2014年4月28日
谷川さん、詩をひとつ・・・
万有引力とは
引き合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う ・・・
-谷川俊太郎 「二十億光年の孤独」 の一節-
1950年、19歳の若さで鮮烈の詩壇デビューを果たし、
80歳を過ぎてなお " 言葉の力 " を探し続ける詩人、谷川俊太郎。
幸か不幸か、不登校の青年のまま
「詩人の道」 に進んでしまったがゆえに、
谷川さんは社会で働いたことがない (詩人・作家としての仕事は別として)。
そんな谷川さんが、働く人々の姿を見つめ、詩を編む。
あるいは震災後の福島でふるさとを記録し続ける高校生たちに、
詩のエールを送る。
その両者の姿をカメラで追いかけながら、一本の映画にまとめる。
2年近くかけて完成した映画のタイトルは、
『谷川さん詩をひとつ作ってください』。
そのまんまですねえ。
いいんだか悪いんだかよく分からないので、コメントは避けておこう。
で、中身は、、、どんな作品に仕上がったか。
4月26日(土) 午後 3時、
日比谷から京橋まで移動。
分かりにくいビルの地下に 「京橋テアトル」 という試写室がある。
ここか? と覗いていたら、
中のエレベーター前から川里賢太郎さんが声をかけてくれた。
「いよいよ銀幕デビューですね。 おめでとうございます」
「どんなふうに編集されたんですかねぇ。 けっこうドキドキしますよ」
とか話しながら地下に降りる。
定員 40人ばかりの小さな試写室だった。
(株)モンタージュの小松原時夫さん、監督の杉本信昭さんに挨拶し、
賢太郎君と並んで座る。
いつもTシャツだという谷川さんの姿もあった。
封切り前に、ストーリーを紹介するのはやめておきたい。
登場するのはこんな人たちだ。
震災後のふるさとの光景を記録し続ける
福島県相馬高校放送部の女子高校生たちと顧問の先生。
大阪・釜ヶ崎で日雇いの暮らしを続ける元文学青年のおっちゃん。
青森・津軽のイタコさん。
長崎・諫早湾で漁を続ける夫婦。
そして東京都小平で代々農業を営んできた川里家の後継ぎ、賢太郎くん。
飾りのない日々の暮らしや営みの中にも歴史があり、
人とのつながりがあり、固有の思いや隠された苦悩がある。
最後に、そんな 「私」 のために用意された谷川さんの詩を、
それぞれが朗読する。
哀しみを慰め、人を優しくつなげ、あるいは気を昂ぶらせる
詩の力と意味が浮かび上がってくる。
とても良い作品に仕上がったと思った。
試写が終わって、監督が礼を述べる。
谷川さんも高い評価だ。
「どっかの賞に出品してもいいんじゃない」 と褒める。
感想を求められた賢太郎くん。
「いや、改めて、俺ってイイ男だと思いました」
いいね。
早くみんなに観てもらいたいところなのだが、
劇場公開は 9月から、とのこと。
どうも監督がイタコ婆さんから父の霊を呼び出してもらった際に、
秋から運気が巡ってくる(それまで我慢しろ) と言われたんだそうだ。
ならしょうがないか- と納得する優しい我々。
試写会終了後、賢太郎くんとのツーショットをお願いしたところ、
谷川さんは気さくに応じてくれた。
「ブログにアップしてもいいですか?」
「ああ、いいですよ。 どうぞどうぞ」
谷川俊太郎は、いい人だった。
センシティブなところは、おそらく我々の想像を超えているのだろうが。
詩集とサインペンも持ってくるんだったと、
欲張るミーハーな自分を発見して、ちょっと恥ずかしくなったりして。
僕が詩人・谷川俊太郎の名前を知ったのは、10代のいつだったか。
それは詩集ではなくて、フォーク歌手・高石ともやが歌った一曲だった。
武満徹が曲をつけた 「死んだ男の残したものは」。
以来、冒頭で引用したデビュー作だけでなく、
たくさんの詩に出会ったはずなのだが、
この詩だけは、今でも全部そらんじることができる。
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった
・・・・・・・・・・
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった
・・・・・・・・・・
賢太郎くんが親父さんから受け継いだ手を抜かない仕事ぶりと、
土へのこだわり、家族との時間。
その姿に詩人・谷川俊太郎が見たものは、
つながっていく家族の愛、のようだった。
もう一度ちゃんと聞いて覚えたいのだが、
監督の運気が訪れる秋までおあずけ。
帰りがけ、小松原さんが
「一杯いかがですか、谷川さんも囲んで」
と誘ってくれた。
なんと言うことか・・・
美味しい飲み会が、今日は三つも-。
丁重にお断りしながら、
後ろ髪を引かれる思いで、今度は京橋から御徒町へ。
「しゅん」 というお寿司屋さんで 「福島のさかなを食べる会」。
福島・いわきの漁師さんがやってくるのだ。
行かねばならない。
続きは明日。