1975年設立より有機農業の普及・拡大を目指しながら、80年代に入ると、大地を守る会の活動領域は大きく広がりを見せ始める。
ロングライフ(LL)牛乳反対運動から始まって低温殺菌牛乳を開発したのが1982年。日本の風土に根ざした畜産を追求するなかで日本短角種という牛と出会ったのが1980年。
前回まで、この二つの事例を抽出して、今日までの足取りを辿ってみた。いずれも大地を守る会の実践論を象徴する典型的な素材として語り継がれてきたものである。
加えてもうひとつ、同時期に繰り広げられた論争があったことも、この「ヒストリー」には残しておきたいと思う。
81年9月のこと。
株式会社大地(当時)から会員向けに、新たな提案が発せられた。
「共同購入で鮮魚も取り扱いたい」
魚製品の取り扱いは、79年2月に島源商店(静岡県伊東市)さんの天日干しの干物から始まっていて、その年末からは正月用食材に限って新巻鮭などの塩蔵品や冷凍魚も扱うようになった。81年には遠藤蒲鉾店(宮城県塩釜市)の無添加練り製品も登場する。
その流れのなかでの、本格的な水産物取り扱いの提案だった。
しかし当時は公害問題がクローズアップされていた時代である。近海域の汚染に加えて、“背曲がりハマチ”に代表される養殖での薬物使用なども話題になっていた。
食に安全性を求める会員からは、当然のごとく「なに考えてんのよ、大地は」といった反発が起きた。
「もはや安全な魚はないと言われるなかで、なぜ魚を販売する必要があるのか」
「魚を扱うことによって、大地を守る会の安全基準が後退する」
「大地を守る会は、農業問題に注力すべきだ」
「商売に走っちゃって、ああこれで大地(を守る会)は終わりだわ…」
しかし議論は深まりを見せた。
「海の汚染は陸の矛盾の結果である。関係ないではすまされない」
「近海の魚を食べないとは、漁業者と海を見捨てることだ」
「有機農業は独りよがりな安全主義ではない。海(漁業者)ともつながるべきだ」
この論点、聞き覚えはないだろうか。
そう、福島原発事故後の“食べる・食べない”議論に極めて似ている。
鮮魚論争の時代から、僕らは鍛えられてきたんだと言えないか。
ここで、有機農業運動で語られてきた大切なキーワードが重要な役割を果たす。
「考える素材」という言葉。
有機農産物はたんなる“安全な野菜”ではない。農業のあり方から暮らし方まで問い直すための“素材”である。
またそれは、食の安全を取り戻すために必要な、生産と消費の信頼関係を取り戻すためのバトンのようなものである。
陸で安全な食を希求するなら、海を守ろうとする=海産物の安全を取り戻そうとする生産者(漁業者や水産加工者)との連携を、その生産物を通じてつながろう。
半年にわたる議論の末、「考え方の相違を認め、討論を継続する」という合意の下で、1982年3月、鮮魚・冷凍魚の供給が始まった。
もちろんそれは、食べることを強要することではない。
ちなみに当時の提携先に、青森・大間原発建設計画に反対する佐井村漁協の名がある。鮭やワカメなどをいただいた。
大地を守る会が「原発反対」を掲げたのは86年4月のチェルノブイリ原発事故から、と理解されている方が多いが、僕の認識では「魚を扱うこと」から始まっている。
実際、そうだった。鮮魚論争の中で、原発の勉強会もあったのだ。
いやそもそも、有機農業運動はもとから原発否定の立場だったが、大地を守る会が明確に姿勢を固めたのは、魚に手を出したからだ。
「扱う」とは事業に組み入れることで、これはただの意見ではなくなる。それは大げさに言えば、自分の姿勢に腹を決めることである。
近海の魚を食べる=沿岸漁業を支援する=ともに海を守る=原発とは相いれない。
チェルノブイル直後に「脱原発」行動を宣言した背景には、鍛えられた時間があった。
「考える素材」という言葉(とその含意)を忘れないようにしたい。
大地を守る会設立40年。福島原発事故を経験して間もなく5年。
僕らは改めて原点から今を見つめ直す必要がある。
大地を守る会の魚は、今も海を守る道筋の中にあるか…