1982年9月に低温殺菌牛乳「大地パスチャライズ牛乳」を実現しても、LL牛乳反対運動は激しく続いた。
デモには子供をおぶった母親たちが詰めかけ、「要冷蔵」規定撤廃を既定路線として進める厚生省との攻防もピークを迎えつつあった84年6月には、関西の団体7名が数寄屋橋公園でハンガー・ストライキを決行した。それは最長15日間に及び、僕らはその周辺で5万枚のビラを配り、道行く人に低温殺菌牛乳をふるまった。
普段なら価格や安全性で対立しがちな生産者と消費者が、日本の酪農を守る、子供たちの健康と未来を守る、の2点で手を結んだ稀有な運動だった。
僕の記憶では、当時の大地を守る会事務局長・加藤保明は、ほとんど“牛乳の加藤さん”と化していた。今日は日本消費者連盟で会議、今日は行政交渉、あるいは全国総決起集会の準備、各地での牛乳講座の開催に丹那牛乳見学会の設定、などなど。他団体からも頼られて、八面六臂の活躍といえば聞こえは良いが、「加藤さんは?」「今日もLL(=留守)」……ああ、また仕事が降ってくるのね、みたいな。
でも、どんな役割を振られてもみんなの心が揺るがなかったのは、「これが大地を守る会だ」と言えるものを獲得しつつあったからだと思う。かつての“みにくいアヒルの子”が社会に飛び出して、いつの間にか運動の先頭を歩き始めていた。
低温殺菌牛乳の普及でも新たな展開が生まれていった。
何とか最低製造ロットをクリアしてスタートしたものの、さらに増やして酪農家を元気づけるには、1団体の力では限界があった。
そこで大地を守る会は、他団体にも購入を呼びかけるという作戦に出る。PB(プライベート・ブランド)商品として独占せず、他団体と一緒になって低温殺菌牛乳を育てていこうという、それはけっこう勇気のいる決断のはずだが、僕らはむしろ「これが運動なんだよ!」と胸を張ったものだ。LL牛乳反対の終章につながる道筋をつけるためにも、ためらう必要はなかった。
最初の仲間は「ポラン広場」だった。有機農産物をリヤカーで引き売りするヒップな八百屋グループ。「ジャック」という団体から袂を分かって、独自の商品開拓を目指していた。そこで丹那牛乳を案内し、「一緒にやろう」と持ち掛けた。
同時に働きかけたのが、LL牛乳反対運動でつながった静岡県下の共同購入グループだ。黒里を耕す会(富士川町、当時/以下同じ)、自然と暮らしを考える会(清水市)、街と生活を考える市民センター(静岡市)、生活クラブ自然と暮らしを考える会(沼津市)、金曜会(土肥町)、そして神奈川の「土と健康を守る会」。
1985年5月27日、ポラン広場と大地を守る会を合わせた8団体が集まって「丹那の低温殺菌牛乳を育てる団体連絡会」(略称「丹低団(たんていだん)」)の結成が宣言された。
それぞれの独自性を認め合いながら、ともに「丹那の低温殺菌牛乳を飲み、広げていくこと」。約束事はそれだけだった。
「丹低団」の結成によって消費量は飛躍的に伸び、丹那牛乳(函南東部農協)との交流はさらに活発化した。毎年春に開催された交流会は数百人の参加者で賑わった。今や函南町の名物となった「猫おどり」は、何を隠そう、丹那牛乳との交流イベントから生まれたものだ。
低温殺菌の条件ともいえる衛生的な生乳を生み出すために、消費者は牛の乳房を拭く布巾を集めては、生産者に届けた。
牛乳パックの回収を開始したのも85年の春だった。牛乳パックには良質のバージン・パルプが使われているが、表面がコーティングされているため、紙として回収できないという事情があった。この牛乳パックを再生させようという活動を始めたのである。
最初に呼びかけたのは山梨県大月市の子育てグループ「ひまわり」の平井初美さんだったが、この回収運動を全国に広げるために大地を守る会は事務方を引き受け、「全国牛乳パックの再利用を考える連絡会」(略称「パック連」)を結成することになる。
今では全国どこでも牛乳パックは分別回収されている。一人の主婦の呼びかけから始まった運動では、成功した稀有の事例である。
“反LL”でつながった団体が“創る”運動でもつながり、様々に広がろうとする気運が生まれていた。「丹低団」と「パック連」はその萌芽を象徴するものだった。
「ネットワーク」という言葉が登場し、市民運動は新たな成長段階に入ろうとしていた。