大地を守る会: 2007年10月アーカイブ

2007年10月15日

成清忠蔵さんを偲ぶ

 

先週はずっと外での飲み会が続き、

記しておきたい話題は増えるものの、全然書くことができなかった。

ひとつずつ、書き残していくことにしよう。

 

まずはこの報告から始めなければならないだろう。

13日(土)の夜、品川プリンスホテルで行なわれた 「成清忠蔵さんを偲ぶ会」。

 

成清(なりきよ)忠蔵。

有明の海苔でお馴染み、成清海苔店の親父さんだ。

今年5月21日、63歳で永眠された。

気持ちよく寝て、朝起きたら、すでにこと切れていたという。

安らかな笑顔だったと-

その人の人生を象徴するような潔さ。

 

2000年から4年間、大地を守る会の生産者理事を務められた。

豪放でいて人への気遣いを忘れることなく、

同じ水産物関係の生産者からの信頼も篤く、また消費者のファンも多かった。

 

東京で何としても偲ぶ会を、

ということで全国から成清を愛した人たちが集まった。

 

冒頭で挨拶する藤田和芳・大地を守る会会長。

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   成清さんはとてもシャイな方で、あまり口数は多くはなかったが、

   海苔のこと、海のこと、環境のこととなると、実に熱く語ってくれた。

 

   酒が好きで、

   理事会の会議よりも、そのあとの一席を楽しみにしていたフシもあるが、

   皆を楽しませながら、時に剛毅な一面を垣間見せた。

 

   個性的な生産者が多い水産物の中で、

   成清さんは重石のような役目を果たしていて、

   専門委員会 「おさかな喰楽部」 の魂の部分を育ててくれた・・・

 

成清さんへの献杯の発声は、

「なんとしても水産から大地を守る会の理事を出そう!」

と訴えて成清さんを立てた、伊東の島源商店・島田静男さん。

 

マイクの前に立った途端、絶句。

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奥さんの顔見たら、思わず泣けてきちゃったよぉー。

男・島源、こちらもちょっと涙もろい人情の人である。

 

参加者から次々と、忠蔵さんの思い出や感謝の言葉が述べられる。

 

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四万十の鰻・加持養鰻場の加持徹さん。

 

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理事として同期を過ごした、新農業研究会・一戸寿昭さんも青森から駆けつけた。

 

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東京海洋大学の先生、川辺みどりさん。

大地の会員で、おさかな喰楽部のメンバーでもある。

成清さんが毎年秋に催してくれた 「有明海海苔摘み交流会」 にも参加している。

 

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実行委員を代表して、佃煮の遠忠食品・宮島一晃さん。

 

消費者会員の方々も次々とマイクの前に立っては、思い出を語る。

 

   2月の東京集会のホームスティで泊まっていただいたときにね、雪が降ったんです。

   雪を見ると思い出すって言うんです。

   若い頃、サツに追われて神社の床下で雪に震えながら隠れたんだとか。

   なんでサツに追われたのかは、聞けなかったんですけどね。

 

体を気遣って、「これを飲むといい」といって、何とかの水を送ってきてくれた話とかも出る。

 

僕にもあった。

9年前にガンの手術をして暫くたったある日、自宅に届いた布団袋のようなでかい荷物。

しかし、軽い。

開けてみれば、大量の乾燥スギナである。

 

「これを煎じて飲んだら、ゼッタイよおなると」

 

誰も彼も忠蔵さんから何かをもらっていたのである。もちろんモノという意味ではなくて。

ひとつの生き方を、とでも言えるだろうか。

まるで '愛は惜しみなく' のように。

 

いつも周りの人の体調を心配しながら、

自分のことは頓着せず、

ただ豪快に飲んで、実に恬淡として小気味よく、逝った。

 

ただ・・・早すぎるよ。

もっと自分をいたわってほしかったよ。

(彼は 「わしも飲んどる」 とか言いながら、いやゼッタイ、スギナは飲んでなかったと思う)

 

でも、仕方がない。それが成清忠蔵なのだ。

 

みんな悔しいけど、成清と今日も飲んでいる、という感じで、つとめて明るく

「また飲もう。待ってろよ!」 と偲ぶ。

 

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左から、島源・島田静男さん、遠藤蒲鉾店・遠藤由美さん、札幌中一・橋本稔さん。

