2009年9月12日

ATJ 20周年

 

大地を守る会で取り扱っているアイテムは国内生産されたものが基本なんだけど、

国内では生産されてないもの、あっても希少なため取り扱うのが難しいもの、

海外との民衆貿易によって現地の人々の生活向上への支援につながるもの、

などなど、独自の基準を設けて輸入品も扱っている。

 

なかでも先駆的で象徴的なのが、バランゴン・バナナ (フィリピン) になるだろうか。

その輸入元である (株)オルター・トレード・ジャパン(ATJ) さんが設立20周年を迎え、

記念のシンポジウムとパーティが開かれたので参加させていただいた。

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会場は築地の朝日新聞本社に隣接する浜離宮朝日ホール。

ATJ製品を販売する生協さんや共同購入団体、関係メーカーさんなど、

200名を超す関係者が参加され、盛況な会となった。

 

ATJさんと大地を守る会とは、バナナから取引が始まり、

今ではインドネシアのエコ・シュリンプ、パレスチナのオリーブオイル、

東チモールのコーヒー、と付き合いの幅は随分と広がってきている。

それぞれに現地の人たちとの交流も行なわれてきた。

すべて僕らにとっては、

自給というテーマと、海外とのネットワークという視点をつなぐものだ。 

 


ATJが設立されたのは20年前(1989年) だけど、

本当のきっかけは1986年まで遡る。 

その年の秋、神戸港から南西諸島に向かって 『ばななぼうと』 という船が出航した。

それは市民運動の新たな時代を開くエポック・メーキングとも言えるイベントだった。

 

徳之島で無農薬バナナの栽培に挑戦している農民たちと交流し応援しよう、

という話がいくつかの団体 (大地を守る会もその一つ) の間で持ち上がって、

そこまで行くなら足を延ばして、空港建設に対してサンゴ礁保全の運動をしている

石垣島・白保の漁民たちとも交流しよう、だったら全国の自然保護団体にも声をかけよう、

どうせなら船の中で色んなテーマでワークショップをやってみよう

・・・・・そんなふうに話が大きく広がって、実現したのが 『ばななぼうと』 だった。

 

期しくも1986年という年は、春にソ連・チェルノブィリで原発事故があり、

9月にはアメリカの精米業者協会が日本にコメの市場開放を突きつけてきた年。

今で言うグローバリゼーションが、日本人にも黒船のように自覚された年だ。

食や環境を守ろうという市民運動が俄かに活気づいて、

とはいえインターネットなんて便利な道具もまだ普及されてない時代、

どこもそれぞれ孤立しながらの活動を強いられていた。

そこで僕らは、全国の市民活動団体の住所録を作成したのだった。

「いのち・自然・暮らし」 をキーワードに、ちいさな市民グループまで網羅したリストを、

『ばななぼうと』 という一冊の本にまとめたのだ。

出来上がった連絡網は、異分野の人たちを強烈にネットワークした。

象徴的事件の一つに、日本リサイクル運動市民の会(当時) が立ち上げた

有機農産物の宅配事業がある。

 ( 「らでぃっしゅぼーや」 さんのこと。 大地を守る会は全面的にバックアップした。)

 

生まれた言葉や名言もいくつかある。

 -反対(否定) 運動から提案型運動へ。 その視点から市民事業が生まれ始めた。

   「食える市民運動へ」 なんて生々しい言葉も飛び交った。

   こっちの世界で飯を食おう(=オルタナティブな社会システム=仕事を創造する)

   という機運が生まれ、みんなで作る株式会社という発想が発展した。

 -「この指とまれ」 方式。

   たとえば原発反対の集会を呼びかけても、来ない人を非難しない。

   集まった人たちで、どれだけ魅力的なイベントを作れるかを考える。

 - " オレたちは、右でもなく左でもなく、前へ進む!"

