2週間の息継ぎを頂いて再開。
ここから「ヒストリー」第2章に入りたい。海路なき船出から「展開の時代」へ。
「大地を守る会」設立からちょうど6年が経った1981年8月。
流通部門を株式会社とし、それまでの累積赤字もだんだんと減っていく中で、新たなテーマが舞い込んできた。
ロングライフミルク(以下、LL牛乳)という牛乳が登場し、しかも常温で流通される道が開かれようとしている、というのである。
LL牛乳とは、130~150℃という超高温で殺菌され(一般的には120~130℃殺菌のUHT牛乳が主流)、内側にアルミ箔を張った6層のパックに無菌充填することで、常温でも3~6ヶ月保存可能という、いわば“牛乳の缶詰”である。
日本にLL牛乳が誕生したのは1976年。雪印乳業の試験製造に始まり、翌77年には明治、森永といった大手乳業メーカーも発売を開始した。その直後から消費者団体から批判の声が上がり始めるのだが、ここに生協運動の草分けと言われた兵庫県の大手生協が販売を始めたことによって、「よつば牛乳」の共同購入グループが猛反発し、以後、生産者(酪農家)・消費者を巻き込む形でLLミルク反対運動が広がっていった。
背景をちゃんと説明すると長くなるが、当時は一大生産地である北海道の牛乳が、酪農の近代化(機械化と大型化)路線によってダブついていて、常温流通と長期保存可能な牛乳(=安い牛乳)によって販売を増やしたいとの大手乳業メーカーの思惑がはたらいたと言われる。また常温流通は牛乳の輸入に道を開くという指摘もあり、危機感を抱いた関東の酪農家による「缶詰牛乳(LLミルク)絶対反対!総決起集会」が開かれ、「牛乳の南北戦争」と呼ばれる事態にまで至るのである。
そんな流れの中で1981年、LL牛乳推進側の要請(圧力?)を受けた厚生省(当時)は、食品衛生法に基づく乳等省令(乳及び乳製品の成分規格等に関する省令)で定められていた「要冷蔵」規定(牛乳は10℃以内に冷却して保存する)の撤廃に向けて動き出し、逆に反対側は「要冷蔵」規定の撤廃を阻止するという展開になる。全国的な署名運動が開始され、ここで大地を守る会も署名運動に参加したのだった。
翌1982年3月、全国から集まった8万筆の署名が厚生省と農水省に提出された。
たかが牛乳と笑うなかれ。牛乳はただの飲料ではなく、子供たちの成長にとって大事な栄養源のひとつである。新鮮な牛乳が缶詰牛乳に駆逐されてしまうという危機感は、酪農家だけでなく消費者にも深まり、特に母親たちを突き動かした。運動はどんどん活発になって、波状攻撃のように集会やデモが開かれ、厚生省や雪印本社に敢然と乗り込んでいくお母さんたちの姿があった。
その運動真っ盛りの中で入社した僕は、集会に駆り出されるだけでなく、デモの先導車の運転を命令されたりした。今ならブラック企業も真っ青になるような話だ。
街宣車を貸してくれたのは、当時「社会市民連合」の議員だった管直人さん(後の首相)である。かなりボロい車で、どの日のデモだったか、銀座・数寄屋橋交差点のあたりでエンストして動かなくなり、意図的な戦術と勘違いしたお巡りさんから「貴様、逮捕するぞ!」と恫喝されたこともあった。逮捕寸前でエンジンがかかって、もうちょっとで警官をはねてしまうところだった。管事務所に戻って車のキーを返しても謝礼は払わず、むしろカンパをせがまれるのから逃げるほうが先だった。お互い貧しかった。
厚生省交渉では、夜になって門が閉まり、閉じ込められたのか居座ったのかは議論の分かれるところだが、配送から帰って毛布や布団を差し入れに走ったこともある。そうしていつのまにか、大地を守る会の事務所は関西から来た団体の宿泊所と化していた。食いものと酒だけは常にあったし。
夜の交流は熱かった。この連帯感が、その後生まれる様々な運動の原動力ともなっていくのである。
いっぽうで、僕らは着実に勉強も重ねていた。 (続く)
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