れば、少しは風向きも変わってきたようにも思う。

立松さんは小説を書くだけでなく、世界を旅し、テレビにも出たりして、

新しい風を吹かせようとしていた。 

訥々とした語り口ゆえに強い精悍さは感じさせないが、間違いなく行動する作家だった。

あの栃木弁がもう聞けないのは寂しい。

 

88年には 「いのちのまつり」 という一大イベントに挑み、

立松さんと藤田会長はともに実行委員としてタッグを組んで、農協の親玉と張り合った。

僕は一時その事務局に出向させられ、立松さんの姿を身近で眺める時間をもらったのだが、

打ち合わせが終わったある晩、皆で一杯やろうと街に繰り出した時、

「オレ、今日が締め切りなんだよう。 今夜のうちに 〇 百枚書かないといけないんだよう」

と逃げていかれた。 2百枚だったか3百枚だったかは忘れたが、

プロの作家というのは恐るべしだなぁ、と感動したのを覚えている。

 

あれからずっと、立松さんはホント、大地を守る会をひいきにしてくれた。

パンフレットなんかに一文ねだると、すぐに書いて送ってきてくれた。

「この時代に大地を守る会が存在することが、嬉しい」

みたいなことをさらさらと書いてくれるのだった。

あの方の期待に、僕らは応えてこれたのだろうか・・・・・

実にたくさんの大きな方々に支えられてきたものだから、

逝かれるたびに、そんな思いに落ち込んでしまう。

 

62歳、早すぎます。

口惜しいけど、深く深く感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。

 



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