2014年1月22日

加藤秀一さんに捧ぐ

 

前回、少々思いつめ気味の感懐を綴ってしまったのは、

この人の訃報が影響したのかもしれない。

山形県白鷹町、「しらたかノラの会」 元代表の加藤秀一さんが亡くなった。

悲しい知らせを受け取ったのは18日。

今日、仕事も放ったらかして、告別式に向かった。

 

山形新幹線の赤湯駅から山形鉄道に乗り継いで1時間。

終点の荒砥駅で、ノラの会の山本昌継さんが愛娘・みのりちゃんを抱いて、

軽トラで待っていてくれた。

似合わない礼服と黒のネクタイを見て、泣きそうになった。

 

途中、吹雪と青空が目まぐるしく変わる山形路だった。

内陸に進むに連れ雪が深くなっていった。

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加藤秀一さんとの出会いは1986年だった。

アメリカから理不尽な米の輸入圧力が始まって、

全国的に反対運動が高まる中で、いくつかの団体から、

ただハチマキ締めて反対運動をやるだけでなく、

米の産直・提携運動によって日本の水田と農を守ろう、という声が上がった。

そこで結成されたのが、

「日本の水田を守ろう!提携米アクションネットワーク」 だ。

 


当時はまだ米の食糧管理制度が健在で、

減反政策が強制的に実施されていた時代。

提携米ネットワークは、

「減反政策は農民の主体性を奪い、日本の農業を衰退させるものだ」

と主張し、運動を展開した。

 

これは国家の政策と対峙するだけではなかった。

減反政策が、目標数量を達成しないと地域に補助金が下りない、といった具合に

地域共同体のしがらみを利用しながら進めてきたがゆえに、

反対するということは必然的に地域内での対立を生むことにもなった。

いや、対立ではない。

反対することは、集落内で孤立することを意味していた。

 

それでも加藤秀一さんは、

提携米ネットワーク設立の呼びかけ人にも堂々と名を連ねて、

反対の立場を表明した。

高校時代は生徒会長を引き受け、当時は青年団長を務めるなど

信頼の篤かった彼も、その一事で

地元から村八分的な仕打ちを受けることになった。

消防団長も辞めさせられ、

87年冬、秀一さんは初めて川崎の飯場に出稼ぎに出ている。

 

早くから有機農業の意味を理解し、率先した人でもあった。

10アールという小面積ではあれ、

米の無農薬栽培を実現して見せたのは1971年のこと。

大地を守る会が誕生する4年前、日本有機農業研究会が発足した年だ。

 

81年には、冬の仕事作りのために農産加工を手がけ始める。

出稼ぎから帰り、88年、秀一さんは新しい農産加工所を建設する。

しかし減反反対運動の先頭に立ったことが災いしたのだろうか。

取引が始まるはずだった生協から味噌餅の販売が断られ、

秀一さんはいきなり窮地に立たされたのだった。

自分たちの米で、自信を持って作った餅が大量に滞留した。

 

秀一さんとの関係が深まったのは、そこからである。

あの時、僕はその餅の販売を思い切って引き受けたのだ。

今だから語れる、トレース (原材料・製造工程の確認) あと回しの判断だった。

内容への信頼はもちろんあってのことだけれど、

それでも内心ビクビクと、クビを覚悟しながらの決行だった。

基準は運動と信頼と仁義だと、開き直った。

なんとも決意主義的な、懐かしい思い出である。

でもその味噌餅は、今でも定番商品として立派に続いている。

(25年前の話。 今では仕組み上不可能。 そのルールも自分でつくった。)

 

1994年、平成の米パニックと呼ばれた冷害・米不足の翌年。

提携米ネットワークは多くの団体に呼びかけて、

「減反政策差し止め訴訟」 に打って出る。

米を作らせない政策は、法によって保障された国民の 「生存権」 を奪う

日本国憲法違反の政策である、と。

 

毎回の裁判で、原告団は人を繰り出して主張を展開した。

加藤さんは、「減反政策を受け入れているのは農家の自主的判断である」

(国からの強制ではない) という被告・農水省の主張に対して、

自らの体験をもとに、そのカラクリをあばいた。

僕は、減反政策が農業の持っている環境保全機能(公共財産) を

喪失させていっていることを主張した。

興奮して途中から震えが止まらなくなったことを、今でも覚えている。

 

僕らはあの頃たしかに連帯していたし、

裁判の勝敗とは別に高揚していた。

(結果は棄却。 訴える筋合いのものではないという門前払いだった。)

でも加藤さんにとっては、相当な心労が続いたことだったのだろう。

自らつくった白鷹農産加工研究会と別れ、2006年、

秀一さんは若い仲間とともに、新たに 「しらたかノラの会」 を結成する。

その頃から体調を崩された。

 

血気盛んな若い頃からの仲間が駆けつけ、

告別式の後も集って、思い出を語り合った。

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高畠町の星寛治さんや、おきたま興農舎の小林亮さん、

長井市・レインボープランで名を馳せた菅野芳秀さん、

一緒に提携米運動を担った庄内協同ファームの面々・・・

 

最後に、ノラの会現代表の大内文雄さんが挨拶を述べた。

「秀一さんは、種を蒔き続けてくれた人でした」

ホント、その通りだと思う。

 

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秀一さんは、はにかんだような笑いがとても可愛い人だった。

純粋な人なんだなあ、と思ったものだ。

でも腹の中は、農の民として生きる誇りと、怒りと、意地で満ちていた。

名刺の肩書きに 「百姓」 と刷った最初の人だ。

 

悲しみ沈んでいる場合ではない。

それは秀一さんの望む姿勢ではない。

彼の遺志と矜持をちょっとでも懐に入れて生きていくことで、

彼もまた生き続ける。

そうやって命(いのち) はつながっていくのだ。

大内さんたちがつくる味噌餅の中にだって。。。

 

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昨年末の三里塚の萩原進さんに続いて、

  魂を語る農民がまた一人、いなくなった。

  偉そうに書いてるけど、けっこうこたえている。

  でも、加藤秀一と一緒にたたかえたことは、僕にとって誇りである。

  背中はどんどん重くなるけど、

  背負って生きないと、、、死ぬのが怖い。

 



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