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秋田・八郎潟の干拓と減反
2018年、約50年にわたり続いてきた「減反政策」が廃止されました。減反政策とは、米の生産量を減らすという国による政策です。第二次世界大戦下の日本では、食糧不足を解消するため、1942年に「食糧管理法」を制定。米や麦など穀物を中心とした食糧の生産・流通・販売は、国の統制のもと行われました。その後、1960年代には、品種改良や栽培技術の向上、機械化などにより米の生産量はピークに達し、余剰状態になります。米の余剰とともに、米を農家から高い価格で買い取り、消費者へ安い価格で売っていた食糧管理法で出た赤字を解消するため、1969年に減反政策が開始されたのです。 時を同じくして、琵琶湖に次ぐ国内第2の広さを誇る秋田県の八郎潟では、世界銀行と国際連合食糧農業機構の調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が認められ、約20年の歳月と約852億円の巨額の国費を投じた大事業が行われました。湖底から生まれ変わった大地に開村した「大潟村」には、1960年代後半から1970年代半ばまでの間5回にわたり、全国から入植者が移り住んできました。【送料無料】おいしい・便利・安心がかなう宅配!まずはお得に、お試しセット1,980円!
正義の男は自ら農家になった
「ぱっと見るといいけれど、そばに寄って見たら、稲穂の先が切れている。ちょうど実りの時に来た台風の強風やね。7月は低温、8月は酷暑やし、異常気象だな。食味はよさそうだけれど、収穫量が2割減。おもろない(笑)」。コンバイン(稲刈り機)が進み続ける広大な黄金色の稲田に、笑いながら軽トラックから降りてきたのは、ライスロッヂ大潟(秋田県大潟村)の黒瀬正さんです。滋賀県庁の農政課で勤務後、1975年に大潟村に入植し、米を育て続けています。 「減反政策が始まる前、戦後も続いた食糧管理法で、余ってもまずくても一定の価格で国は米を買い取っていた。農家は農薬や化学肥料を使ってでも、とにかく量をとろうとしていた。当然、米は余るのよ。減反政策が始まると、行われていた大潟村への入植も一時中断され、すでに米を作っていた農家も戸惑った。『米が余って赤字がかさむ』という大蔵省と、『新しい農業モデルをつくる』という農水省は対立状態だった」。干拓事業と減反政策は、農地を作ったのに米を作らせないという矛盾をはらんでいたのです。 「もともと湖だった大潟村は水はけがよくないから、栽培できる作物は主に米。村の農家は、減反賛成・反対で真っ二つに分かれた。減反政策に従うともらえる補助金があり、また利権が絡んで話が前に進まない」。国とのやりとりで黒瀬さんは、「そもそも食糧管理法は、食糧が不足した時にのみ、政府は政令を持ってできるもの。この運用に法的根拠はない」と理路整然と言い放ちます。しかし、減反政策は強化され、米の作付面積削減の強い要求、栽培したら稲を刈られる「青刈り」、土地を没収するという呼びかけまで行われ、自ら命を絶つ人も出たのでした。 「農家の誇りまで奪っている状況が許せず、だったら自分が変えてやるというのが、減反問題に関わった理由やね。でもね、役人だけが悪いのではなく、農家も自立心をなくしていた。しがらみのない環境で、みんなでのびのびと米を育てたい」。 1980年代以降、米の消費量や農家の減少などもあり、減反政策は存在するものの弱まっていき、食糧管理法も新しい法になり、改正されていきました。「状況が落ち着きつつあったこの頃から、本来の農業の姿に戻ろう」と黒瀬さんは、有機栽培や農家と消費者が直接つながる自社販売を始め、大地を守る会との付き合いも始まったのです。【送料無料】おいしい・便利・安心がかなう宅配!まずはお得に、お試しセット1,980円!