ヒストリー

走り続けて40年、大地を守る会の原点をたどる

【第34話】コメをめぐる挑戦の歴史(その2)

1986年9月、GATT(ガット:関税及び貿易に関する一般協定)がウルグアイラウンドと呼ばれる多角的貿易交渉に移るタイミングで、日本に激震が走る。

全米精米業者協会(RMA)が日本のコメの市場開放を要求してアメリカ通商代表部に提訴したのだ。

もちろん農協をはじめとする農民団体はこぞって反対の狼煙を上げるのだが、さすがに主食に対する門戸開放圧力とあって、消費者団体も一斉に反応した。

 

国内の空気がざわめくある日、僕は藤田社長から呼ばれ、配送の帰りに目黒にある日本消費者連盟(日消連)に立ち寄って会議に出るよう指示を受けた。

日も暮れた頃、共同購入の配送を終えた僕は、狭い空き地に2トン車を乗り入れ、集金袋(当時はまだ現金回収だった)を抱えて日消連の会議室に入った。

そこには消費者団体や有機農業団体の他、学者にジャーナリスト、出版社の農山漁村文化協会といった顔ぶれがあった。

「生産者と消費者、あるいは各陣営が別々に行動するのでなく、垣根を越えて一緒に運動を展開する組織をつくろう」

それは各団体の共通の思いだった。異論が出る筈はなく、まもなく「米の輸入に反対する連絡会(略称・米反連)」が結成された。翌87年には「ジョーダンじゃないよ!コメ輸入」と題した全国集会を開催。大地を守る会は事務局団体となり、といっても担当は僕一人だったが、チラシやチケットづくりに夜なべしたことを覚えている。

これをきっかけに、大地を守る会は各種の反対行動にも積極的に関与していった。

そして全国農業協同組合連合会(全中)と組んだ「いのちの祭り」や国際シンポジウムの開催などビッグイベントを経験することになる(3132話参照)。

 

ただし、コメの輸入に反対する論理と方法論は、一枚岩というワケにはいかなかった。

多くの団体は、当時存在していたコメの流通を統制する食糧管理制度(食管法)を守ることで輸入を阻止できると考えていたのである。

しかしすでに実態はザル法状態だったし、食管法の枠内でも国の判断で輸入することは可能である。しかも食管制度を守るとは、減反政策を認めることにもつながっていた。

「食管法を守れ」で日本のコメが守れるのか、という論争に発展したのも必然的な流れだったと思う。しかし当時、食管制度無用論は市場開放派の主張でもあり、これは運動の分裂というデリケートな問題を孕む議論だった。

 

ここで反LL牛乳の運動(151617話参照)を担ってきた団体が登場する。

酪農団体と消費者団体が連携してLL牛乳の常温流通を阻止し、低温殺菌牛乳を実現した経験を米でもやろうじゃないか、というのだ。

輸入反対のハチ巻きを締めて「食管法を守れ」と叫びながら、減反で田が荒れるのを座視するのでなく、生産者と消費者の提携によって新しい仕組みを創り、日本の水田を守ろう。

具体的には、コメの産直流通の道を開くことだった。

 

食管制度には未来がない。しかしこの主張に賛同したのは有機農業派くらいで、農民団体はもとより消費者団体からも「過激な主張」としか見られなかった。ザルとは言われても法律は残っていたし、実際に米を許可なく流通・売買すれば、それは犯罪である。自由米(ヤミ米)は見逃しても、挑戦的な確信犯は放ってはおかないだろう。

 

そうして1987年秋、「日本の水田を守ろう!提携米アクションネットワーク」が誕生する。

「日本の水田を守ろう基金」が設立され、基金に賛同いただいた方には、生産者からコメが贈られる。縁故米制度を援用した形で生産と消費をつなぐ運動が始まった。

事務局メンバーとして参画した僕に、藤田社長は「何かあったら君がお縄を頂戴するように」とジョークをかました。オッケーですと笑って応じたものの、内心はドキドキだった。

 

呼びかけ人には、減反政策反対の論客でもあった秋田県大潟村の黒瀬正さん(現「ライスロッヂ大潟代表」)、山形県白鷹町の加藤秀一さん(故人、「しらたかノラの会」元代表)が生産側から名を連ねてくれた。現地は想像以上に厳しい圧力を受けた。秀一さんは地元での役職をすべて解任され、村八分のような状態になった。

黒瀬正さん

黒瀬正さん。無農薬でのコメ作りにまい進するかたわら、八郎潟の源流部で広葉樹の森づくりなどの活動にも取り組む。

 

 

ここで賛同者の一人に、高知県窪川町の島岡幹夫さんがいたことを挙げておきたい。

窪川原発計画を命がけで阻止し、分断された町を有機農業で再生させようと尽力されていた。原発賛成派だった農家も巻き込みながら無農薬・減農薬の仲間を広げ、食べる人とつながることで窪川を環境に優しい自然豊かな町として立て直す。島岡さんは、これこそが「原発反対運動の完結編」になるのだと語った。

「提携米」は生産(田んぼ)と消費(台所)をつなぐ意味を改めて伝える運動となった。

島岡幹夫

島岡幹夫さん。農業だけでなく地元林業の再生からアジアの農民支援まで、その活動は多岐にわたっている。

 

 

結局のところ食糧庁(当時)は黙認を決め込み、僕らは拍子抜けしたのだったが、米反連自体は減反論争のなかで空中分解してしまった。

食管制度はさらに形骸化してゆき、コメの輸入をめぐる攻防戦は、1993年の大冷害によるコメ不足と緊急輸入(「平成の米パニック」と言われた)というドサクサの中でウルグアイラウンド合意となり、95年からミニマムアクセス(最低限の輸入機会、義務ではない)米という形で輸入が既成事実化されていった。

法律は「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(食糧法)となって、戦前から続いた食糧管理法は消滅した。

減反政策が制度上廃止されるのは、さらに10年後の2004年である。

そして今、滋賀県の面積に匹敵する農地が耕作放棄地となって荒れつつある。

高知県土佐町の棚田

高知県土佐町の美しい棚田。この田を守っているのは「食べる人」の存在である。

 

戎谷 徹也

戎谷 徹也

戎谷 徹也(えびすだに・てつや、通称エビちゃん) 出版社勤務を経て、1982年11月、株式会社大地(当時)入社。 共同購入の配送&営業から始まり、広報・編集・外販(卸)・全ジャンルの取扱い基準策定とトレーサビリティ体制の構築・農産物仕入・放射能対策等の業務を経て、現在(株)フルーツバスケット代表取締役、酪農王国株式会社取締役、大地を守る会CSR運営委員。 2008年農水省「有機JAS規格格付方法に関する検討会」委員。2013年農水省「日本食文化ナビ活用推進検討会」委員。一般財団法人生物科学安全研究所評議員。