1993(平成5)年のコメの大冷害に端を発した“米パニック”について、ここで改めて振り返ってみたい。大地を守る会にとっても厳しい教訓を残した出来事だった。
寒い夏だった。全国的に異常気象が頻発した。観測史上最速の梅雨入りとなり、梅雨明けは判明しなかった。台風も多く襲来し、東北太平洋側には何度もヤマセが吹いた。
稲の収穫の決め手となる7~8月は著しい低温・日照不足で推移し、遅延型冷害(生育初期に低温が続き出穂‐収穫が遅れ、結果的に減収となる)に障害型冷害(生殖生長期に冷害を受けることで受粉・受精ができず減収となる)が重なった複合型の冷害となった。
全国の作況指数は74という異常な低さを記録し、東北では収穫皆無(指数0)という地域も発生した。全国の収穫量は793万トン。当時の年間消費量約1千万トンに対して210万トンも不足するという未曽有の事態となった。
不安が広がる9月末、政府は100万トンの緊急輸入を決定する。
販売店に行列ができ始める。輸入米(タイ、米国、中国)は不評で、翌94年3月、食糧庁が輸入米とのセット販売を決定するや世間は大混乱に陥った。タイ米が捨てられていたといった報道が喧騒に拍車をかけ、海外からも批判の声が上がった。
米価は高騰を続けた。
大地を守る会でも秋から徐々に注文が増え、入会者も急増していったのだが、年を越して一人の注文量を制限したい旨の発表をした途端、注文数が天井を突き抜けた。
これでは早場米の出る7月まで持たない。3月にはついに「一人当たり2㎏まで、しかも産地は指定できない」という緊急措置に至ったのだが、会員からの非難が殺到した。
「計画が甘い。どうしてもっと確保しなかったのか」
「コメが目当ての入会は断れ。古くからの会員を優先すべきだ」
非難すべきは国なのにと思いながら、「どんな理由であれ、入会希望者は仲間として受け入れてほしい」と訴えた。どんなに罵られても、ここで分かち合えなかったら、大地を守る会は終わると思った。
なんでこんなことになったのかという怒りと、自分たちの非力への無念さがないまぜになったあの時の悔しさは、今でも忘れられない。
その後輸入量は255万トンにまで膨れ上がったのだが、94年が豊作となったため、結局90万トンの輸入米が売れ残った。加えて93年の国産米が相当量眠っていたことも明らかになる。高値を狙って売り惜しみされていたのだ。
この結果、食料自給率(カロリーベース)はついに40%を切り、コメの消費量の減少も加速された。売り惜しみした業者にとっては皮肉なことだ。「コメがなくても大丈夫」と知った人を増やしたのが“米パニック”だった。
緊急輸入は世界にも影響を与えた。
当時の世界のコメ貿易量は年間1200万トン程度で、アメリカを除きどの国も自給をベースとする作物だった。そこに日本が266万トンの輸入計画(結果は255万トン)を発表したことで国際価格は2倍に跳ね上がり、アフリカなど輸入国の飢餓を招いた。輸出国であるタイの国内価格も上昇し、タイの人たちの生活を困窮させた。
93年の暮れ、ウルグアイラウンドにおいて「ミニマムアクセス受け入れ+年々輸入量を増やす」という決着には、国際的なペナルティの意味合いもあったのだ。
しかし国内では、政府のコメ政策への批判はあっても、世界に与えた影響への反省はあまり語られなかったように思う。
この一連の教訓から、大地を守る会はふたつの行動を決意する。
ひとつは、ささやかでも自前の備蓄システムをつくること。もうひとつは、減反政策をただすこと。それは国家に物申す裁判闘争というかたちで提起された。
冷害は天災だが、コメ不足は人災である。
そして冷害は何年おきかに必ず発生する。
どんな不作の年にあっても、安心しておコメを届けられる仕組みを自分たちの手でつくりたい。国を批判するだけでなく、自分たちでやれる準備はやらねばならない。
そうして生まれたのが「大地を守る会の備蓄米」システムである。
この構想を実現できる相手はここしかない。そう確信して僕は産地に飛んだ。
福島県須賀川市の「稲田稲作研究会」。
除草剤1回のみ使用のコシヒカリを契約して5年ほど経っていた。
きしくも彼らは「稲田アグリサービス」という有限会社を立ち上げ、コメをモミのまま貯蔵するサイロに太陽熱乾燥という画期的な施設の建設にとりかかっていて、94年秋の収穫までに完成させる予定だった。
モミのまま品質を落とさず長期保管できる。まさに備蓄米のためにあるような施設だ。
研究会のまとめ役は伊藤俊彦さん。農協の営農指導者だった。
思いのたけをぶつける僕に、伊藤さんは輪をかけてやる気を見せてくれた。
「この施設の本領を発揮させてみせますよ」
あとは驚くほどトントン拍子に進んだ。
その年収穫される米を25㎏単位で先行予約を受け、翌年の秋まで保管する。作況が読めてくる夏からは5㎏単位で届けられるようにもした。
94年5月には予約受け付けを始めた。
この民間備蓄システムは大変な反響を呼び、マスコミの取材も殺到し、全国各地から注文が舞い込んできた。
しかし現地では、伊藤さんが窮地に立たされた。農協から、勝手な振る舞いだ、抜け駆けだ、と集中砲火を浴び、ついに彼は左遷されることになる。
閑職に飛ばされた彼を救ったのが「稲田稲作研究会」の生産者たちだった。
「観光ツアーのチラシなんか配っている伊藤の姿は見たくない」
「独立するなら、俺たちもついていくぞ」
生産者のあと押しを受けて伊藤さんは農協を退職し、株式会社ジェイラップを設立する。
以来22年、「大地を守る会の備蓄米」は今もしっかり続いている。
豊作の年も不作の年も、ジェイラップはいつも安定した品質のコメを届けてくれる。
そして3.11を経て、今では研究会メンバーだけでなく、地域からもっとも頼られる存在にまで成長した。