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農業でちゃんと食べていく

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いんげんが生る緑のトンネルの中を案内してくれる、くらぶち草の会の創設者で現・相談役の佐藤茂さん。生まれ育った場所を守りたいと、新規就農者の受け入れを積極的に行っています。

始まりはたった3軒の農家から。今から35年前、群馬県西部の山間の地、倉渕町(旧・倉渕村)で、生産者グループ「くらぶち草の会」を立ち上げ、新規就農者を育て続けてきた人がいます。グループの創設者、佐藤茂さん(71歳)を訪ね、今、私たちにできることを考えます。

山間の地で新旧が学び合う”くらぶち”の畑

「あの山の手前、軽井沢のこちら側までが倉渕町です。いいところでしょう」と、標高約900mの畑を案内してくれるのは、「くらぶち草の会」(群馬県倉渕町)の創設者、佐藤茂さん。指差す先に、八ヶ岳から浅間山、谷川岳まで、稜線が連なる眺めが広がり、足元の土には鹿か猪か、動物の足跡がいくつも残っています。
ここ、倉渕町は高崎市の中心部から北西に25㎞ほど。面積の8割以上が山地で、冬は農作業ができないほど雪に覆われる山間にあります。

倉渕町を源流とする烏川の清流が町の中央を流れます。さらさらと水音が響くのどかな山間。

そうした山間部の集落で佐藤さんを中心に3世帯が集まって、1988年、くらぶち草の会は発足しました。以来、「農薬や化学肥料に頼らない栽培」を方針に掲げ、積極的に新規就農者を受け入れています。
設立から35年たった今、くらぶち草の会は42世帯の大所帯になりました。そのうち新規就農者は26世帯と半数以上を占めています。農業を行うにも暮らすにも、決して便が良いとはいえないこの場所に、多くの人が集まるのはなぜでしょう。
岩﨑俊宣さん(28歳)も新規就農者の一人。会発足よりもずっと後に生まれた若い世代です。
「就農して今年で3年になります。いろいろな就農先を見ましたが、ここまで人が根付いている場所には出会えませんでした。野菜作りは、こうしたらこうなるという結果の積み重ね。先輩方のケースが大きな学びになっています」と岩﨑さん。
くらぶち草の会の新規就農は、先輩農家のもとで1〜2年の研修を経て、その後、独立して会員となり就農するというしくみです。入会後は、会の販売先に出荷できるうえに、就農後3年までは、新規メンバーの出荷希望を優先するなど、支援体制が整えられています。「採れたのに売れない」ということがないように、手を貸してくれるのです。
この日、岩﨑さんが見せてくれたピーマンの畑は、昨年病気が出て収穫量が減ってしまったため、今年は畝を高く立てて湿気を逃がし、わらを敷いて土の温度を調節するなどして、様子を見ているといいます。安心して挑戦できるのも、グループの支えがあってのことです。
一方で佐藤さんもまた、若い世代から受け取るものがあるといいます。
「マルチシート(畝を覆う農業資材)で雑草を抑制する太陽熱消毒も、新規就農の人が編み出した方法です。ズッキーニも新規の人が食べたいというので作り始めました。地域に入ってきてくれてありがとうというのが一番だけど、新しい人たちの柔軟な考え方にも感謝しています」。
新しい風を拒むことなく、やさしいまなざしで受け入れる佐藤さん。
「変わらないと化石になっちゃうから」と、進化することも忘れません。

小学生のころから花や野菜を育てていたという東京都葛飾区出身の岩﨑俊宣さん(右)と佐藤茂さん(左)。歳の差40以上の2人が、畑で学び合います。
岩﨑さんのピーマン畑。マルチシートによる太陽熱消毒で雑草を抑制中。シートの下の土は80℃になり、除草剤を使わずに栽培ができます。これも会から得た知恵。

“当たり前”を実現するために

佐藤さんが農家を継いだのは、くらぶち草の会発足の3年前。時代はバブル経済の真っ只中で33歳のときでした。お父さんを亡くし、残された家族3人で懸命に働いても「生きていくのがやっと」の収入しかなかったといいます。
「野菜を作っても、作っても、稼げなかったんです。市場に出荷しても自分で値段を決められず、納得のいかない安値で販売されました」。
そこに公平な取引はありませんでした。真っ当な販路がないならば、自ら売ろうと試行錯誤したこともあります。そんな矢先に出会ったのが有機野菜の宅配ネットワーク。新聞に生産者募集の文字がありました。
「堆肥を使って土を強くし、化学肥料には頼らない。そうした野菜作りは、自分がずっとやってきた農業の原点。当たり前のことでした」。有機野菜の宅配ネットワークが相手なら「農業で食べていける」と集落の仲間とグループを結成し、すぐさま取引を始めたといいます。
「普通に食べて、普通に生活していきたかった」と創設当時の思いを話す佐藤さん。農薬に頼らず野菜を作り、その正当な対価で家族を養う。くらぶち草の会の立ち上げは、佐藤さんにとって特別ではない、当たり前のことを実現するための一歩だったのです。
「耕作放棄地ができるのは農業で食べていけないから。食べていけるようにしなくては、若い人は来てくれない」と佐藤さんは話します。その思いは、若い世代にも引き継がれ、農業で食べていく力が、ここ、くらぶち草の会で育っています。

