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映画監督 佐藤真さんの思い出

こんなタイトル自体、おこがましいのかもしれない。
会ったのは2度だけだから。

ドキュメンタリー映画監督、佐藤真(まこと)さん。
9月4日、49歳の若さで逝ってしまった。

訃報はすでに報道で知っていたが、
今日(9/28)の朝日新聞夕刊の 「惜別」 欄を見て、書きたくなった。

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佐藤さんの監督第1作は 『阿賀に生きる』 (完成1992年)。
89年から3年がかりで、新潟水俣病の老人の日常を淡々と追ったドキュメンタリー。
佐藤さんはスタッフとともに現地で共同生活をしながら、カメラを回し続けた。
芸術選奨文部大臣賞新人賞など、いくつもの賞をとった、彼の記念碑的作品である。

でも僕の思い出は、その前の助監督時代の作品
『無辜なる海-1982年水俣-』 (1983年)になる。

水俣病に関するドキュメンタリー映画では、
70年代からの土本典昭さんの一連の作品 (たとえば 『不知火海』 ) があるが、
この 『無辜(むこ)なる海』 は、
水俣病の原因が明らかになり、たたかいから補償へと移る時代にあっても、
なお苦しみ続ける住民の暮らしを綴ったものだ。

苦しみを埋めて暮らすしかない日常を写し取りながら、私たちに問いかける「何で?」。

83年に映画が完成したあと、佐藤さんは映画の上映活動に奔走する。
社会派のドキュメンタリー映画というのは、制作費用を工面しながら作り上げ、
そのあとはスタッフ自らフィルムを持って行脚するような世界である。

佐藤さんが、水俣病支援などで関係があった大地を訪ねてきたのは、
大地の配送センターが杉並区から調布市深大寺に移転して間もない84年だったが、
季節の頃は -思い出せない。

僕も若かった。
新しいセンターで、まだ敷地にも余裕があった。
この広い倉庫を活用して、地域の人たち向けに何か文化的な催しを開くのはどうか、
なんて同僚と飲みながら話し合ったりしてたのだ。

僕は佐藤さんと会い、話を聞き、すぐさま企画書を書いた。

   -第1回 深大寺文化フォーラム-
       『無辜なる海』 上映会
     &佐藤真助監督と語る夕べ!

社長の決済は簡単だった。 「いいよ。やればいい。でも金はない」

フィルム・機材持ち込みで佐藤さんに払った謝礼は、足代も込みで、
……たしか2~3万円程度だったと思う。
それでもおそるおそる会社に稟議を上げたのを憶えている。

手描きのチラシを作って、敷地内に併設したお店に置き、近隣にまいたりした。

来場者は -10数人だった。
(お茶とお茶菓子までつけたのに…)

それでも佐藤さんは映画を回してくれ、上映後も撮影秘話などを語ってくれた。
「水俣病は終わってないんです」……参加者と親密な懇親会となった。

それ以来、佐藤さんと何度か電話で話すことはあったが、
会うことはついになかった。

風の噂で、ふたたび阿賀に入ってカメラを回していると聞いてはいたが、
2004年に完成した 『阿賀の記憶』 は、まだ観ていない。

惜別の記事によれば、
「仕事場には、本や映画の批評や著書の構想などを記した膨大なメモが残されていた」
という。
「戦後日本を問いたい」 とも話していたそうだ。

切ない…

彼はずっとあれからも、食えないドキュメンタリーの世界で、
原点にこだわり、たたかい続けていたのだ。

僕の企画書-「深大寺文化フォーラム」は、たったの2回で終わっている。

ほんの一時(いっとき)とはいえ、心を通わせた同世代の者として、
このままでは終われない。

ご冥福を祈りつつ-

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