1986年10月、今から30年前。
全国から集まった170の団体520名を詰め込んで船出した「ばななぼうと」。
「材料を投げ込み過ぎて消化不良を起こした巨大な胃袋」(島バナナの会・奥田隆一さん)と評されながらも、それは一過性の熱いイベントでは終わらなかった。
「批判・告発型の運動から提案・創造型の運動へ」という呼びかけから、「食える市民運動(こっちの世界で飯を食う)」などと生々しく語り合っているうちに、「市民事業」と呼ばれることになる新しい事業がいくつも生まれ始めた。オルタナティブ(alternative:もうひとつの、代わるもの)という言葉が市民権を得ていくのも、ここからである。
ここでは、代表的な事例をふたつ挙げたい。
まずは1989年の「オルタートレードジャパン」(ATJ)の設立である。
「ばななぼうと」に乗り込んできた団体の中に、飢餓に苦しむフィリピン・ネグロス島の砂糖労働者の支援活動に取り組む「ネグロス・キャンペーン委員会」があった。
彼らは、国内農業の再生を第一義とする自給派・有機農業派(我々のこと)に、厳しい問いを突きつけてきた。
「私たちの暮らしそのものが南の人々を苦しめている」
「国内の安全な食べものを食べる、それだけでよいのか!」
船内でシンポジウムが開かれ、現地の労働者から惨状が訴えられ、どういう形で連帯できるのかが模索された。
多国籍企業や商社への依存から脱して、自分たちの手で砂糖の公正な貿易を実現させようと、いくつかの生協が手を上げ、1987年、ネグロス島からマスコバト糖の輸入が始まった。そこから民衆貿易(交易)という言葉も生まれた。
続いて、ネグロスの人々の自立を助けるために、島に自生していたバランゴンバナナの輸入が始まったのが89年2月。その年の秋に、ATJが設立された。
自給派の総代と目されていた大地を守る会は、ATJに出資する形で応援しつつも、国産のバナナやサトウキビの生産支援を優先する(輸入バナナは扱わない)立場を堅持した。
しかし国産バナナは毎年台風にやられ、“幻のバナナ”とか呼ばれるようになってしまい、代替案としてバランゴンバナナの取り扱いに踏み切ったのは99年になってからだった。
その後、パレスチナのオリーブ・オイル、東チモールのコーヒーと支援の輪は広がって、パレスチナには独自の基金を準備して、農道の建設(だいちロードと名付けられた)などで支援を続けるまでになっている。
それでもまだ、砂糖は国産(種子島・喜界島)のみ、だ。国内のサトウキビ産業がある限り守り続ける。それが大地を守る会である。
それぞれの立場を尊重しつつ“モノ提携・テーマ連合”は進化し、民衆貿易は「フェアトレード」産業として発展した。
そしてもうひとつ。
「日本リサイクル運動市民の会」と「大地を守る会」が提携して、新しい有機農産物の宅配組織「らでぃっしゅぼーや」が誕生した。1988年のことである。
それは外部には信じられない出来事だったようだ。
何しろ大地を守る会は、85年から宅配事業を始めていたにも拘らず、いわば競合団体の設立を全面的に応援したのだ。仕組みづくりから物流まで、持っているノウハウをすべて提供したと言っても過言ではない。
ゼロからスタートして針路ない道のりを右往左往しながら進んできた大地を守る会と違って、CIから組み立てた「らでぃっしゅぼーや」は急速に発展した。
そして実現させたのは、有機農産物の飛躍的な伸びである。人も畑も、増やすことができた。
このチャレンジングな取り組みは世を驚かせたが、しかしそれはある意味で必然的な流れでもあったように思う。安全な食べものを求める人が増えれば、相応して新たな仕組みが生まれる。“食の安全”を当たり前にするためには、多様な販売チャンネルが育つことが必要だった。僕らは川の流れに思いっきり竿をさして、スピードを加速させたのだ。
「大地」と「らでぃっしゅ」は、今も競争しながら有機農業の世界を拡げている。
それは有機農産物の表示ガイドラインからJAS制度へ、そして有機農業推進法へと至る歴史ともつながっている。
インターネットがまだ市民の手になかった時代。
僕らは市民団体の分類別住所録を作り、つながろうとした。ネットワーク、オルタナティブ、フェアトレード……新しい言葉が生まれ、様々な事業が誕生した。
株式会社も作りようと運営次第で自分たちのものとなる -大地を守る会の組織論がようやく認知された時でもあった。
今でいう“ソーシャル・ビジネス”が当たり前の世の中にする。
僕らはそんなイメージを抱いて「ばななぼうと」を漕いだのだ。
いや、今も漕いでいる……