   旧来の左翼的色合いで見られがちな運動 (それはある意味で、そうだった)

   を決定的に意識改革した言葉だったように思う。

 

『ばななぼうと』 に話を戻せば、

船には全国から150団体、約500人の人たちが乗り込んできた。

そのなかに、飢餓に苦しむネグロス島の砂糖労働者の支援活動に取り組む

「ネグロス・キャンペーン委員会」 なる団体の人たちがいた。

 

彼らは、国内農業を大切にしようとする自給派・有機農業派 (我々のこと) に、

鋭い問いを突きつけてきた。

「私たちの暮らしそのものが南の人々を苦しめている。

 国内の安全な食べものを応援して食べる、それでよいのか!」

船内でシンポジウムが開かれ、フィリピンの労働者が惨状を訴え、

どういう形で連帯 (この言葉は当時輝いていた) できるのか、が模索された。

 

商社への依存から脱して、自分たちの手で砂糖の公正な貿易を実現させよう。

いくつかの生協が手を上げ、民衆交易(貿易) という言葉が生まれ、

1987年、ネグロス島からマスコバト糖の輸入が始まった。

フェア・トレードという言葉が登場する前の時代の話である。

そして続いて、ネグロスの人々の自立を掲げて、

島に自生していたバランゴンバナナの輸入が始まったのは89年2月からである。

その年の秋、ATJが設立された。

 

大地を守る会は、ATJに出資する形で応援しつつ、それでも

国産の無農薬バナナやサトウキビの生産を支援する、という立場を堅持した。 

しかし国産バナナは毎年収穫前になると台風に倒されて、

僕らの間ではいつしか  " 幻のバナナ "  とか呼ばれるようになってしまった。

バランゴンバナナの支援(取り扱い) に踏み切ったのは、92,3年あたりだったか。

その後、支援の品目はだんだんと増えてきたが、砂糖はまだやっていない。

でもたとえば、パレスチナには独自の基金を準備しての建設を応援したりしてきた。

そのあたりが大地を守る会の愚直なところだと言われたりしている。

 

いろんな道のりがあって、20年の歴史がつくられた。

もっとも苦しかったのは、もちろん現地の人々である。

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記念のスピーチで壇上に立ったフィリピンの現地法人 「オルター・トレード社」 社長、

ノルマ・ムガールさん。

様々な困難を経験しながらも、ずっと対等に付き合ってくれた日本の仲間への

感謝が、深い言葉で語られた。 そして未来への希望も。

 

20人近いスタッフを前に集めて挨拶するATJ代表の堀田正彦さん。 

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「20年で様々なストーリーが作られたが、これからのヒストリーをどう創造していくか。

 どうかこの者たちを鍛えてやってください。」

 

大地を守る会会長の藤田和芳も挨拶。 

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内容は・・・・・すみません、他の人と談笑してました。

慌てて写真を撮っただけ。 

おそらくは、本当の自立に向けての課題がまだまだある、とか

そんな話をしたんだと思う。

 

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記念講演された大橋正明さん (恵泉女学園大学教授、NPO法人シャプラニールの会理事)

が提起した話も紹介したいけど、長くなってしまったので、この辺でやめます。

要は、事業やマーケットとして成立した感のあるフェアトレード (公正貿易) と、

目指したオルタナティブ (人間と自然の共生を目指すもう一つの道の提案) の、

質と量も含めた内容点検が必要ではないか、ということである。

 

なんだか、ATJ20周年の報告というより、昔話になってしまった。

でも僕にとってのATJとの20年は、このように語り出さないと

整理できないものでもあったのだ、と思う。

 

次のエポック・メーキングは、どんな質のものになるのだろう・・・・・

 


Comment:

はじめまして。
コーリーさんのオーガニック・ブログから飛んできました。
私はコーリーさんと同期で5年ほどらでぃっしゅぼーやで修行(笑)し、数年間農産物の流通の仕事を点々として7年前に沖縄に移住して農業をしております。
ばななぼうと、入社前に感想文提出しました!
思わず昔を思い出し、コメントさせていただきました。
将来、大地を守る会さまへ出荷できるような美味しい沖縄の農産物を育てますのでその時はどうぞよろしくお願い致します。
くらぶのメンバーにも読んで欲しいのでブログのリンクを貼らせていただいてもいいでしょうか?
よろしくお願いいたします。


芳野幸雄 様

こちらこそ、はじめまして。コメント有り難うございます。ばななぼうとの話に反応があって、大変喜んでおります。
コーリーさんもご活躍ですね。彼のブログは腰を据えて読まなければなりませんが(笑)。
リンクも了解です。畑人くらぶの方々にもよろしくお伝えください。沖縄での農業は大変かと思いますが、ブログを拝見する限り、楽しんでもおられる様子。人生に遊び心は必須です。いつかお会いできることを楽しみにしています。

from "戎谷徹也" at 2009年9月17日 19:27

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