2013年1月29日
シローのリンゴは終わりじゃない
1月27日(日)の早朝、
大地を守る会の看板生産者の一人である長野のリンゴ農家、
原志朗さんが亡くなった。 享年50歳の若さで。。。
彼が厳しい闘病の中にあることを知らされたのは、
昨年の秋も深まりかけた頃だった。
年を越せないかも・・・と言われた。
以来、訃報は覚悟していたけど、いざ連絡を受けると、やっぱりショックだ。
予想だにしなかった早すぎる別れ、辛すぎる。
本日、告別式。
幕張から乗り継ぐこと約4時間半。
新宿から特急あずさに乗って、終点・松本から松本電鉄に乗り換えて、
波田という駅に着く。
途中、持参した本をパラパラめくっても頭に入らず、
少しずつ形を変えてゆく八ヶ岳をぼんやりと眺めていた。
会場で、長野に移り住んだ懐かしいOBたちと会う。
「お互い老けたね」 とか言い合いながら、みんなで眺めた志朗くんの笑顔が
一番若々しくも見えて、いっそう切なさがこみ上げてくる。
体調の異変に気づいて検査したところ、
胆管がんが発見されたのが昨年5月のこと。
以後入退院を繰り返しながら、様々な療法にも挑み、たたかい続けた。
昨年のクリスマス・イブの日に自宅に戻って、
そして1月27日の朝、ついに永久の眠りに就いた。
最後まで心配していたのが、妻と一人息子のこと。
女房の明子さんは、大地を守る会の元職員。
息子の光太朗くんは中学1年生。
しっかり者の明子さんが気丈に挨拶された。
「志朗さんの遺志を継いで、やっていきます。」
明子さんをして 「職人」 と言わせたほどに、
志朗くんは栽培技術を追い求めた。
父親の今朝生(けさしげ) さんも、リンゴ栽培ではカリスマと言われた人だった。
学校を出た後、農業を継ぐ前に流通の現場も知っておきたいと、
大地を守る会でアルバイトをした時期がある。
当時の調布センターに寝泊まりして、
毎晩のように飲み、語り、一緒に歌ったりしたもんだ。
当時はヒッピーのような奴らが何人もいたものだから、
悪い影響を受けちゃうと親父さんに申し開きできないよ、
とか笑いながら一緒に仕事した。
しかし多少は影響を与えてしまったのか、たしか
一時海外に旅に出たこともあったな。
あの頃から僕らは、原志朗とは会えば " やあ、シロー " だ。
自分の思う栽培技術を追求したかったのだろう、
実家は次男の俊朗さんに譲って、新たな園地でリンゴ栽培に挑んだ。
おそらくは、まだ道半ばの悔しい思いもあることだろう。
紅玉という古い品種を愛していた。
志朗くんは亡くなっても、彼が育てたリンゴの樹は健在だ。
「原さんのふじ」 にも、人気のセット 「りんご七会(ななえ)」 にも、
志朗が育て、明子さんや俊朗くんや広瀬 (元職員で今は立派なりんご農家)
や仲間たちが守り続けてくれるフジや紅玉やグラニュースミスが、
来年も再来年も入ってくることだろう。
その度に、僕らは志朗くんを思い出して、
こっそり語りかけたりしながら、齧ってやるのだ。
シローのリンゴは終わらない。
天国には大好きだったバイクもロック音楽も、ないかもね。
親父さんとリンゴ栽培論争でも、とことんやってくれ。
どうか安らかに。
合掌