大地の水産物生産者を代表する元気印。右端は藤田会長。

 

「藤田さんの偲ぶ会は、盛大にやらんとなぁ」

「まあまあ、皆さんの弔辞は用意してますよ。どっちが先かな?」

 ...という会話だったかどうかは、知らない。

 

偲ぶ会を準備した実行委員会から、忠蔵さんの奥様、君代さんに感謝状が渡される。

渡すのは元消費者理事、佐々木洋子さん。

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最後に挨拶する、ご子息・忠さん。

今や押しも押されもせぬ成清海苔店・2代目である。

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   いまも親父はここにいて、皆さんと一緒に楽しく飲んでいます。

 

・・・グッときて、あとは覚えていない。 凛として、立派な跡取りだ。

次の時代を作ろうぜ。親父のためにも。

故人を偲びつつ、実はもう一度、僕らは自分の生き様を振り返り、励まされているのだ。

成清の友人として、恥ずかしくない生き方をしよう。

またいつか、この親父から

「おお、こっち来いって。いいから、ここで飲めって言うとるとよ」

と言ってもらえるために。

 

ただ心配なのが、あの世でセクハラ騒ぎを起こして追放されてないか、だ。

すべてが許される世界ならいいんだけどね。

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いつも大地を守る会の発展を願い、労を惜しまなかった成清忠蔵さん。

ありがとうございました。

 



2007年10月 6日

「野菜は文化」を語り続けた人-江澤正平

 

まさか2週続けて朝日・夕刊の「惜別」欄を紹介することになろうとは-

 

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(10月5日付朝日新聞・夕刊)

 

「野菜と文化のフォーラム」名誉理事長、江澤正平さん、95歳。

野菜の先生の先生、八百屋界のカリスマ、

私には'ゴッドファーザー'のような圧力すら感じさせられた、長老。

怖そうで、でも実に優しかった、

大正デモクラシーの匂いと明治人の気骨を持った人 (と好き勝手に評しています)。

 

9月14日、そのドンが逝った。

 

この方もまた私が思い出を語るのは 'おこがましい' のだが、

僕には僕の、語りたい思い出もあるのである。


まずは、1990年9月7日、

茨城県十王町(現日立市)で関東の生産者の集まりがあった。

そこで記念講演をお願いしたのが江澤正平さんだった。当時すでに78歳。

 

江澤さんは矍鑠(かくしゃく)と胸を張り、生産者を挑発、いや叱咤激励した。

 

   高度経済成長などで都市に人口が集中しだし、野菜の指定産地制度ができ、

   量の確保に走り出してから野菜が変わってきた。

   農薬や化学肥料が大量に使用されるようになり、外観だけで見るようになってしまった。

   おかげで農家は自分が食べるものと出荷するものが違うようになったが、

   それは農家のせいではない。

   '食べもの'ではなく、流通の都合に合わせた物品を作らざるを得ない状況の中で、

   本当の食べものを作っている皆さんの前でお話できることは光栄なことです。

 

   生産者から流通者、そして消費者への、野菜についての正しい情報の流れができていない。

   生産者はもっと品種の違いによるおいしい食べ方の違いなどについて

   伝えていかなければならないし、流通者は野菜に対する知識をもっと持たなければならない。

   消費者が外観で選ぶからといって見てくれだけで流通させるのではなく、

   もっと勉強して本当の価値を伝えなければならない。

 

   本当においしい品種がまだ各地に残っている。

   それは風土と調和している品種である。

   これを守っていくことは、まさに文化を守っていくことだ。

   農家がそれを守り、ただしい情報と一緒に消費者に伝えてゆき、

   消費者がしっかりした受け皿となることで農家も維持できる。

   そういう関係を作っていくという意味で、大地の役割に期待したい。

   安全でおいしい野菜は、そういった「関係性」で守られていくんだよ。

 

   食べもの全般に様々な薬が使われてきたが、

   その影響はこれから本格的に現れてくるだろう。

   環境問題も悪化する。 皆さんの役割はますます重要になる。

 

江澤さんの講演のあと、生産者が順番に壇上に立って発言されたが、

僕の記憶に残っているのは、つくばの中根通夫さん(故人)だ。

 

   野菜が文化なら、オレたちゃ文化人だぁ。

   農業は最高の仕事だよ!

