2013年10月 6日
『地域の力フォーラム』 in 喜多方
10月4日(金)、「放射能連続講座Ⅱ」 シリーズを終了させた。
最終回の講師は、鎌田實さん
(諏訪中央病院名誉院長、日本チェルノブイリ連帯基金理事長)。
『鎌田實さんが語る希望 -子供たちの未来のために-』。
このテーマに、さすが鎌田さん。 しんがりを感動的に締めてくれた。
「 大地を守る会から、未来への希望を語れという注文。
でも希望を語るには、私たちも変わらなければならない」
鎌田さんが語った " 希望 " とは何だったのか・・・
この講座をまとめるには、暫くの時間を頂きたい。
その前に、9月の出張報告を終わらせなければ。
奈良から帰ってきて、21日は溜まった仕事をやっつけて、
9月22日(日)~23日(月)、
6月に結成した 「地域の力フォーラム」 のセミナーと現地視察会が
福島・会津で行なわれたので参加する。
皆さん連休返上で集まる。
まずは磐梯熱海温泉の旅館 「一鳳館」 に集合し、勉強会。
皮切りの問題提起者は、
茨城大学農学部の名誉教授となられた中島紀一さん。
農の再生と地域づくりの視点をどう再構築するか、
二本松市東和地区での震災 (原発事故) 後の軌跡を見つめ直しながら、
今の " 復興 " の進み方に対する相当ないら立ちも含め、
中島さんの思いが語られた。
中島さんが学ぼうとしているのは、
土地に根ざした自給的小農と、それを基礎とした地域社会づくりの精神が
巌に存在すること。
しかもそこ (東和) は、原発災害を受けた後でさえ、その伝統を守り通そうとする
高齢者たちがいて、暮らしが維持されていること。
現地の状況に合った適切なプログラムが作られ、
資金運営も自らの手で行なう " 住民主体 " がしっかりと形成されていること。
現在、各地で " 復興 " の名のもとに様々なプロジェクトが進んでいるが、
復興論のほとんどが、零細小農の否定であり、世代交代論であり、
企業型農業への期待であり、住民意思が反映されない開発投資である。
「地域」 という暮らしの土台を忘れることなく、今も活き活きと農を営み続けている
高齢者たちから学ばない " 若者就農礼讃 " には、意味がない!
と中島さんは言い放った。
目下論争の的となっている TPP 参加の是非においても、
反対派の急先鋒である JA ですら、掲げる政策は
政府の 「攻めの農業」 とほぼ同じである。
農産物輸出の推進、担い手への農地集積、6次産業化の推進、新規就農の促進・・・
そこには自然共生型の地域社会づくりという戦略は描かれてはいない。
高齢者が元気に営み続けられる " 農 " 、
地域を支え文化を育む農の道を、中島さんは模索し続けている。
続いての問題提起者は、
福島県有機農業ネットワーク理事の長谷川浩さん。
農業研究センター勤務という国家公務員の職を辞し、
喜多方市山都という山間地に移って、有機農業の実践者となった。
彼が此の頃とみに主張を強めているのが、
「市民皆農」(みんなで耕そう)、「自産自消」 である。
ピークオイルや気候変動など、迫りくる大変動時代に備え、
私たちの進むべき道は、食べものとエネルギーの自給である。
大都会を捨て、地方で耕し、エネルギーも自給し、
地域自給圏を創造しよう!
「するしかないでしょう~ ねえっ!!!!!」
彼もまた、3.11によって生き方を変えた一人である。
呼応するかどうかは己れの人生設計も鑑みながら考えるとして、
みんなして暮らし方を見直し、変えるべきものがあるだろう、
という主張は受け止めなければならない。
二日目は喜多方市での、3名の実践者を訪ねる。
一人目は、旧熱塩加納村でJAの営農指導を務め上げた小林芳正さん。
この人も「美しい村」 づくりに賭けた人である。
この村に初めて訪れたのは20年前のことだった。
「戎谷くん。 あっちの山の麓からこっちの山の麓まで、
この里の田んぼで農薬をふる(散布する) 光景が消えたんだ」
小林さんはそう語って、僕の目を見据えた。
今でも覚えている。
大地を守る会のオリジナル純米酒「種蒔人」(当時の名は「夢醸(むじょう)」)
の開発を後押ししてくれた大恩人。
一時期大病を患って心配していたのだが、今は元気に米も作っている。
小林さんから聞きとる、30有余年にわたるたたかいの歴史。
農協マンが 「農薬の空中散布を止めよう」 と訴えた時から、
彼の地域との格闘が始まった。 1979年のことである。
有機農業に取り組み、「さゆり米」 というブランドに仕立て上げ、
" 自分たちの食をこそ豊かにしよう " と自給運動を展開した。
若手老人(!) たちを集めて勉強会を開き、
広報誌づくりは夜、自宅に持ち帰って一人で続けた。
県に何度も談判に行って、村の小学校の給食に 「さゆり米」 の導入を認めさせた。
「まごころ野菜の会」 を結成して、今でも120人の農家が
子どもたちのために給食用の野菜を作ってくれている。
地域社会は 「農」 と不可分の関係にあることを、
小林さんは示したのだった。
しかし合併後は、小林さんには納得の行かないことが続いているようだ。
「こんなはずじゃなかった。」
「まだまだ、やらなきゃいけないことがある。」
もうひと頑張りしなくては・・・ と笑って立ち上がる小林さん。
改めて頂戴した今の名刺には
「共生塾々長 百姓 小林芳正」 とあった。
枯れてないぞ。
手を握りしめ、深く頭を下げて、「どうかお元気で」 が精いっぱい。
小林さんの哲学は地域への愛情とともにあった。
いや、地域の力が彼の哲学を育んだのかもしれない。
彼が歩んだ村づくりの歴史は、書き残しておかなければならない。
カリスマ・小林芳正を陰で支えたたくさんの登場人物とともに。
ああ・・・ 感慨に浸って、本日ここまで。