古来、立春から八十八日目に摘んだお茶は、不老長寿の縁起物とされてきました。今年の八十八夜は五月一日。日本農産(静岡県根洗町ねあらいちょう)の二代目、樽井隆之さん(55歳)の茶業にいっそう気合いが入ります。大地を守る会設立当時から親しまれてきたお茶の産地を訪ねました。
一年に一度しかないその日に
「何としても八十八夜のお茶を皆さんに届けたいもんでね」
日本農産・二代目の樽井隆之さんが、生まれたてのまばゆい茶葉を見つめます。私たちが訪ねた4月の終わり、茶畑にはやぶきた種の新芽がぴんと伸びて、収穫が間もなくというところでした。
立春から88日目に収穫する〝八十八夜摘み〞のお茶は、古くから縁起物とされてきましたが、大地を守る会で扱う『新茶・樽井さんの有機八十八夜摘み』も、まさにその八十八夜当日に収穫したものを詰めていることはご存じでしょうか?
お茶は雨に当たると蒸した段階で黒ずんでしまうため、雨の日は収穫できません。加えて今年は桜の開花も遅れ、木蓮も遅れ、それにならうように茶葉の生長も遅れていました。例年4月中ごろから始まる収穫が、4月の終わりになっても緩やか。
「芽伸びは間に合うか」「天気はどうなる?」と、例年以上に気を揉みながら当日を迎えましたが、茶葉も頑張り、天気も味方してくれて、何とか収穫がかないました。
毎年こうして自然の声に耳を傾けて収穫するお茶が〝八十八夜摘み〞。大変ありがたいお茶なのです。
やわらかな新芽を採る
「お茶はね、その日に収穫した茶葉をその日に仕上げるんです。葉っぱがみるい(若い)もんでね、ほんっとにやわらかいんですよ」と樽井さん。
お茶はツバキ科の常緑樹で、摘採期を過ぎた下の方の葉はかたくなり、硬葉(こわば)と呼ばれますが、刈り取る新芽はほよほよとやわらか。華奢で陽の光に透けるほどです。
「春になると桜でも何でも木に新芽が出てくるでしょう。お茶の場合はあの新芽だけを採るんです。置いとくと傷んでしまう。だから乾燥まで一気に仕上げないとだめなんです」
1日の収穫量は1トンから3トン。しかも、新芽は伸びるにつれてどんどんかたくなるため、2週間ほどの間に全てを刈り取らなくてはなりません。ピークの時期は製茶作業が終わるのが夜11時ごろ。それでも翌朝早くから、また畑に出ます。
だんだんお茶になっていく
「お茶は蒸す工程で8割が決まる」
そう樽井さんが話します。
「蒸せば蒸すほど葉は崩れて水色(すいしょく)は濃くなります。だけど渋みも飛ぶんです。〝見るお茶〞なら浅蒸しですが、うちは形が残るぎりぎりの100秒。深蒸しでやってます」
これ以上蒸すと特蒸しとなる手前。目指すのは見た目ではなく、味と香りを重視した「本質茶」です。
蒸気の中をしっとりと濡れた茶葉が昇っていくと、ここからは「葉打(はうち)」「粗揉(そじゅう)」「中揉(ちゅうじゅう)」と、乾かしながら揉む作業が繰り返されます。
広い工場の中を機械から機械へと駆け回る樽井さん。途中幾度となく、茶葉をつかんでは香りを嗅いでいました。自然のものである茶葉は、気温や湿度で乾き具合も異なります。うまくいっているかを判断できるのは人の感覚だけ。「ちゃんと蒸せたか」「乾いたか」を全工程で見ます。
生の茶葉が、荒茶(あらちゃ)(蒸して揉んで乾いた状態)になるまでは約5時間。荒茶にはまだ香りの奥に生の青さが残りますが、仕上げの火入れを行い、最終の選別と袋詰めに進みます。
洗わないお茶だから安心を
「飲む前に洗わないお茶だからこそ無農薬で作りたい」。隆之さんのお父さん、故・樽井孝蔵さんの言葉です。
日本農産の歴史は戦後、孝蔵さんが根洗の地に入植したころに遡ります。県内の農家の末息子だった孝蔵さんは、満州から復員したあと、復員者と戦災者40人以上を束ねて三方原台地(現在の根洗町)60ha余りを開墾しました。入植当時は大人の背丈ほどの小さな松と、笹や芒が生えるだけの荒れ地。小屋を建て、ランプで暮らしながら芋類や麦の栽培から始めたといいます。お茶を基幹作物として導入したのは1950年代初めのことでした。(※1)
大地を守る会とは設立当初からの長いお付き合いです。その出会いは、ある医師が提唱していた「医農学」でした。「農業は人の生命を預かる仕事」「害虫を駆除するための農薬が人の体に影響を及ぼさないわけがない」という訴えに心を動かされ、農薬に頼らない栽培に挑戦したといいます。(※2)
先代が拓き、入植から70年以上たった今でも当時のお茶の木がそのまま活躍。太い幹に葉を茂らせて清々しい風味を届けています。
樽井さんの茶栽培は、農薬に頼らないほかに、肥料も少しのたい肥だけ。除草剤を使わない代わりに、お茶の木を覆い尽くす雑草をひたすら取っては地面に落として、土に還します。畑に出る虫は、「目を瞑ってがまん。増えてもがまん。そのうち虫同士が戦ってくれる」と、あるがままに任せて時を待つ。良い意味で自然に委ねるような栽培でした。
そんな畑のあり様に等しく、樽井さんのお茶は、逞しくてやさしい味わいです。注ぐそばからふわっと山の香りが立ち、口当たりはとろんとやわらか。最後にどしっと清々しさが抜けていきます。
6月、今年の新茶の取り扱いが終わりに近づいてきました。胸がすっとする香りに憩い、心和むひとときを味わってみてはいかがでしょう。
※1 参考:「自立 38周年記念根洗松開拓誌」1984年(根洗松開拓農協/浜松市)、※2 参考:「家庭画報」1983年8月号(世界文化社)
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