2011年10月30日
それでも我らは種を播く
今日は朝日新聞主催のシンポジウムに参加してきた。
場所は有楽町マリオンの10階、朝日ホール。
テーマは、「放射能と向き合う~低レベルの影響」。
エッセンスだけでもお伝えしたいと思うが、その前に、
10月16日(日) のシンポジウムの報告をしておかなければならない。
日比谷公園の 「土と平和の祭典」 を午前中であとにして、午後からは
有機農業技術会議主催による 「原発と有機農業」 シンポジウムに参加する。
会場は水道橋にある 「在日本韓国YMCA」 国際ホール。
夏日となったこの日、汗を拭き吹きギリギリ会場に到着する。
- 震災直後から呼びかけがあり、この名称で会が立ち上がり、
何度か会合を重ねてきた方々の手による節目のシンポジウムと言っていいだろうか。
第一部は、4名のパネリストからの問題提起。
第二部は、そのパネラーを中心にディスカッション、という構成。
まずは、二本松市 「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」 理事で
ふくしま有機ネット代表も務める 菅野正寿さん 。
8月には ヒマワリ畑 も見せていただいた。
東京からふるさと・東和に戻ったのが30年前。
有機農業による地域づくりに取り組み始めたのが25年前。
悪戦苦闘の年月を経て、新規就農者も受け入れ、
地域資源の循環・里山の再生に自信を深めてきたところで、
人も土も里山もずたずたにされてしまった、そんな深い怒りが伝わってくる。
菅野さんが語る原風景は、童謡 「赤とんぼ」 の一節に重なっている。
♪ 山の畑の桑の実を小籠に摘んだはまぼろしか-
今日は、「希望を持って農業を始めた若者たちの健康を見てあげてほしい」 と訴える。
なんて罪作りな社会なんだろう。。。
震災後の東和での取り組みをずっと調査してきた
茨城大学農学部研究員の飯塚里恵子さんが、その報告をはさむ。
「葛藤を乗り越えて復興プログラムへと踏み出させた力は、
地域の仲間たちと培ってきた絆と地域の将来への 「夢」 だった。」
田畑を耕し、種を播き、直売所には徹底して地元産の野菜を置き、
自ら測定を開始し、長野・佐久総合病院と連携して地域住民へのケアも始めた。
埼玉・小川町の金子美登さんに倣って、
ヒマワリやナタネを栽培して、油を絞り、エネルギー循環を目指す。
これらのつながりはすべて有機農業を実践するなかで築かれてきたものだ。
希望の絆は断ち切れてはいない。
問題提起の2人目は、大阪で有機農産物の流通を行なっている
「安全な食べものネットワーク オルター」 顧問・三浦和彦さんから、
「有機流通の現在 -私たちが向き合った 「福島原発事故」-」 。
大阪においても、震災と事故の影響は大きく、日々苦悩しながらの判断が続いたようだ。
しかし、放射性物質の自主基準を1ベクレルに設定したことに対しては、
その非現実性に対して会場から批判も出された。
3人目は、農業生物学研究室主宰・明峯哲夫さんによる 「放射能汚染と有機農業」。
「 もはや放射能と共存するしかない時代に入っていて、
それぞれに " 食べること " (何を食べるか) の主体性が問われている。
少々汚染された食べものでも口にするということだ。」
その上で有機農業の力を語る。
この方の哲学的姿勢には感服するしかない。
4人目は、茨城大学教授・中島紀一さん。
「反原発から自然共生・農本の地平へ」 と題して、
改めて故・高木仁三郎さんの反原発・脱原発の思想的な深まりを辿りながら、
その歩みを引き継いでいきたいという思いが語られた。
第2部では、議論となった放射性物質の基準に対して、
司会のコモンズ・大江正章さんから発言を求められてしまった。
僕が訴えたのは、
生産者と消費者にとって安心して採用できる物差し、つまり最も適正な基準というのは、
流通者がめいめいに 〇 ベクレルだとか言い合うことではなく、
垣根を超えた共同の作業で進めなければならないことではないか、ということに尽きる。
そこで 「食品の放射能基準のあるべき姿」 を可視化する作業を
いくつかの団体で開始する準備をしていることを報告した。
難解な問題を一つずつクリアにしながら、みんなでリテラシーを磨き、
放射能との向き合い方・たたかい方を、整理してみたいと思うのである。
どんなゴールが待っているのかはまだ見えないけど、
粘り強くやるつもりだ、と。
まだ中途なくせに、決意だけは偉そうに報告するものだから、
とんでもない期待感を抱かせてしまったかもしれない。
でも、やる気です。
混乱と不安の社会にあって、これは挑戦するだけでも意味と価値がある。
力量はともかく、その確信だけは揺らぎない。
僕だって、「それでも種を播く」 一人でありたい。
このブログもまた、これからだんだんと
その底なしの深みにはまっていくのかもしれない。 ゾクゾクするね。