 

翌日の解散の際、中根さんは握手してきて、

「いやぁ、いかったァ。 エビスダニくん!がんばるから」

 

僕にとって、生産者会議の意義に確信を持った会議の一つである。

もちろん私の力ではない。江澤正平のすごみが生産者に活力を与えたのだ。

 

江澤さんの信念は、その後、あちこちで形になっていく。

加賀野菜に○○の伝統野菜・・・地域の文化を語る野菜が世に出てくる。

すべて江澤DNAである。

 

西武系列の青果販売会社の社長を辞し、60代後半からの伝道人生。

頭を垂れるしかない。

 

そして1997年、僕が当時の広報室から大地物産青果事業本部に異動した時、

思わぬ電話がかかってきた。江澤さんからである。

 

「エビスダニ君が青果の方に来たってんで、何かお手伝いできることもあるかと思ってね」

 

元帥のような人からの電話に起立する二等兵、の図。

 

僕はこう見えても度胸はある方で(世間知らず、という意味)、

88年だったか、巨大な圧力団体・全国農協中央会(全中)の会長

と同席する羽目になったホテルの一室での会食でも、

順番に出される食事を一人パクパク食べて、

「せっかくの料理をそのまま下げさせる農協の親玉って何よ」って目をして、

ウチの藤田会長が恥をかいたと言われたバカである。

 

でも、江澤さんは怖かった。正直。

自分の弱さを見透かされるのが分かっていたのだ。

 

当時の大地物産・戸田センター(埼玉県戸田市)の厨房で、

野菜の食べ比べ会が行なわれるようになった。

江澤さんは謝礼も足代も断って、貧相な大地の厨房まで足を運んでくれた。

 

98年に僕が病気で入院した時には、突然見舞いに来てくれ、

「僕なんか何度切ったか。君もようやく一人前になれるね」 と笑って帰っていかれた。

江澤さんは、その時も癌を抱えていたはずだ。

 

寝てる場合じゃないと思った。

 

国立癌センターの公衆電話から電話をもらったこともある。

「僕はこれから手術だから、言っとくけど・・・」

あーせーこーせーと言われたはずなんだけど、その気力に圧倒されて、

実は何も憶えてない。

 

江澤さんは大地にとって、怖い親父そのものだった。

あの人に見られている、と思うだけで身が締まった。

江澤さんから与えられた命題は、今の とくたろうさん に受け継がれている。

大地の中では珍しく、しぶとくあっため続けて誕生した企画である。

 

これは5年前、大地の六本木分室で催した、卆寿記念の一枚。

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この日、江澤さんは青年のように言った。

「いま、マルクスの資本論を読み直してるんだけど、目が弱くなってね」

青果問屋に生まれ育った江澤青年が、実は戦前のリベラリストだったことを知る。

 

90で資本論かよ・・・

 

ちょうど半分しかない若造には返す言葉もない。「ほえー」と感心するのみ。

飽くなき学究の徒とは、こういう人のことだ。

 

僕はその夜の懇親会で、ようやく傍で話し込むことができた。

 

その後も、江澤先生を招いての野菜の食べ比べは断続的に続いた。

市川塩浜のセンターに来る時も、車で迎えに出ると言うのに、

「君ねぇ。僕には足があるんだよ」 と叱りながら、

「最近目が見えなくなってね。時々電信柱にぶつかるんだ」

-だから迎えに行くって言ってんじゃん! このくそじじぃ!

 

話が長くなってしまいましたね。すみません。

 

あの気骨、いつまでも 'もっと知りたい' いや '本当のことを知りたい' と学び続ける意欲。

粋な江戸っ子の気質を持ち、お洒落で、

しかも、これぞ真のデモクラット、と思わせる見識。

 

最近は奥さんに本を読んでもらって勉強していると聞いていた。

 

「惜別」 の記事によれば、

伴侶のチヨさんが7月に亡くなられ、後を追うように旅立った、とある。

 

ああ・・・出来の悪い教え子だったな。

 

亡くなられて1週間ほどを経て、

家族で葬儀を済ませたこと、生前のご厚情に感謝する旨の葉書が届いた。

江戸っ子・江澤正平、最後の指示だったか。

 

合掌。

 

<追記>

江澤さんと大地の出会いは、実は創業期にまで遡ります。

大地を守る会の機関誌『大地MAGAZINE』で、

藤田会長の追悼文が掲載される予定ですので、ぜひご一読下さい。

 



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