雑記帳: 2007年9月アーカイブ

2007年9月29日

映画監督 佐藤真さんの思い出

 

こんなタイトル自体、おこがましいのかもしれない。

会ったのは2度だけだから。

 

ドキュメンタリー映画監督、佐藤真(まこと)さん。

9月4日、49歳の若さで逝ってしまった。

 

訃報はすでに報道で知っていたが、

今日(9/28)の朝日新聞夕刊の 「惜別」 欄を見て、書きたくなった。

 

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佐藤さんの監督第1作は 『阿賀に生きる』 (完成1992年)。

89年から3年がかりで、新潟水俣病の老人の日常を淡々と追ったドキュメンタリー。

佐藤さんはスタッフとともに現地で共同生活をしながら、カメラを回し続けた。

芸術選奨文部大臣賞新人賞など、いくつもの賞をとった、彼の記念碑的作品である。

 

でも僕の思い出は、その前の助監督時代の作品

『無辜なる海-1982年水俣-』 (1983年)になる。


水俣病に関するドキュメンタリー映画では、

70年代からの土本典昭さんの一連の作品 (たとえば 『不知火海』 ) があるが、

この 『無辜(むこ)なる海』 は、

水俣病の原因が明らかになり、たたかいから補償へと移る時代にあっても、

なお苦しみ続ける住民の暮らしを綴ったものだ。

 

苦しみを埋めて暮らすしかない日常を写し取りながら、私たちに問いかける「何で?」。

 

83年に映画が完成したあと、佐藤さんは映画の上映活動に奔走する。

社会派のドキュメンタリー映画というのは、制作費用を工面しながら作り上げ、

そのあとはスタッフ自らフィルムを持って行脚するような世界である。

 

佐藤さんが、水俣病支援などで関係があった大地を訪ねてきたのは、

大地の配送センターが杉並区から調布市深大寺に移転して間もない84年だったが、

季節の頃は -思い出せない。

 

僕も若かった。

新しいセンターで、まだ敷地にも余裕があった。

この広い倉庫を活用して、地域の人たち向けに何か文化的な催しを開くのはどうか、

なんて同僚と飲みながら話し合ったりしてたのだ。

 

僕は佐藤さんと会い、話を聞き、すぐさま企画書を書いた。

 

   -第1回 深大寺文化フォーラム-

       『無辜なる海』 上映会

     &佐藤真助監督と語る夕べ!

 

社長の決済は簡単だった。 「いいよ。やればいい。でも金はない」

 

フィルム・機材持ち込みで佐藤さんに払った謝礼は、足代も込みで、

......たしか2~3万円程度だったと思う。

それでもおそるおそる会社に稟議を上げたのを憶えている。

 

手描きのチラシを作って、敷地内に併設したお店に置き、近隣にまいたりした。

 

来場者は -10数人だった。

(お茶とお茶菓子までつけたのに...)

 

それでも佐藤さんは映画を回してくれ、上映後も撮影秘話などを語ってくれた。

「水俣病は終わってないんです」......参加者と親密な懇親会となった。

 

それ以来、佐藤さんと何度か電話で話すことはあったが、

会うことはついになかった。

 

風の噂で、ふたたび阿賀に入ってカメラを回していると聞いてはいたが、

2004年に完成した 『阿賀の記憶』 は、まだ観ていない。

 

惜別の記事によれば、

「仕事場には、本や映画の批評や著書の構想などを記した膨大なメモが残されていた」

という。

「戦後日本を問いたい」 とも話していたそうだ。

 

切ない...

 

彼はずっとあれからも、食えないドキュメンタリーの世界で、

原点にこだわり、たたかい続けていたのだ。

 

僕の企画書-「深大寺文化フォーラム」は、たったの2回で終わっている。

 

ほんの一時(いっとき)とはいえ、心を通わせた同世代の者として、

このままでは終われない。

 

ご冥福を祈りつつ-

 



2007年9月18日

磯辺行久と男鹿和雄と-『明日の神話』(続)

 

岡本太郎作 『明日の神話』

 

高さ5.5m、全長30mの巨大壁画。

この絵のコーナーだけは写真撮影が許可されている。

 

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この壁画は1969年、メキシコで制作された。

翌年開催される大阪万博のモニュメント 『太陽の搭』 制作と同時並行して作られたという

天才・タロー力技の作品である。

 

メキシコ・オリンピック景気をあて込んで建設されていたホテルの

ロビーに飾られる予定だったが、ホテルは建つことはなく、

絵は各地を転々とするうちに、ついに行方不明となってしまった "幻の大作" 。


 

発見されたのは、34年を経た2003年9月。

メキシコシティ郊外の資材置き場で、崩壊寸前の姿で眠っていた。

再会を実現させたのは、行方を捜し続けた太郎のパートナー岡本敏子さんの執念である。

 

敏子さんは、その後1年がかりの交渉で壁画を入手し、直後、急逝する。

 

再生を託されたプロジェクト・チームによる修復作業が始まる。

 

そして昨年6月、 『明日の神話』 は見事に蘇った。

 

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原爆が炸裂した瞬間。

きのこ雲の増殖。 燃え上がる骸骨。 逃げまどう無辜の生きものたち・・・・・

 

壁画の再生を信じて逝った敏子さんは、語っている。

 

   これはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、酷い、被害者の絵ではない。

   燃え上がる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。

   巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。

  

   外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。

   画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。

   あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、

   それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃え上がる。

 

   その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。

   残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、誇らかに 『明日の神話』 が生まれるのだ

   岡本太郎はそう信じた。

 

   21世紀は行方の見えない不安定な時代だ。

   テロ、報復、果てしない殺戮、核拡散、ウィルスは不気味にひろがり、

   地球は回復不能な破滅の道につき進んでいるように見える。

   こういう時代に、この絵が発するメッセージは強く、鋭い。

 

   負けないぞ。絵全体が高らかに哄笑し、誇り高く炸裂している。

 

                            <昨年の初公開でのパンフレットから>

 

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完成して37年、太郎没後10年を経て、蘇った壁画は、

この 「時代」 への、太郎と敏子の "執念のメッセージ" そのもののようだ。

 

負けないぞ!

