1986年は、いろんな意味でエポックの年だった。
4月にチェルノブイリ原発事故があり、全国に雨後の竹の子のように反原発グループが生まれた(当時は「脱」ではなく「反」だった)。食の安全を謳う団体はほぼ原発反対の立場を表明した。ただ、まだバラバラだった。
原発事故はまた、自分たちの暮らしのありようを見直させる気運を高めた。自然と調和したライフスタイルを希求する若者が増え始めていた。それはかつてのヒッピー・ブームの延長ではなく、もっとフツーの感覚として静かに広がりつつあった。
有機農業に代表される「食の安全」運動は、圧倒的少数派から成長期に入っていた。大地を守る会の「夜間宅配」の成功が、それを物語っていた。チェルノブイリ原発事故は、この流れに拍車をかけた事件となった。
また「食の安全」は、必然的に様々なジャンルやテーマとつながっていた。公害問題や自然保護(エコロジー)、合成洗剤反対とせっけん運動、使い捨て社会を見直すリサイクル運動、地域おこし、子どもの教育、エネルギー問題……。さらには、貿易のひずみ(南北問題)による第3世界の貧困化に対して、新たな民衆レベルでのつながりを模索するグループも現れていた。地球の裏側で起きている熱帯林の破壊は私たちの食生活とつながっている、そんな問題提起もあった。
「危機は国境を越えて地球的規模で進んでいる」が、それぞれのジャンルで活動する人たちの共通認識となっていた。
2月にはフィリピンでマルコス大統領が失脚し、コラソン・アキノ夫人が大統領に就任するという「ピープルパワー革命」が起きていた。西ドイツでは「緑の党」が政策を左右する勢力に成長しつつあった。
9月にはアメリカの精米業者協会から日本に対して、コメの市場開放の要求が突きつけられた。輸入自由化に反対する運動が一気に高まり、なんと農協と消費者団体が一緒になって「日本のコメを守ろう!」のスローガンを掲げるという状況が生まれた。
みんな“つながり”を求めていた。しかし市民運動や消費者運動には、それぞれの存在基盤となる原理・原則があって、大きな方向では一致できても具体的な方法論となると「お前とは一緒にやれない」となり、はては相互に批判し合うような現象も相変わらずあった。
その頃から「オルタナティブ」(alternative:もうひとつの、代案の意)という言葉が使われるようになっていた。既成の仕組みや支配勢力に対して反対するだけでなく、「もうひとつ」の仕組みや生き方を提示し、形にしていこうという思想を表現したものだ。
考えるまでもなく、有機農業もせっけん運動も、魚の産直も、LL(ロングライフ)ミルク反対から低温殺菌牛乳を生んだのも、まさにオルタナティブな「提案運動」そのものだった。この言葉は市民運動にフィットした。
一本の「国産無農薬バナナ」をきっかけにいくつかの団体が集まって、議論は「オルタナティブな社会を目指す人々・グループの大同団結を目指そう」と広がっていった。
それぞれが網の目のようにつながっていて、情報が行き渡り、互いの自立(自律)性を尊重し、多様性(この言葉はまだハシリだった)を認めながら自由に参加でき、一点でも協力しあえる。そんな共生型のネットワークをつくりたい……。僕らはたしかに時代を感じ取っていたように思う。
まだインターネットは市民の手になかった。
実行委員会が取り組んだのは、いわば「『ばななぼうと』という場」への参加の呼びかけ(発信)と、それに伴って発生した住所録づくりだった。
“いのち・自然・くらし”をキーワードに、全国の市民団体(今でいうNGO・NPO)やショップなどのリストが積み上げられてゆき、その数は1,300件以上に膨れ上がった。
そうして1986年10月5日、出航日を発行日として完成した一冊の本が『ばななぼうと』(ほんの木刊)である。
実行委員会に参加したリーダーたちが「ばななぼうと」に寄せた思いを語り合うと同時に、集められた住所録が巻末に加えられた。「この住所録だけでも買う価値がある」と言われたものだ。コラソン・アキノ大統領からのメッセージも掲載された。
「もうひとつの生活を創るネットワーカーズの舟出」と付されたサブタイトルに、身が震えたのを覚えている。
「違いを認めながら協力・協働し合える関係」を議論しながら、たどり着いたのが「モノ提携・テーマ連合」という言葉だった。
具体的なモノ(生産物など)は協力して広げ、運動テーマではゆるやかに連合しながら進む。
議論の中から、他にもいろんな言葉が生まれた。
「この指とまれ方式」(とまった人たちで動く。とまらない人を批判しない)。
「ボクらは右でもなく左でもなく、前に進む」。
そして「食える市民運動」である。ここから「市民事業」という言葉も生まれる。
企業に勤めながらサラリーを得て、余った時間で活動するのでなく、この活動で暮らしを成立させる。「ばななぼうと」は“たたかう生活者”宣言でもあった。
全国から垣根を越えて集まった団体が170。520名の乗員を乗せて、1986年10月5日、坩堝(るつぼ)のような船が神戸港から出航した。