2009年5月25日
BPA10周年
昨日は " 野卑な連中たちが生き残っている街 "
なんて書いてしまって、船橋の皆さん、失礼しました。
でも決して侮蔑的に言ったのではなくて、僕は好きなんです、あの雰囲気が。
きれいになったJR船橋駅南口から京成線周辺の賑やかな商店街を経て、
国道14号線の交差点を渡って京葉道路を潜る手前あたりから、町の空気が変わる。
古くからの漁師町・ふなばし本来の世界へと入り込むのだ。
四国の小さな漁村で育った僕は、港というものを見ただけで、
今でも血がぞわぞわと震えたりする。 なんたって、風が違う。
漁船が静かに停泊してカモメがゆったりと鳴きながら舞う風景も好いが
(ウチの田舎はカモメでなく、トンビのヒュウ~ポロポロ~だけど)、
魚が水揚げされ漁師たちが罵声を浴びせ合いながら動き回る、あの喧騒のほうが断然イイ。
生きている実感がある。
オレこそが一番だと言わんばかりの漁師たちの騒ぎ、あれは子供には恐怖であった。
豪放でいて優しくて、それは今でも " 畏敬 " として生きている。
1999年7月、そんな漁師と船橋市民が一緒になって、
海に親しみ、海を守りながら、海を活かした街づくりを提案し活動するNPOを結成した。
BPA-ベイプラン・アソシエイツ。 代表・大野一敏。
その設立10周年を記念しての祝賀会である。
10周年といっても、大野さんたちの海を守る活動は昭和40年代、
つまり1970年あたりまで遡る。
東京湾の埋め立てに疑問を持ち、憩いの場としての海辺の価値を提言し、
水質を守るためにも漁業の大切さを訴え、
市民との接点を " 祭り " といった漁民らしい仕掛けで演出した。
港でジャズ・フェスティバル、漁船に子どもたちを乗せて東京湾クルージング、
こういった活動を先駆けたのが、大野さんだ。
その間にも大野さんは、市民の力で湾岸の保全を都市条例として制定させた
サンフランシスコ湾の事例を自力で翻訳・出版している。
実は、これこそが三番瀬保全活動の原点となった。
歴史を振り返る大野一敏。
こうやって改めて見ると、僕らが初めて大野さんに接触したのは、
大野さんたちがBPAを結成した、つまり活動が新たな展開に入った時だったわけだ。
それは必然的と言えるような糸でつながったと思える。
触媒の役を果たしたのは、シグロという映画制作集団だった。
故・土本典昭さんが撮った水俣の映画シリーズをご存知の方には馴染みの名前だろうか。
そのシグロが、秩父・大滝村のダム建設で沈む村を取材して、
『あらかわ』 というドキュメンタリー映画を制作した (監督は萩原吉弘さん)。
その映画で、大野さんは荒川の終着点である東京湾の漁師として登場する。
「オレたちはここで漁をしながら、上流がどうなっていっているのかを感じ取っている」
あのセリフは、衝撃だった。
完成して間もなく、高知に生産者が集まった会議で上映会を企画して、
萩原監督に講演をお願いした。
次は監督が訪ねてきて、秩父で農業をやっている長谷川満 (大地を守る会理事) と
色々と情報交換をしているうちに、『続・あらかわ』 の構想がつくられた。
『続・あらかわ』 では大地を守る会の生産者が随所に登場する (実はエビちゃん一家も)。
そんな折に、当会の専門委員会 「おさかな喰楽部」 が大胆な企画を立てた。
秩父(荒川の源流) で水産生産者の会議をやろう。
魚屋たちが秩父困民党の里にやってきたのだ。 萩原監督にも再度お越しいただいた。
そこで次は、『続・あらかわ』 の上映と大野さんの講演を、という話になって、
電話を入れたところ、間髪を入れず 「そんなことより大地でよぉ、アオサを何とかしないか」
という逆提案を受けたのだった。 電話口でビビッ!ときたのを今でも覚えている。
東京湾アオサ・プロジェクトは、そうして始まった。
上映会が 「アオサ・プロジェクト出航宣言のつどい」 なる集まりになって、
2001年からアオサ回収が始まる。
考案したメッセージは -海が大地を耕し、有機農業が海を救う!
あれから、アオサの回収-資源活用をシコシコと続けてきた。
しかし物事は、見極めるまでは粘り強くやり続けるものだと、つくづく思う。
千葉県が、国 (国土交通省) が、アオサの資源リサイクルの相談にやってくるようになった。
こうして次の段階の扉が用意されようとしている。
誰もが認めるパイオニア、大野一敏。
カッコよく、ジャズ・ソングを唄う大野一敏。
このたび古稀(70歳) を迎えたとのこと。
スポーツ・ジムまで開いていたという大野一敏。
嫉妬することすら失礼にあたる、と言わざるを得ない若さである。
後進の一人として、こう見えても漣 (さざなみ) を子守唄にして育った者として、
大野さんが蒔いた種のひとつくらいは花を咲かせて見せないと格好がつかない。