僕が大地を守る会(当時の法人名は ㈱大地)に入社したのが1982年の秋。大地を守る会が設立されて7年経っていた。
経営が軌道に乗ってきた頃で、「今年はボーナスってのが出るらしい」「いや、信じるのはまだ早い」といった会話が交わされていた。給料の遅配を経験している先輩もいた。
出版社から「大地」に転職したことを知った実家のおふくろは、仕事の意味が理解できず、「ほんなことさせるために大学行かせたんちゃうわ。もう帰ってきぃ」と電話口で泣いた。悔しかった。
その頃よく“学生運動くずれの「大地」”と言われていたのを覚えている。
実際に、週刊誌で「ヘルメットかぶって偉そうに“革命”を叫んでいた連中が、今は大根もって団地を回っている」と嘲笑されたりしていた。
そんな時代だった。
しかしみんな元気だった。何となく未来を信じていた。
「地球に土下座して、一からやり直そう」-初代会長・藤本敏夫さんの言葉である。
政治運動で社会を変えることに挫折した団塊世代の連中が、食と農という生命活動の根源から見直し、立て直していこうとしていた。
そんな心意気に引かれてか、“もう一つの生き方”を模索する若者たちが集まってくる。
“遅れてきた世代”とか“シラケ世代”とか言われた自分もその一人だった。
あの頃の仲間はほとんどいなくなったけど。
あれから34年(設立41年)。組織がここまで成長するとは、そしてお国が有機農業の旗を振る時代が生きている間にやってくるとは、誰も想像できなかった。
信じた方向は間違っていなかった、と言っていいよね。
大地を守る会設立40周年を機に、「大地(を守る会)の歴史を書いてほしい。特に“思い”の部分を」とHPの制作スタッフに頼まれたのが昨年の春のことだった。
自分なりに、大地を守る会の歴史を改めて振り返ってみる良い機会かもしれない、大事なものを置き忘れてしまったかもしれないし……。
そんな気持ちで連載をスタートしたのが6月。最初は3ヶ月くらいの計画だったのだが、想定以上に重くなってしまって、なんと40話、1年と4ヶ月かかってしまった。
まるで見ていたかのように設立時の話から始め、様々な取り組みを通じて大地を守る会の背骨が形づくられていった経過をたどってみた。
牛乳1本にも、一片の牛肉にも、大地を守る会の思想と物語が込められていて、僕らは“モノの実現”を通じて、運動と事業という二律背反になりがちなテーマと格闘してきたこと。
また時に大胆なイベントやムーブメントを仕掛け、オーガニックの世界を広げてきたこと。
厳密なくらい理念を大切にしながらも、現実の限界も引き受けて、清濁あわせ飲むように走ってきたこと。
そんな大地を守る会の武骨な歩みと精神史が多少でも伝わったなら嬉しい。。。
書けなかった歴史や事例もいろいろあるが、象徴的な素材に絞らせていただいた。
40年の間には失敗も数々あって、自虐的に開陳してみたい欲望にもかられたけど、抑えた。
組織の分社・統合・再編といった歴史は、終わりのない実験のようなものなので、省かせてもらった。
国際局、交流局、運動局、「100万人のキャンドルナイト」や「土と平和の祭典」など、今も続いている活動やムーブメントは、いずれ後輩が整理してくれるだろう。
個人的には3.11後の放射能対策を書きたかったが、総括はまだ先だと思い直した。
最後に-
大地を守る会が目指す“オーガニックが当たり前の社会”とは、たんに見かけ(表示)上の「食の安全性」が確保されたレベルではすまない。
生物多様性(生態系)が保たれ、地球資源が安定的に循環し、食生産の持続可能性とともに、経済的にも最も合理性をもった“安心の社会システム”が築かれた状態を、オーガニックは希求する。それが人類存続のための普遍原理のはずだから。
夢のような話だけれど、僕らは40年かけて小さなモデルをつくってきた。
このスピリッツが、これからもしっかり受け継がれ、小さなモデルが一つ一つ花開いていくことを信じて、40話をもって「ヒストリー」第1部を終えたい。
大地を守る会のミッションの行き着く言葉は、やっぱこれだね。
「子供たちの未来のために-」
創設時からずっと掲げ続けてきたこの言葉を「裏切らず、粘り強く」歩み続けること。
「大地を守る会」などという特殊な団体が不要になる日まで、だ。