「農と自然の研究所」東京総会。農の情念を語る人、宇根豊。
昨日(8月5日)、
NPO法人「農と自然の研究所」の東京総会というのが青山で開かれた。
この研究所の本部は福岡にあり、宇根豊さんという方が代表をしている。
会員は全国に885人。私もその一人である。
この宇根豊という人物。
農学博士の肩書きを持つが、
もとは福岡県の農業改良普及員(農業の技術指導をする人。県の職員)である。
その、まだ若かりし普及員時代の1978年、今から約30年も前、
当時の農業指導理論の常識を逆さまにひっくり返して、
初めて‘農薬を使わない米づくり’を農家に指導した公務員として知られている。
それは「減農薬運動」と言われた。
ただ‘農薬をふるな’というのではない。
マニュアル通りに機械的に農薬を撒くのではなく、
一枚一枚微妙に違う田んぼの様子をしっかり観察し、害虫の発生状態を自分の目で確かめて、
本当に必要な時に撒くことが農業技術だ、と伝えていったところ、
農薬散布が劇的に減っていった、という話である。
当たり前に持っていたホンモノの百姓仕事をしよう、と言ったのだ。
これは農民の主体性を取り戻す運動となった。
僕と宇根さんとの出会いは1986年、
東京・八王子で開催した「食糧自立を考える国際シンポジウム」だった。
米の輸入自由化が社会的に大きな議論を呼んでいた時代。
アメリカやタイ、韓国など、たしか10カ国くらいから農民や研究者が集まって、
食料の自由化がどんな問題を孕み、どんな影響を与えるかを討論した、
かなり画期的な国際会議だったと思う。
大地はこのシンポジウムの事務局団体のひとつとして参加していて、
宇根さんには、日本側パネラーの一人としてお願いし、招聘していた。
彼は海外からやってきた農民や研究者の前で、
「赤とんぼは、田んぼから生まれるのです」 とやったのだ。
「田んぼはたくさんのいのちと文化を育んでいる」
農民団体が「一粒たりとも・・」とか叫んでいる中で、
僕は宇根さんによって、
「もっと視界を広く持て」 と教えられたような気がしたのである。
さて、思い出話はともかく、
彼は、周りは敵だらけの減農薬運動から始まって、
その後も思想を深め、理論を発展させ、2000年、とうとう県職員を辞し、
活動を10年と限定して「農と自然の研究所」を設立した。
研究所を設立してからは、田んぼの生き物調査の手法をガイドブックにまとめて
全国に広げる一方で、自らの思想を「百姓学」として構築しつつある。
福岡県は、この生き物調査を「県民と育む農のめぐみ事業」と称して、助成金をつけた。
環境に貢献する農業仕事として、価値を認めたのだ。
そして昨年、研究所は朝日新聞社の『明日への環境賞』を受賞した。
見事なたたかいっぷり、と言うほかない。
宇根さんは、いま僕が最も尊敬し、注目もしている‘思想家かつ実践家’の一人である。
しかし、宇根さんの思想は、僕の力ではなかなか解説できない。
たとえば、こんなことを言う人なのである。
お金に換算できない百姓仕事が、実は自然や環境といわれるものを一緒に育ててきた。
近代化や科学には、この価値がとらえられない。経済合理性の目では‘見えない’のだ。
私たちはその広大な世界を見つめ直さなければならない。
あるいはこうだ。
田の畦草刈をしていて、カエルが足元の草刈り機の前を跳んだとき、私は立ち止まる。
何回も立ち止まってしまう。
それを経済学者は生産効率を低下させる無駄な時間だととらえる。
また生態学者は、この田んぼにいるカエルの数から見て、数匹殺したところで影響ないと答える。
しかし、2~3匹斬っちゃっても問題ない、と立ち止まることをしなくなった時、
私の生き物を見る‘まなざし’は、間違いなく衰えるのだ。
彼が目指すのは、‘農と百姓仕事の全体性’の復活と再構築、とでも言えようか。
それを土台に据えて、虫たちとともにたたかいを挑んでいる。
まるで『風の谷のナウシカ』のオウムのようだ(ナウシカでなくてすみません)。
そして圧巻だと思うのは、こんな表現である。
私たちが美しいと感じる風景は、生き物たちの情念によってつくられている。
それを見る百姓の情念と交錯しながら、
「環境」や「自然」はたくさんの生き物たちと一緒に育てられてきた…
たとえば、ここにある大地の稲作体験の風景。
この風景は、すべて生き物によって構成されている。
生き物たちの「情念」で満ちている。
私たちヒトは、その「情念」と交感できているだろうか。
「情念」というコトバを、そのコトバのもつ情感も含めて使いこなせる人を、
私はこの宇根豊という男以外に知らない。
話が長くなってしまった。でもここまできて、途中で終わるわけにはいかない。
この項続く、とさせていただきます。