1980年12月、暮れも押し迫る中、いよいよ岩手県山形村(現久慈市山形町)から大地を守る会向けに短角牛3頭が出荷されることになった。
しかしここでとんでもない事態が起きる。岩手県内の屠畜枠がいっぱいで「牛がつぶせない!」というのだ。年末の忙しい時期でもあり、交渉するも相手にされなかった。会員からの注文はすでに入っていた。
そこで急きょ、㈱大地牧場代表(当時)の道場公基(まさき)さんは埼玉・入間黒豚振興会のつてを頼って、埼玉県所沢の屠場でつぶすことを決断する。
「埼玉で引き受けるから運んでくれ」
その連絡を受け、トラックに3頭の牛を載せて走ったのが生産者の栃元福太郎さん。岩手の最北から埼玉まで、雪の中を走り続けた。
屠場で、徹夜で待ち続けたのが室井好文さん。翌朝、栃元さんが屠場に到着した時は「目頭が熱くなった」と聞かされている。
しかし車から降ろした牛が逃げ出して、大騒ぎになる。短角牛の走りは速い(実際に村の牧場で走っているのを見たことがある)。みんなで追いかけて何とか屠殺にこぎつけた。まるで三谷幸喜の脚本ばりのドタバタ劇である。
そして検査した獣医から、驚きの声が上がったのだった。
「すごい! 肝蛭(かんてつ、肝臓に寄生する虫)が入ってる!」
それこそまさしく、薬を投与していない証拠だった。
畜舎で配合飼料を多給する一般的な日本の畜産は“薬漬け”とも言われ、病気などで内臓の全部あるいは一部が廃棄される牛は、全体の6~7割にのぼると推測される(どうも正確なデータがつかめない)。
日本の風土に適応し、育てられてきた健康な牛。それはたんに「安全性」に留まらない。ここで大地を守る会は「本来の畜産」を語る道筋をつかんだのだ。
大地を守る会の畜産部門として1980年5月に設立された㈱大地牧場の進撃が、ここから加速される。
道場・室井コンビは陸中農協とともに、また東北農業試験場の滝本勇治先生や東北大学の山岸敏弘教授らの協力も得ながら、山形村短角牛の肥育方法の改善や肉質の向上に取り組み始める。
さらには村の短角牛生産体制を安定させるために、仔牛を市場経由でなく、肥育農家が一定価格で買い取って最終的な枝肉価格と連動させる価格保証システムの導入をはかった。それは「評価購買方式」と呼ばれた。
通常、繁殖農家が育てた仔牛の価格と、肥育農家が仔牛を買って育てた牛の枝肉価格は別市場であるため、仔牛の価格が上がると肥育農家は経営を圧迫され、仔牛の価格が下がれば繁殖農家はやっていけなくなる。繁殖農家が減れば仔牛価格は上がる。こうして繁殖農家と肥育農家は、仔牛と肉という別々の市場で上下する価格に振り回されながら苦しめられることになる。その構造は今も変わっていない。現状は……この項の最後にお伝えしたい。
ご想像いただけると思う。評価購買方式は、仔牛から肉までの価格体系を一貫的につなげ支える、画期的なシステムとして大きな反響を呼んだのだった。
大地を守る会はまた、岩手県畜産課長・村田篤胤さんとの約束も忘れなかった。
村内で生産される大豆も契約し、平飼いの南部笹地鶏、大根やホウレンソウ、松茸にシイタケに山菜と、取り扱い品目を増やしていった。炭や木酢液を販売した時期もある。
そうして1983年夏、大地を守る会の消費者会員が現地を訪れ生産者と交流する「山形村ツアー」が、初めて実施された。
2泊のうち1泊は農家に民泊して親交を温め、牛に触れ、豆腐作りや炭焼きを体験し、闘牛に興奮し、短角バーベキューで舌鼓を打ち、加藤登紀子さんのコンサートで締めくくった。
ここでも、今だから笑える話が生まれた。
初めて都市の消費者(=他人)を受け入れるのに思案した生産者たちは、コーラやスーパーで買った食材を用意したのだが、逆に参加者が感動したのは村にある昔からの素材だった。山菜、イワナやヤマメ、蕎麦、生活民具…。特に村の人たちを驚かせたのが、恥ずかしいから隠そうとした雑穀だった。
山形村との交流ツアーは、以後も毎年欠かさず実施されてきた。その積み重ねの中で、村民たちは“村にある当たり前のもの”-自然や食材など、つまり自分たちが育んできた“文化”への自信と誇りを深めていったように思う。ここで消費者のはたした役割は大きい。
短角牛の取引量は年を追って増えてゆき、90年代に入って、両者の関係は次のステップに踏み出すことになる。(続く)