子供たちの未来のために、美しい大地ときれいな海を取り戻そう!
この言葉が大地を守る会のスローガンとして定着したのがいつなのか、正確な記録がない。ただ1982年3月に開催された「大地を守る東京集会」で、「きれいな海と安全な魚を取り戻そう」と書かれた垂れ幕が登場しているので、その直後あたりだろう。
前年から鮮魚の取り扱い論争が始まり、84年の「大地そして海へ!」へと続くなかで、大地を守る会は連続的に“海を考える”勉強会を重ねていった。養殖漁業の問題、合成洗剤の問題、そして原発の問題……。
繰り返しになるけど、“海を守るための魚の産直”に取り組むことで、大地を守る会は原発という怪物とも正面から向き合うことになる。政治が絡む問題はともすると避けたがるのが企業の常だけれど、海を守ろうとする漁民とつながる以上、ただ批判的な論評だけで済ませることはできなかった。
1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故で、大地を守る会はすぐさまに「有機農業と原発は相いれない」と宣言し、はっきりと脱原発の姿勢を表明することになる。この方針に真っ直ぐに進めたのも、それまでの学習と水産物への取り組みの経過があったからだ。
いつしか“骨太の大地”とか言われるようになっていた。
しかしこの30数年の間には、つらい時期もあった。
一部の会員から「安全な食べものの普及に専念すればいいのに、反(脱)原発など唱えるから会員が増えないのだ」と批判された時代があった。
総会で「原発に反対するなら、会員をやめる」と迫られたこともある。
しかし有機農業の立場から海を見てしまった大地を守る会にとって、この旗は降ろせるものではなかった。それは個々の思いもあっただろうが、何より「大地を守る会の魚」がそうさせなかったのだと、僕は思っている。
福島第一原発の事故があって、「一貫して主張してきた大地(を守る会)はすごいね」と言われたりしたが、けっこうキツイ雨風をしのいできたのである。
支えたのは冒頭のスローガンに他ならない。
水産物の取扱量が増えるにしたがって、生産者と消費者の交流も活発になっていった。
1996年には、当時発行していた季刊雑誌『がぶり』(3年11号で資金切れのため廃刊)で海の特集を組んだ。そこで取材したのが、北海道で木を植え続ける漁師たちだった。
40年かけて日高昆布を復活させたえりもの漁師。厚岸(あっけし)町の別寒辺牛川(べかんべうしがわ)流域で植林活動をする「緑水会」の漁師に婦人部の女性たち。山から海までのつながりを可視化する試みだった。
僕はこの雑誌の頼りない編集長だったが、この号にかけた思いを一所懸命に書いた。
海に森があり、山は海の源であった。今回はまるで山に潜り、海に登っているかと思うような作業だったが、地球上のすべてのものがつながって循環している様を、わずかながらも垣間見ることができた気がする。
私たちの何げない日々の暮らしの向こうで、ズタズタになっていく生存の基盤。
しかしそれでも自然との共生を当たり前のように理解し生きる偉大な楽観主義者たちがいて、私たちの暮らしは辛うじて支えられているのかもしれない。
やっぱり環境問題を語るべき主役は、山や海や大地とともに生きる人々だと、改めて思うのである。(編集後記より)
海へのアプローチも、大地を守る会は実に武骨だった気がするが、さらに紆余曲折で鍛えられた勢いをバネにして1997年、専門委員会「おさかな喰楽部」が発足する。
そこで始まったのが、「緑水会」の森の再生活動への応援だった。もちろん牡蠣やサンマの取り扱いとともに、だ。
鮮魚論争から16年を経て、森から海への生命のミネラル循環を取り戻す世界を語れる、そんな地平には辿りついたかと思う。
2000年には千葉・船橋の漁師とともに、東京湾・三番瀬に打ちあがるアオサを資源化する「東京湾アオサ・プロジェクト」を始めた。
掲げたスローガンは「有機農業が海を守り、海が有機農業を育てる」。
やっぱ武骨だ……けど、安全な食べものは「手に入れる」ものではなくて、アクティブに「育てていく」ものだと、僕らは「魚」を通じて学んできたのだ。
そのプロセスには誇りを持ちたい。
この道のりに終着点はない。
いま売り出し中の「もったいナイ魚」シリーズから、新しい物語やロマンが生まれることを願ってやまない。