ヒストリー

走り続けて40年、大地を守る会の原点をたどる

【第31話】大地を守る会に「国際局」誕生!

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社会のアウトサイダーの、小さな動きでしかないと思われていた我々に、風が吹いてきた。「ばななぼうと」は、多くの市民団体(NGO)にその風を実感させた。俺たちが時代を創るのだ、そんな熱情がほとばしった6日間だったし、その後もエネルギーは衰えることなく、様々な市民事業を誕生させ、また団体間の連携(ネットワーク)を強くさせていった。

 

大地を守る会は紛れもなくその輪の中心にいたのだが、しかしまだ、ひとつの大きな対立点が残されたままだった。

ばななぼうと」で行われたシンポジウムで、大地を守る会は農産物の輸入に反対する立場を一貫させた。たとえ連帯すべきアジアの農民が作ったものでも、まずは国内の一次産業を守ることが前提だった。ましてや農産物がどんどん自由貿易にさらされていく時代である。自給の大切さは訴え続けなければならない。

しかしアジアの農民たちを支援しようとする国際派の陣営からは強い批判を浴びせられた。ではアジアから収奪してきた自分たちの責任はどう捉えるのかと。

食の自給と国際連帯のあり方を考える、「ばななぼうと」はこの宿題を我々に突き付けた事件でもあったのだ。

 

大地を守る会らしいやり方で世界とつながりたい。対立ではなくて止揚する(矛盾を統合させて発展させる)道筋を考えたい。そんな模索を始めたところに、今度はコメの輸入反対運動の中から、いわば自給派陣営から、デカい話が飛び出してきた。

1987年8月、場所は日本消費者連盟の会議室だった。

 

前年秋にアメリカからコメの市場開放要求があって、大地を守る会はいくつかの消費者団体や生産団体、生協、学者らと一緒に「コメの輸入に反対する連絡会議」という組織を結成して、自由化に反対する運動を展開していた。87年3月には「ジョーダンじゃないよ、コメ輸入!全国集会」を開催して400人の市民を集めるなど、手応えを得ていた時だ。

 

その連絡会議の中から、コメと食糧問題を考える草の根の国際シンポジウムをやろう、という声が起こった。発案者は国学院大学教授(当時)の大崎正治さんだった。

最初はとても無謀な提案だと一笑されたが、議論を重ねるうちに気運が盛り上がり、学生ボランティアや協力者、そしてカンパが続々と集まり出し、世界各地から参加表明があって、1年後の1988年8月26~27日、『食糧自立を考える国際シンポジウム』と銘打って開催の運びとなった。場所は八王子の大学セミナーハウス。集まった資金が1400万円(全額カンパ)。この1年の準備もまた、凄まじく忙しかった。

 

現代農業(農山漁村文化協会)1989年3月増刊号より

現代農業(農山漁村文化協会)1989年3月増刊号より

 

会議には、米国、タイ、韓国、台湾、そして西アフリカのブルキナ・ファソから参加があった。2日間の熱いディスカッションは、様々な問題を浮き彫りにさせた。

自由貿易の拡大は、輸入国のみならずアメリカの家族農業も破壊しつつあること。コメの輸出競争はアフリカの自立も妨げていること。自由貿易で利益を得るのは国ではなく多国籍企業であること。食糧の自給を基盤にしてこそ地域文化や環境も守られること……

西川潤早大教授や飯沼二郎京大名誉教授など、名だたる学者が手弁当で参加してくれた。アメリカからは貿易の拡大に反対する農民運動の指導者やアナリストが明晰な分析を展開した。

 

2年前の「ばななぼうと」に続き、このシンポでも裏方の事務局を担った僕は、例によって会議の内容はほとんど聞けなかったけれど、食の自立を基盤にして世界の農民がつながることが今こそ求められているのだと、会場を包む熱気から感じていた。

 

この国際シンポは閉会後も各地に飛び火し、海外ゲストは全国12ヵ所に分散し、シンポジウムや交流会が行われた。僕は自分のワゴン車を出動させ、アメリカ・カリフォルニアの農民ハワード・ビーマン氏とタイのポンピライ・ラートウィチャー女史、大地を守る会の藤田和芳会長、そして通訳に石田洋三職員を乗せて、愛知県渥美半島まで走った。

現地で、あるいは車中で、米国・タイ・日本の3ヵ国討論を繰り広げながら、藤田はおそらく、大地を守る会なりの国際交流のイメージを膨らませたのではないだろうか。

 

そしてこのシンポをきっかけに、大地を守る会は一人の人物と深くつながることになる。現在、大地を守る会国際局の顧問をお願いしている小松光一さんだ。

当時は千葉県農業大学校の教官で、『若きドンファーマへのメッセージ』(農文協)、『宇宙の創り方教えます -広場と祭りの青年論-』(冨民協会)、『おもしろ農民への招待状 -農業近代化が終わり、おもしろ農民がやってきた-』(農文協)などの著書があり、先行き暗い農業論が多い中で、若手農業者たちから絶大な人気を博していた。

しかも小松さんは、タイ東北部で農村開発に取り組む青年たちとも交流を重ねていた。

 

小松光一さんとの出会いは、藤田にとって胸中に溜まっていた埋火を一気に発火させる起爆剤になったように思う(僕の勝手な解釈だけど)。

藤田&小松コンビは、あっという間にアジア農民との交流プログラムを描き上げていった。そして1990年、自給派の頭目と言われていた大地を守る会に、突如として「国際局」が設置されたのだった。

戎谷 徹也

戎谷 徹也(えびすだに・てつや、通称エビちゃん) 出版社勤務を経て、1982年11月、株式会社大地(当時)入社。 共同購入の配送&営業から始まり、広報・編集・外販(卸)・全ジャンルの取扱い基準策定とトレーサビリティ体制の構築・農産物仕入・放射能対策等の業務を経て、現在(株)フルーツバスケット代表取締役、酪農王国株式会社取締役、大地を守る会CSR運営委員。 2008年農水省「有機JAS規格格付方法に関する検討会」委員。2013年農水省「日本食文化ナビ活用推進検討会」委員。一般財団法人生物科学安全研究所評議員。