花が落ちないようにする農薬もあるなか、佐藤さんは使いません。果肉の密度が濃いミニトマト。
2013年、グループのメンバー皆の手作りで建てた出荷場兼事務所。ここに作物が集まります。

和気あいあい、いんげんの袋詰め

この日は、佐藤さんの畑で朝8時からいんげんの収穫が始まっていました。畑には約15カ所のアーチ型の棚が並んでいて、蔓が巻き付き、葉が覆い、いんげんがぶら下がって生っています。人一人が通れるの緑のトンネルの中を、2人が両端からそれぞれ収穫していきます。ぷちんぷちんと蔓から一本一本を外していく作業。定規も使わず16〜22㎝の長さを見分けて採り、大きいものは足元に落とします。残しておくと栄養を取られ、木の力を弱めるからです。
「いんげんは水で育っているようなもんだから、雨が降らないと曲がったり、短かったりしてしまう」と佐藤さん。この畑には水が引かれていないため、水やりも空の機嫌次第。ただ雨を待つしかないといいます。それでもこの日、立派ないんげんが、かご4つ分も収穫できました。
午後の袋詰め作業では、さらに選別し、量って袋に詰める人、テープで留める人と手分けして進めます。
ここまで見る限り、ほとんどの作業が人の手で行われていました。人間以外の力に頼るのは、重さを量る「はかり」だけでしょうか。農薬や化学肥料はおろか、機械にも頼らず皆で和やかに手を動かすのみ。それでも効率良く出荷が進んでいきます。

佐藤さんの畑のいんげん。「いちず」という品種名の通り、まっすぐに育ち、やわらかな食感です。
収穫したての佐藤さんのいんげん。目で測って採ったサイズが、お見事、規格内にそろっています。
佐藤さんの自宅横に手作りで建てた作業場で、いんげんの袋詰め。慣れた手つきで曲がったものや大き過ぎるものを選り分けていきます。 生長スピードが早いいんげんは、すぐに出荷サイズを超えてしまうため、毎日収穫しています。

未来へつなぐ環境作り

日本における農業の担い手は、全国的に減少の一途を辿っています。2005年には約224万人だった基幹的農業従事者が、2020年には、約136万人に。また、2020年の最多の年齢層は「70歳〜74歳」で、従事者は依然として高齢層が中心です(※)。
この状況に反して、着実に新規就農者を増やし、育成に取り組んできたくらぶち草の会では、国のそれとは異なる推移を描き、佐藤さんの家でも、息子さんの陽亮さん(37歳)が2013年に就農しています。
また、有機農業を取り巻く状況もずいぶん変わり、グループ発足のころと比較すると、サステナブルが謳われ、オーガニックという言葉もだいぶ浸透しました。くらぶち草の会にも、30代を中心に、有機栽培に関心を持って訪れる人が増えてきたといいます。

佐藤茂さん(左)と長男の陽亮さん(右)。陽亮さんは東京で働いていましたが、茂さんの病気をきっかけに就農しました。

これまでの会の歩みは、担い手の減少が止まらない日本の農業に対して、一つの希望を示しています。新規就農者受け入れ・育成の取り組みが広がっていけば、それは当然、持続可能な農業の実現へとつながっていきます。ただ、そのためには生産者だけが努力するのではなく、私たち流通者、消費者も一体となって、信頼感のあるフェアな関係性を作り、健全な循環を支える必要があるでしょう。
大地を守る会の野菜セットや定期ボックスを注文していると、何かしら、くらぶち草の会の野菜が入ってきます。みずみずしいレタスやきゅうり、甘みの濃いトマトなど、「ちゃんと野菜の味がする」健やかなおいしさです。しかし、そうした野菜が食卓に届くのは、〝当たり前〞を陰で支えてくれている、佐藤さんたちのような生産者がいるからにほかなりません。野菜を食べる私たちも、未来を見据えながら、応援の気持ちを忘れずにいただきましょう。

※出典:農林水産省ホームページ「令和3年度 食料・農業・農村白書(令和4年5月27日公表):特集 変化(シフト)する我が国の農業構造」。基幹的農業従事者とは、15歳以上の世帯員のうち、ふだん仕事として主に自営農業に従事している者(雇用者は含まない)。

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大地を守る会編集部

大地宅配編集部は、“顔の見える関係”を基本とし、産地と消費地をつなぐストーリーをお届けします。