僕にとっては一年ぶりの再会。もういちど炎をもらう。

 


男鹿和雄展は観れなかったけれど、満足とする。

 

それにしても、ひしめき合う行列に、男鹿和雄 (とジブリ) の力を思う。

トトロの森に誘われて集まる人、人、人。

この半世紀の間に、私たちが捨て去ってきた世界が、実に大切なものであったことを、

我々に思い知らせている。

「男鹿和雄展」入場者は、この日で20万人を突破したそうだ。

 

時間を超え、空間を超えて迫る、3人の巨匠が、ゲージュツの力を教えてくれた一日。


さて、深川めしでも食べて帰るとしようか。

深川江戸資料館のある資料館通りでは、「かかしコンクール」 開催中。

 

いまふうのかかし。

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カゴの中のお札は、盗まれそうで心配です。

 

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これじゃ、かえって鳥の巣になるんじゃない?

 

通りもけっこう楽しめる。

 

しかし・・・・・もう午後3時近いのに、

資料館通りにある深川めし屋さんもまた、行列だらけ。

 

あきらめて帰る。

やけにクソ暑い、9月中旬の日曜日でした。

 



2007年9月17日

磯辺行久と男鹿和雄と-『明日の神話』

 

9月16日。

9月に入って初めて得た休日。しかも連休。

ずっと行きたいと思っていた場所に向かう。

江東区・深川にある東京都現代美術館。

 

会員の方にはしばらく前にチラシを配布させていただいた、

トトロの森を描いた人-ジブリの絵職人 『男鹿和雄』 の絵画展が開かれている。

 

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でもお目当てはこれだけではない。

同時開催されている 『磯辺行久展』 に加えて、

岡本太郎の幻の大作壁画-『明日の神話』 が観れる。

 

休日の男鹿和雄展は2時間待ち、という情報は入っていたが、

「今日しかない!」と決意して出かける。


地下鉄・清澄白河駅を出て、資料館通りから三ツ目通りへ。

人が多い。この流れは・・・どうやら目的地は同じようだ。

美術館に入る前に、行列が見える。 すでに「こら、あかん」の心境。

 

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ひと目見ただけで、へたる。

 

あっさりとあきらめて、長蛇の列を横目に「磯辺行久」展に。

こちらは落ち着いて観れる。

 

磯辺行久-美術家にして環境計画家、72歳。

青年時代の作品から最近作まで半世紀の作品が展示されている。

 

正直言って、前半期の前衛芸術は私の感性では理解不能。

「50年代の抽象と、日常的なイメージをコラージュする60年代のポップアートをつなぐ作家」

(チラシより)とか言われても、私にはその基礎知識もない。

 

ワッペンのようなものを並べたレリーフは、「意味分かんないよぉ」。

意味を考えること自体がすでに失格なのだろうが、とにかくお手上げ。

 

でも、初期の油彩や版画の数点と、昔の箪笥を使った作品は、何とな~く、気にいる。

この骨董品の引き出しを開けて、飛び出してくるものを、子供のように想像したりする。

200年くらいの時間の間隙が同居する感覚。

逆にここに潜ったら、僕は 「今にも」 江戸時代の子供たちと出会えるのかもしれない。

こんなふうに観ていいのかどうなのか、分からないけど。

 

磯辺は65年に渡米し、環境計画を学ぶ。

70年に製作された 『アース・デーのためのエア・ドーム』 が再現されている。

巨大なビニール・ドームの中に癒しの音楽が流れる、不思議な空間。

1970年、このさらに巨大版の中でコンサートや集会が開かれた。

 

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<チラシより>

 

『EVERYDAY IS EARTHDAY 』(毎日がアース・デー)のポスターもこの人の作品。

 

2000年には「越後妻有アート・トリエンナーレ」なる芸術イベントにて、

『川はどこへいった』 という作品に挑戦する。

 

ダムで直線化する前の蛇行していた川の流れを、全長3.5kmにわたって、

田んぼの中に黄色い旗を立てて示す。

 

3年後の同イベントでは、

数万年前の信濃川が今よりも25m(だったか)高い位置に流れていたことを示す作品

『天空に浮かぶ信濃の航跡』 を製作。

 

これらは地元住民との協同で行なわれた。

 

しかしとても美術館に収まるものではない(というより、本物は 「その場」 でしか観れない)

ので、展示されているのは当時の写真と映像とデッサンである。

これはどうしても現場でないと感じ取れない。

 

しかし、芸術家なる人たちの空間的かつ時間的想像力の広さは、やっぱり違うのだ。

その地の地形全体を舞台にして、見る人の想像力を何万年も前の 「ここ」 に運ぶ力。

 

いつかこんなスケールで 「環境」 を表現してみたいものだ、と夢見る。

芸術作品を見る目はないけど、こういう刺激が嬉しい。

 

さて次は-『明日の神話』。

去年の7月に初公開された時は、汐留(日テレプラザ)で並ばされたが、

今日は、こちらも人は思ったより少なめ。

 

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《すみません。今日はここまで。続く》

 



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